「彼のパフォーマンスは観客の咳すらもコントロールしているかのようだった」
chori──ライヴ・ハウスの現場を愛した京都の詩人
choriという詩人をご存知だろうか。茶道裏千家の家元の長男として京都に生まれるも、詩人としての道を歩み始めた異端児。詩壇の中枢で活動することより、ポエトリー・リーディングでライヴ・ハウスに出演したり、バンドでステージに立つことを好んだ。それどころか、実際にライヴ・ハウスでブッキング・スタッフとして様々な企画をしていたこともある。
そんなchoriには、この夏、彼にとって縁の京都のライヴ・ハウス《VOXhall》で取材をする予定になっていた。彼の40歳の誕生日である11月10日にリリースされる『ちょりびゅーと』というタイトルがつけられたベスト・アルバムに合わせて話を聞くためだ。しかし取材直前、8月20日に彼の訃報が届いた。突然だった。いや、近いところにいる人は、彼の命の灯が尽きようとしていることに気づいていたのかもしれない。
choriに会うことはもうできなくなってしまったが、生前親しくしていた二人に急遽話を聞くことができたので、ここに対談として公開する。choriがパフォーマーとしてステージに立つ現場を多く見てきた京都・二条のライヴ・ハウス《nano》の店長であるモグラ氏と、choriの活動を支え、自身も詩人としてポエトリー・リーディング・バンド“ムシケ”のフロントとして活動、今回リリースされた『ちょりびゅーと』のプロデューサーでもある小島基成氏。choriとはどんな人物だったのだろうか。
(インタヴュー・文/岡村詩野)
写真提供/小島基成氏、ディスクユニオン 協力/《nano》、西村紬
Interview with Motonari Kojima, Mogura
──お二人とchoriさんの最初の交流から教えてください。
小島基成(以下、K):僕は京都精華大学に通っていたんです。で、在学中に、確かchoriが《詩人失格》っていうツーマン・ライヴをやろうって言って。それを《nano》さんでやるからっていうので 。おそらくそれがモグラさんとの初めましてだと思います。
モグラ(以下、M):ああ、持ち込みイベントの出演者で出たのが最初か。それが何年?
K:2009年頃かな……その頃には僕とchoriはもう付き合いがありました。京都は大学が集まってる町なんで、コンソーシアムといういろんな大学の単位を受けることができる制度があるんです。その中の一つに、平安女学院で教授されている平居謙さんの詩の授業があったんですよ。基本は講義やったんですけど、その関係で受講生が同人誌を発売するイベントがあって、そこにchoriがゲストに来てライヴ・パフォーマンスをしていたんです。そこで僕も朗読をやらしてもらいました。
──小島さん自身もずっと詩人としてご活動だったんですか。
K:そうですね。高2ぐらいから。うちの師匠が朗読詩人やったんですよ。今野和代という、最近は小野十三郎賞とか受賞してる朗読詩人なんですけど。その流れで朗読をやったことはありました。ただ、音楽のトラックに合わせてパフォーマンスするっていうのはchoriと会うまでは体験したことなかったんです。でも、実はchoriも京都精華大なんですよね。先輩ですけど彼が学生の頃は全然付き合いはなかったです。ただ、当時、インターネットで詩を発表するっていうのがすごく盛んで、詩の投稿サイトにchoriはよく投稿していて。僕が大学を選ぶ時に、大学の情報を調べていたら、ウィキペディアの出身者のところに「chori(詩人)」ってあって。なんだこれはって思って調べるとその詩の投稿サイトが出てきて、そこで彼が投稿してたのが、“「元カノが結婚した」っていうのと、「レイプされた」っていうのとどちらが辛いんだろう……”みたいなことを綴った詩だったんです。それがものすごく衝撃的で。こんなことを書く詩人がいるんだ、しかも同世代なんだ、と強く意識しました。当時choriは《詩学》最優秀新人賞を受賞した頃なんで、すごいキザな、ウォークマンをつけて壁に寄りかかってるみたいな写真が公開されたりしていて、こんなにスタイリッシュな詩人っていうのがあり得るんだってビックリして。
──choriさんは、一方的にモグラさんのことを知っていたようです。彼が中学生の頃、《西部講堂》で開催されたイベントにモグラさんが出てたのを見てたそうですね。
