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【From My Bookshelf】
Vol. 43
『59-60 奥田民生の 仕事/友達/遊びと金/健康/メンタル』
奥田民生(著)
高度な脱力主義に学ぶ俺流ロック観

06 February 2025 | By Takujuro Iwade

奥田民生に影響受けてない人っているの? って友達が言ってた。

確かに、いるの?

いや、友人の1人は確か、親が奥田民生を嫌いで触れさせないようにされたから、ほとんど聴いたことがないと言っていた。そんな人もいるのかと思ったが、奥田民生をわざわざ嫌って聴かせないっていうのは何か珍しい気もする。そんな彼もパフィーの曲はよく知っているようだった。

まあ音楽をやっている自分の周りの、似たもの同士の友人の集まりを起点に考えるからそんな風にも思うのだろうが、特にインディー的なロック、ポップスを志向した音楽をやってるような人は、大抵、奥田民生を一回は聴いている気がする。特に、30代以上はそうだろうし、民生的な脱力にどこかで感化された人となると、音楽に関係している人だけに限らずグッと裾野が広がるだろう。「奥田民生になりたいボーイ」というフレーズが含まれるタイトルの漫画もあったくらいだ。

自分と奥田民生との出会いは、小学生の頃だったろうか。 母親が井上陽水が好きで、中学生だった多感なウチの兄貴が陽水にどハマりし、家族を巻き込みコンサートに皆で行った。井上陽水が奥田民生と連名でリリースしたアルバム「ショッピング」が親戚の車の中でかかっていたような記憶がある。そこからウチの兄貴は自然に民生の電波をキャッチし、民生のライヴにも家族で行くことになる。陽水のコンサートとは違い、若者が多く、ライヴが始まるや否や、一気に皆んな立ち上がって盛り上がった。親父は周りを注意しようかと思ったらしいが、その間も無く、我々家族は瞬間に置いていかれることになった。そんな民生の初ライブを小学生で経験した私は、兄貴が作った民生ベストのCDRを学校から帰って家に誰もいない1人の時間に聴いていた。今思えば、それが音楽に1人でジンワリと感じいった初まりだったかもしれない。「愛する人よ」を午後の低い日差しの部屋の中で聴くことが何か自分の深いところを作り上げたんだろうと思う。

それから約20年、音楽を作ったりしている。 だから自分にとって、奥田民生は割とルーツ的でかなり大事な位置を占めている。従って、この書評も個人的な話が多くなるかもしれないが許してほしい。

近頃の荒れ果てたSNSの世界に慣れた身には、「民生的な脱力ってなんなんだっけ」と思われてしまうところでもある。この本を読めば、「脱力」の感覚は、実家に帰った時のように復活してくるどころか、時を経て還暦を迎える民生から語られる言葉から、イメージは新鮮に刷新され、その重要性について再び考えさせられる。

この本の内容としては、民生の人生哲学のようなものが平易な言葉で、リアリスト的でありつつドライすぎないバランス感覚に満ちた生き方の指針として語られていく。

第1章の「仕事」では仕事との距離感が語られる。1位はめんどくさいから8位くらいでいいという仕事に対する態度や、意外と実践的なチーム論や20〜50代で仕事との向き合い方がどう変わっていったかなどの仕事論が書かれる。第2章「友達」では、仕事仲間も友達だという。会っても会わなくても死んだりしてても友達は友達だというのは印象に残る。第3章「遊びと金」では、ゴルフや釣り、酒などの遊びでのお金の使い方について語られるが、頑張って遊ばなくていいと最初に言っている。実際どれとも適度な距離感で楽しんでいるようだ。第4章「健康」では、歳を経るにつれての老化と健康法について。第5章「メンタル」ではいくつになってもクヨクヨしてもいいということや、飽きないためにサボるということなどが語られる。締めがメンタルについてなのは現代っぽくも、本質的である。

一読して、民生みたいな適度な距離感で生きることができるかというとわからないが、できればそういうテンション感を持ち続けていたいなと思った。今は情報が多いから、こだわりすぎたり悩みすぎたりしてしまうこともよくある。しかし、自分のできることはこれくらいと割り切ってしまう指針のようなものをどこかで持っておくと、力が抜けより良い結果を生むことに繋がるのかもしれない。そう書くと、賢く華麗な生き方のようにも思える。民生氏自身もクヨクヨしやすい、とのことで、それは救いでもある。

