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【From My Bookshelf】
『戦前音楽探訪』
寺尾紗穂(著)
名もなき人々の暮らしに宿る、名もなき歌の力

24 July 2025 | By Shino Okamura

寺尾紗穂は現代日本におけるアラン・ローマックスかもしれない。最近、ふとそう思うことが増えている。寺尾はもちろんシンガー・ソングライターなので音源収集、調査だけに軸足を置いた活動をしているわけではないが、彼女の行動力、あるいは邪気のない熱意がもたらす結果こそは、アメリカン・ルーツ・ミュージックの研究を生涯に渡り重ねてきたローマックスの功績にも比肩し得るものではないかと思う。私はこの本を手にする前から、『アラン・ローマックス選集』と、中村とうよう著『収集百珍』の横に並べることを心に決めていた。そして、実際に、ちょっとサイズが小さなこの本が、自分の本棚の中で大先輩の名著2冊に挟まれて気恥ずかしそうにしているのを眺めるのがとても気持ちいい。

本書は月刊『ミュージック・マガジン』2019年1月号から2024年12月号まで連載されていた「寺尾紗穂の戦前音楽探訪」をまとめたものだ(新たな書き下ろしも含まれている)。題名そのままに、日本の戦前の大衆歌をとりあげたものだが、あくまで寺尾の日常生活の体験、経験、行動に紐づいたエッセイであり、しかも非常に軽やかで風通しがよく、一つも肩肘が張っていない筆致なので、学者による論文のようなものとは全く異なる。近年、批評・評論へのアプローチが何かと盛んだが、遠い昔の時代の音楽を、何より愛情と情熱と、真摯な眼差しで手繰り寄せるような姿勢には、私も物書きの端くれとして、連載時から大いに励まされてきた。もちろん、彼女はその歌の由来の土地に実際に足を運び、地元の人に話を聞き、時には図書館などに籠り、文献や資料を丁寧に読んでいる。このあたりは足を使ったアラン・ローマックスのひたむきな行動力を思わせるだろう。けれど、情報だけを入念にリサーチするのではなく、証拠をもとに事実を徹底的に追い求めるのでもなく、その歌の背景に眠っているエピソードに触れ、そこから想像力を働かせて物語を自分なりにこしらえる。非常にクリエイティヴ、というより、クラフツマンシップの高いことを彼女は文章にする前に既にやっているのだ。

ここで取り上げられている歌は、作者や歌い手の名前より歌詞やフレーズが口伝いに残ったり、逆にいつのまにか記憶の彼方に消えてしまっていたりするような古謡だ。本来、たいそうに仰々しく研究されるより、こうして誰からともなく伝承されていくのがふさわしい。実際に寺尾の文体はそれ自体がまるで子守唄のように、読んでいて気持ちが穏やかになる。たとえそれが特攻兵が作った悲痛な替え歌を扱ったものであったとしても、かつて、サイパンで行われたこと、満州で起こったことは全て歴史の中における事実であるということを伝える曲だったとしても、寺尾の文章は人々に緊張感を強いるものではない。戦前の戦争にまつわる歌の多くは軍歌だったり、戦意高揚をもたらすものであり、今の時代でも右翼の街宣車が使用していたりもするが、それらの歌そのものを否定して葬るのではなく、そうした歌を歌わされていた罪なき市井の人々の心根をいかように慮るのかを考える必要があるのではないか。寺尾は本書でそう主張しているように思える。その点で、本書の中の「隣組」の回が私は特に好きだ。

『ミュージック・マガジン』の連載コーナーはやや後ろの方にあって、しかも寺尾のこの連載はモノクロ1色による1ページだったので目にとまりやすいとは到底言えなかったが、ある時期から私はこの連載をどこよりも最初に読むようになっていた。それは、かつてどのページよりも「とうようズトーク」から開いていたあの習慣を久しぶりに私に思い出させてくれるものだった。きっかけは、この連載でとりあげているのは、大きくみて、国(日本)への忠誠に疑問も持たず、つつましく生活している庶民の健気で力強い息吹を伝えるものだとわかってからのことだ。どの回からも、戦争など絶対にやってはいけない、誰にでも心が豊かな暮らしがもたらされるべきという彼女の強い願いがこめられていることに気づいてからというもの、大衆音楽の真実は浮ついた批評の中になどあろうはずもなく、米の値段に一喜一憂し、選挙に清き一票を投じる我々庶民の暮らしの中になければいけない、という思いで寺尾の連載ページを開くようになっていた。改めて全ての連載回をまとめた本書を読み終えて心に誓ったのは、名もなき人々の暮らしに宿る、名もなき歌の力と、それを伝承しようとする小さな働きかけを私も今こそ信じてみようということだ。(岡村詩野)

Text By Shino Okamura


『戦前音楽探訪』

著者 : 寺尾紗穂
出版社 : ミュージック・マガジン
発売日 : 2025.6.17
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