M:そうそう。ゆーきゃんが仕切ってやってた《フライパンロックフェスティバル》っていうイベント。そこにキセルとかCHAINS、サンプリングサン、ヒグラシとか。当時の京都を賑わせてたネクストくるりみたいなバンドがたくさん出てたんです。あれ、《ボロフェスタ》より前なので2000年か2001年くらいだったと思います。ただ、その時、僕もまだ普通に遊びに行ってて。でも酔っ払って、勝手にステージ上がってお客さん煽ったりとかしちゃって。出演者でもないしクレジットもされてないのに(笑)。たぶんそれをchoriが見て、なんかやばいお祭り男がおるみたいに思ったんじゃないですかね。当時、僕は大学に8年行ってるんで、ギリ在学中でした(笑)。こちらもchoriのことは全然知らない。ただその後に詩のイベントがあって。その頃にはもう名前は聞いていました。choriっていうやつがいる、茶道裏千家の御曹司らしいって話題になって、なんか情報多ない? って話が出てたりもしてました。その後《SCRAP》(リアル脱出ゲームで知られる会社)の企画《乙女チックポエムナイト》にchoriが出たんです。そこでトラック使ってラップ的なパフォーマンスを見せていて。ポエトリー・リーディングっていうものは普通にあったし、音楽として触れたこともあったし、そもそもこれがchoriか、なんか鼻につくヤツやなと思った。それが第一印象。とにかくめちゃくちゃかっこつけてスカしてたんです。ただ、カッコつけすぎてサマになってないとかではなかった。ステージに立つ人間としての輪郭ははっきり見せてもらったっていうところはありましたね。彼が20歳くらいの時じゃないですかね。
──2000年代半ばから後半ぐらいに大きな動きが集中して、色々な方と交流が始まった。
K:そうですね。その頃choriは《VOXhall》(京都のライヴ・ハウス)でブッキングマネージャーをしていたんですけど、そこで彼が可愛がってるバンドを出演させたりもしていました。で、choriがいいって言ったバンドが《nano》に出演してモグラさんに酷評されるとへこんでまた《VOXhall》に帰ってくるってパターンもあったり(笑)。
M:そうそう。choriは詩人だけどミュージシャンとしてのマインドもあるから、歌詞が光るバンドとかアーティストにすごく反応するんですよね。まだ演奏スキル的には仕上がってないかもしれないですけど、こいつらはいいものを作るよっていうので、僕のところにも引っ張ってきて紹介してくれるんですよね。でも僕が見たら、演奏面ではもう全然ダメで。言うてることはわからんでもないけど、良いバンドになりそうやけど、さすがに厳しいんちゃう? みたいな子が多かったんですよ。ただ、choriの紹介がきっかけで、僕との付き合いが深くなっていったアーティストはいますね。村島洋一とかBAA BAA BLACKSHEEPSとか“それでも世界が続くなら”もchori経由でした。choriがもたらした流れは大きかったかも。
──そして、choriさんは《nano》でもブッキングを手伝うようになった。詩人としてパフォーマンスもするけれど、京都のライヴ・ハウスで裏方的な仕事もしていたのは興味深いですね。
M:自分やったらこういうイベントを作るっていうイメージが膨らんで、きっと僕にイベント企画させてくださいって言ったんやろね。その頃って、choriはローカルのテレビ番組とかにも出てた。いろいろな伝統芸能の家元の息子を3人4人ぐらい集めて、京都のいい店巡るみたいな企画の番組も見たことがある。裏千家の跡取りがなんかやっとるわって感じで話題になってたな。
K:でも、詩人だけで食っていけないからアルバイトも当然やってたと思う。そういう意味で自分が好きなことをやりながらご飯を食べるっていうのが1番向いてるので、ブッキングっていうの選んだんかなとか思いますね。
M:普通に、やりたいことやったんやろうね。
K:ただ、一部ではブッカーをしてるchoriっていうのをあまり評価してない人もいた。僕もアーティストとしてもっとストイックに表現をしていってほしいっていう思いがありました。
M:それは僕も思ってた時はありますよ。人の世話してる暇ないやろお前! みたいな。どっちつかずになってない? みたいな。いざステージに立ったら、いいものは見せるけど、いまいち突き抜けきらんみたいな。やっぱちょっとエネルギーの比重のかけ方間違ってんじゃないのみたいなことは思ってた時期はありましたね。でも、あいつ多分ね、“人”が好きなんですよね。パフォーマンスもずっと1人でやってるし、人との繋がりができていくのが多分めちゃくちゃ嬉しかったんちゃうかな。人たらしで、構ってもらいたがりで、構ってもらうために何をするかって。若いミュージシャンからとかもchoriさんchoriさんって言われて嬉しかったと思うし。