このような態度は、彼の活動の中で語られてきたことなのではないかとも思う。

ユニコーン中期以降の独特の伸びた譜割と浮遊感のあるメロディ、哀愁を帯びたクラシカルな響きと絶妙な着地をするコード進行、日常的なテーマが逆にシュールになっている歌詞、ソロやパフィーでの遊び心と脱力感、後年の燻銀的な動かないメロディなどなど、その中に常に潜んでいる。その美学は、民生ベストを聴いていた小学生の俺のどこかに種を忍ばせ、まだ蔓を伸ばし続けている。

民生の活動に触れることでというのもあるが、一昔前の良識ある大人のバランス感覚とも言えるようなものが書かれている気がする。家族が言うことを聞いているようななんとも言えない懐かしさがあるのは、自分だけだろうか?

前述のウチの兄貴が中学3年生の時に書いた、クラスの卒業文集みたいなものの中に、「ロックはダラダラすることだというのを民生から学んだ」というような一節があった。この「ダラダラ」というのは脱力感なのか、自然体ということであろうか? 確かに当時の流行のカッチリした他の音楽と比べると、多感な15歳からしたら「ダラダラ」と表現できたのだろう。その真意はわからないが、俺はこれを子供のころに読んで以降ずっと「ダラダラ」を大事にしないとな、と無意識に思い続けてきたのかもしれない。

面倒くさいと思うことが大事だということを、民生は昔のエッセイでも言っていた。一様な頑張れソングに感動できない、そういうものに対する反抗として、やる気をなくさせる曲があってもいいじゃないかとも。横尾忠則が、めんどくさいから描かないということも作品を作る上での選択として取り入れている、というようなことを言っていたのを思い出す。

しかしこの本では、時を経て60にさしかかった民生はコスパやタイパ的な思考も嫌いじゃない、無意味なダラダラから生まれるものはない、道草に見返りを求めるな、理系だからかムダは断然嫌いだ、とも語っている。

これは無意識で「ダラダラ」信仰だった自分としては少し意外な気もして、また少し寂しくなるところでもあった。が、確かによく考えてみると、無理に頑張らないで力を抜きどころを考えるということは、ムダを省くということに繋がっていく。

「民生的脱力」は、パワハラとかも当たり前のみんなが頑張らされていた競争の時代、頑張っている感じにしないといけない状況におけるカウンターだったのだろうと思う。時代が進むにつれて風潮としては「ムダを省く」が「効率化」「結果重視」というような形相になっていく。

民生は、しかしその後のページで、ダラダラするならあえてやれ、仕事においてはムダから生まれるものもあるし、あえての道草で楽しい方向にフラッと行くのもいい、とも言っている。

本物の民生の脱力は、ネオリベ的な「生産性重視」というような冷たい感じはまるでない。その以前の時代の、大事なものを失っていない考え方という気がする。そこに懐かしさを感じるのかもしれない。

その、大事なものって何だろうか。

結局のところ、民生は道中楽しんでいる感じがする。ムダは嫌いと言いつつも、レコーディング中のムダな時間があるからこそできているのかもしれないとか、結局多少のムダがあった方が楽しいんじゃないかと言っている。それらは、形式上の長い会議などのような本当にムダなものではない。むしろ形式から離れることができる時間だろう。

あえてダラダラすることは意外と難しいことだ。ツイッターを見るとかそういうことじゃないと思う。あえて何もしない、目的的にならないことで、それは人間的な時間を取ることでもある。人間的な時間というのは、ボーッとしていたりただ好きなことをしたり生きている実感がある時間のことだろう。意識的にそれを増やすことが重要なんじゃないかとも思う。反面、意識するとあえてそれをやろうと頑張ってしまう、わざと感も生じてくる気もする。だから、まあやらなきゃいけないことをやりつつ、というのも大事なのかもしれない。脱力ってそのバランスだろうか。

最後の項目で、生きる理由なんて明日用事があるからでいいんじゃないか、と言う。

用事を思い出して、めんどくさいけど行く。

そんなところにも高度な「脱力」が潜んでいる気がする。(岩出拓十郎)


Text By Takujuro Iwade


『59-60 奥田民生の 仕事/友達/遊びと金/健康/メンタル』

著者 : 奥田民生
出版社 : ダイヤモンド社
発売日 : 2024.10.19
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