K:ですね。僕は交流を持った時にはもう“ブッキング・マネージャーのchori”やったんですよ。《VOXhall》でこういう新人のイベントあるから出なよみたいな感じで呼ばれて、それで僕は初めてライヴ・ハウスに出演することになった。その時からもうブッキング・マネージャーとしてのchoriと、アーティストとしてのchoriが混在してるように僕は見えてたんです。もっとライブでしっかりやっていかないともったいないよっていうのをすごく強く感じてたんですよ。そう思っていた人は多いと思います。
M:でも、ブッキング自体はすごく熱を入れてやってた。僕みたいにブッキングを専門でやってる人間と同じぐらいの熱量でもってやってるのは伝わってきてて。いい企画やるな、というのは感じてた。だから《VOXhall》を辞めるってなった時に「chori、ウチでやらへんか」って、普通にめちゃくちゃ無邪気に声かけたんです。
K:確かにchori、《VOXhall》を日本一のライヴ・ハウスにするんだって公言して頑張ってたんで、辞めるっていうのは衝撃やったんですよ。5年くらいは《VOXhall》にいましたからね。でも、すぐ間髪入れずに《nano》にヘッドハントされた! って当時結構衝撃的に受け止めた人は多いんちゃいますかね。少なくとも僕はそう感じてました。それに、《nano》に入ったらモグラさんの影に隠れちゃうんやないかな……って心配もありましたし。モグラさんのブッキングと彼のブッキングのコントラストで結構悩んでたようなふうにも思えて、《nano》でどう自分の個性発揮していくかっていう。
M:でも、ここぞという時にえぐい企画を組んできてた。覚えているのは、“それでも世界が続くなら”、BAA BAA BLACKSHEEPS、サモナイタチの3マン。BAA BAAがすごく良くって、choriと僕と、まーこおばちゃん(《nano》のオーナー)の3人が後ろで泣いて見てた。それを見た“それせか”の篠塚(将行)が「ここがライヴ・ハウスだ!」って思ったらしい(笑)。ただ、ふと、「choriは詩人やったな、そっちを大事にした方がいいんちゃう」みたいな気持ちにもなっていて。俺も声をかけて来てもらったものの。そこまで自由にはブッカーとしては羽ばたけなかったのかもしれんなって。
K:その頃choriはバンドをやってたじゃないですか。あれ、結構本気だったと思うんですよね。
M:そう、あの頃はchoriバンドで腹決めてこう売れようっていう風にやっていってたと思う。それと、《nano》で働いてる後半ぐらいで、彼が“家”を抜けるんですよね。裏千家の家元の跡取りを弟に譲る形で。だから、“千”っていう苗字を名乗れなくなって、菊地っていう名前になった。それもあってなのか、当時付き合ってた彼女に振られるんですよ。“家”を出た途端。そこから一気に崩れ出しましたね、あいつ。体調的にも。ブッキングを月に数本振ってたりはしたけど、それを組めなくなって、次第に連絡も取れへんなった。仕事を飛ばすみたいな感じになってしまってて、choriバンドの方ももう動かんくなってたんかな。それが2017年8年とかそれぐらいでしたね。あれ、俺は、choriは自分から“家”を出たと思ってるんやけど……。
K:そうだと思います。でも、家族関係はものすごい良好で。今回、choriが亡くなってご家族と接する機会がありましたけど、ものすごく彼のことを尊重していて、家元は息子である彼の活動をいろんな人に紹介していたんですよ。なのに、そうやって引いてくれたレールをchori自身がよしとしなかった。ご家族的にはchoriの活動を応援していたみたいですけどね。それだけ彼の表現を買ってた部分もあったんだと思います。
M:うん、勘当ではないと思います。僕もお葬式に参列させてもらったんですけど、普通に長男が早くに亡くなってそれが悲しいって感じでした。彼が生きてやってきたことは、しっかりリスペクトしてるみたいな空気感が家族にしっかりあって。普通の家族やったんですよね……。もちろん、あいつにはやっぱ裏千家の跡取りっていう肩書きってでかすぎた。果たして自分の作品が評価されてるのはそういう“家”の名前があるからなのか? みたいな葛藤はきっとずっとあったと思う。
K:お家的にはリミットがあったんだと思います。一応、分家にすることによって彼は跡取りじゃなくなった。それで、弟さんが跡取りになられた。でも、choriは恨んだり怒ったりしていない。すごいフラットなんすよ。
M:もちろん退廃的というか、昔の文豪みたいなちょっと破滅的な人生に憧れてたところもあったかもしれないんですけど、そんな傍若無人に振る舞える人間ではなかった。理想と現実の乖離で、諦めきれずに結局自分を痛みつけるような生活、健康を損なうような生き方が正義って思い込まなくちゃならなかったんかなとかも思ったりしますけどね、楽しそうにはしていたけれど……。
K:僕は、悔しいのはそれ表現しろよと思ってました。僕、晩年のchoriの詩作品ほとんど知らないんですよ。
M:俺もバンド時代が最後です。
K:晩年の彼はお題をもらって即興で詩を詠む、みたいなパフォーマンスをやっていましたけど、裏を返せば即興しかできなくなってたんですよね。僕はそこが悔しかった。最後の最後、結局パフォーマーとしてのchoriにキレがなくなってたっていうのが……。
M:きっとバンドでなんとか売れようとしてバンドを組んでやってた頃が、彼としては表現としてピークを迎えてたのかもしれない。表現者として失速してったのも、自分自身で気づいてたのかもしれない。
K:彼はミュージシャンになれなかったって言ってましたけどね。それは僕もバンドやってたからわかるんですけど、やっぱ詩人として評価されたい部分が、ミュージシャンからしたら全部切られるんですよね。もっとリズムちゃんと取ってとか、音程、ピッチ、グルーヴの話とかになってきたら、彼はやっぱミュージシャンじゃないので、いろいろと難しい。じゃあミュージシャンにもっと寄っていこうとするのかというと、その努力ができないっていう。
──choriさんの昔のインタヴューを読むと、中高生の時にスポーツもできるわけじゃないし勉強もそこまでできるわけじゃない、でもバンドをやるっていうようなこともちょっと自分の性格的にあんまやりたくなくて、誰もやってないことって言ったら詩を読んだり書いたりすることだった、音楽をやるっていう選択肢は最初からあんまりなかったみたいなことを話されている。ただ、もちろん音楽自体は好きだから、パフォーマンスをするにあたってトラックを使って朗読するっていうスタイルはアリだった、という感じだったのかもしれないですね。
K:今その話を聞いて、思い当たりました。彼、一時期《ポエトリー・スラム(ジャパン)》(制限時間内に詩を朗読してその内容やパフォーマンスを競うイベント)に出ていましたよ。一度詩の界隈に戻って行ってます。バンドを辞めたあとです。さっきモグラさんが話していたように、ライヴ・ハウスでの活動がうまくいかなくなった後に彼が戻った先はやっぱり詩の界隈だったんです。コロナ期間中からコロナ後にかけての頃でした。ただ、そこでも結局1位になれないんですよ、川原寝太郎さんというchoriの昔からの仲間の詩人が最後に全国大会で1位を取って。確かchoriはその大会ではベスト4ぐらいで負けてしまうんですよね。彼はその結果にものすごくヘコんで……ヘコむどころか苦しんでましたね。でもやっぱり詩の界隈でもchoriって存在はちょっと異端で主流派じゃなかったんです。ライヴ・ハウス界隈でも主流じゃない、詩の界隈でも主流派じゃない。彼の居場所っていうのか、自分がここやと思うところが見つからなかったんかなと思います。
M:そうやね。ラッパーになるわけでもなかった。ラッパーじゃないねん、詩人やねんっていうスタンスとかはちょっとそんなにキャッチーな存在ではなかったかもしれない。
K:この前、東京の文月悠光さんという《中原中也賞》を最年少で取った方と話したんです。その時、choriとも仲良かった彼女は、彼のことをフックアップしてあげられる詩人が現れなかったっていうのが彼が売れなかった一番大きい原因かなと話されていました。いろいろな詩人と交流はあるし、一緒にイベントやったり誘われたりするんですけど、フックアップはされなかったんですよね。
──詩の世界で成功を収めていくにはフックアップされないとなかなか難しいものなのですか。
K:一概にはそうとは言えないんですけど、詩の世界の中で頭角を表すにあたって、フックアップされる経験は必要なんだと思います。賞取るって行為もある意味でフックアップじゃないですか。でも、彼は晩年とかは詩を発表していなかった。
M:音楽の世界では一時期あった。尾崎世界観が、自分のソロ公演でゲストで呼ぶみたいなことを《nano》でやりました。
K:いいチャンスだ!
M:そう、クリープハイプがメジャー・デビューしてからだったんやけど、《nano》10周年のイベントを《KYOTO MUSE》でやった時に、尾崎世界観がソロで出てたんです。その時choriが「自分も出たい」って食い下がるから、じゃあってんでchoriバンドで出てもらったんです。そしたら、あいつ、すごいライヴをして。呼んでよかったと心から思ったんです。これはchoriバンド、これから期待できるって思った。あの時のchoriのバンドのメンバーって、ギターが村島(洋一)、ベースが岡田康孝、ドラムは濱崎カズキだったかな。ちょうどメンバー全員が次の活動をどう乗せていくかっていう過渡期にいたんですよね。全員がこのchoriのバンドにこれからも集中するぞって感じではなくて、一瞬のものとして楽しめればいい、自分の人生ではきっとただの通過点なんだろうなみたいな認識をメンバー全員がしてたかもしれない。
K:本当に本気で彼が音楽で売れようと思うんであれば、後ろにバック・バンドをつけないといけなかったんですよね。choriのために演奏するバック・バンドを。でも、彼がやりたかったのは民主的なバンドなんですよね。
M:そう。バンドっていうものが好きで憧れてて。それが首をしめてたところはあるかもしれない。
K:みんなで一緒の方向向いてっていうのが結局叶わなかったんですよね。その頃、活動名が戸籍名の“菊地明史”に変わりました。いったんchoriっていう名前を畳むんですよ。そこで、さっき話題に出た彼女に振られてアルバムを出すんですよね。「幾らでもいいから振り込んでくれ、郵送するから」っていう感じでリリースした作品でした。で、その当時時のメールを最近読み返したんですけど、そこには「いままでは「詩人」という名乗りで多方面、というかむしろ詩以外のフィールド9割で活動していたのを、しゅっと「書くこと」だけに収束・集中させたいねん。まずはゼロから、新人賞とか狙おうとおもってる。雑誌やら賞に投稿してね。」って書いてありました。結局彼はその時、音楽をやめるっていう決断をしたんですけども、もう後ろを見たら裏千家の跡取りという道はなかったわけですよね 。でもそれは彼が選んだ人生で、当然そうなりたいと思ってきたんですけど、裏千家が後ろにはなくて、彼女もいなくて、バンドもなくて、choriという名前もこの時点では一度なくなって。この頃、小説を書いて『すばる』に載ったりもしたんですけど、結局それも続かなかった。八方塞がりになったんです。
M:その頃って事務所に所属してて。大河ドラマ(『平清盛』)に歌詠みの役で出たりしたし、ヨーロッパ・ツアーにも行かしてもらった。事務所的には文化人としての全国区の売り出し方を考えて、すごい色々手を打ってくれてたと思う。でも、choriとしてはやっぱりローカル・カルチャーを無視はできないみたいな、そういうのがあったんかな。ライヴ・ハウスで培われたあいつのマインドと、あいつに求められる詩人とか文化人とかのスタンス。詩人であればよかったのに、そっちに振り切ればいいいのにって俺らですら思うけど、でもあいつは結局そういうリアルなパフォーマンスをするバンドマンへの憧れ、ミュージシャンたちへの憧れ、自分もそうなりたいみたいなのがずっとあったんやと思う。
──未発表の詩などノートとかパソコンとかに残っていたりはしないのですか。
K:いや、実はめちゃめちゃあるみたいで、今、みっしゃん(内縁の妻)がそれを必死に整理整頓しています。できれば、どっかでいつか出版できたらいいと思っています。僕が彼の曲の中で1番好きなのは「しけるいかばね」っていう曲なんですけど(今回のベスト・アルバムに収録)、そこで最後に“普通の人間になりたい”って叫ぶんですよ。“それでも僕はいかねばならんのです”って言ってて。初めてなんですよ、その葛藤を吐き出したのは。普通の人間になりたいって叫んだ後にようやくchoriの本当の意味での表現者としてのスタートが始まるんじゃないかと思って。それまでの彼っていうのは、テクニカルに書いていくんです。降りてきたものをそのまま、それを一筆書きで書いちゃう。その根本にあるパッション……どうしようもない切実さみたいなものが、彼の表現から欠如していて。もっと言うと、意図的に欠落させてるんですよね、choriっていう表現者は。でもそれを出さないことには、僕は少なくともライヴ・ハウス・シーンでは通用しないと思う。彼は“裸にならない選手権”をしてるんですよね。そもそもそのスタイルで行く限り、受け入れられるわけない。詩のトーナメントも結局は、テクニックよりも“私こんだけ裸なりました”って感じで、うわーって湧くところなんで。そういう意味でも、彼が本当に突き詰めたかった表現っていうのは、僕は紙媒体でしか評価されなかったんじゃないかって思ってて。もう挑戦してるところが僕から言うと違う。彼が真に評価され得るフィールドはライヴとかステージとかじゃなかったと思うんです。
M:いや、彼のテキストはほんまにすごいなって思う。血や涙が滲むような、そういう人間の強い気持ちみたいなんをしっかり出せるテクニックがあるなと。言葉としての輝かせ方っていうのは本当に素晴らしい。でも、ライヴになるとちょっとそれを見せんように、技でなんとかしようとする。その理想と現実の乖離みたいなものがずっと付きまとってたのかもしれない。
K:彼は基本承認欲求の塊なんで、タイムロスがあるのが耐えられなかったのでしょうね。出版物にはタイムロスがあるから。ライヴはその場その場じゃないですか。反応がダイレクトに伝わってくる。その魅力は確かにあります。それは僕もよくわかるんです、出版物の速度については。一度choriに聞いたことがあるんです。『すばる』に小説が掲載されたんだし、もっと頑張ればええやん? って。そしたら、必死に書き上げた作品を2回ボツにされて、それでもう嫌になったって言ってました(笑)。自分の作品が世に出て評価されるまでに時間がかかることが嫌だったんでしょうね。気持ちわからなくもないです。やっぱり乗っている時のchoriのパフォーマンスは素晴らしかったので。一瞬で空間をつかんでしまうみたいな、観客の咳すらも彼がコントロールしたんじゃないかみたいな時は、本当に凄いと思いました。彼の最高に張り詰めてる時のライヴっていうのは、空間の掌握の仕方がすごかったんです。みんな片唾を飲んで見守っていて、客席のテーブルのグラスの氷がカタって音がしても、もう、それすらchoriの手のひらの上だなっていうような時がありました。
M:そういういいライヴをした時のchoriは、その充足感がわかりやすく顔に出てた(笑)。自分が天下取った顔で酒飲んで。
K:そうそう、わかりやすいんですよ。いいライヴをしたら最後までそこで酒飲んで残るんですけど、悪いライヴをしたら拗ねてどっか行っちゃう。でも、そういうchoriをモグラさんはすごく多く見ていますよね?
M:いい時もアカン時もな(笑)。でも、いい時はほんまにすごい。オケだけでライヴをしていてもパフォーマンスとテキストだけが異様に輝いてて。ある時、俺、すごい感動して、「お前今日100点!」って言ったことがあるんすよ。俺が店長やってるこの21年間の中で100点って言ったのchoriだけなんすよね。2009年頃かな。
K:それ、choriも後々ずっと言ってましたけどね。唯一100点をもらった男やぞ俺はみたいな感じで。その頃かな、ライヴ・ハウスで動員100人くらい集めたりもしていましたよね。ポエトリー・リーディングのライヴで100人も集まるってすごい。
choriと小島基成氏M:ただ、ムラはあった。ある程度は見せてくれるんですけど、良い時が良すぎるからそこに届かないと、今日はあんまりやなっていう風になっちゃうんですよね。アヴェレージはそれなりに高いんですけど、いい時がえぐくて、それこそ100点って言っちゃうぐらいほんまにもう何にも非の打ち所がない。今、基成が言ってた、ちょっと物音とかするだけでこれもあいつのパフォーマンスのうちかって勘違いするようなその空間を掌握した空気作り……そういうライヴって確かにあるんです。もう全てにマジックがかかってるような、そういう風な空間っていうのは体験したことあるんですけど、そのうちの1つをchoriに見せてもらったんです。
K:モグラさんはchoriの曲で何が好きですか。
M:「ベイビーグッドラック」っていう曲、あれは名曲やなと。あれはバンドじゃなきゃできなかった曲やと思うし、さっき話したchoriバンドの到達点だと思う。ライヴ・ハウスって、吸い殻であったり、飲み残しのお酒であったり、そういうのも含めて、パーティーのクオリティって余韻で測れる。終わった後、誰もいなくなったフロアで、そういうのを感じるんです。《ボロフェスタ》とかでも、たとえば次の日に設営をバラしに行った時に、うわっ! みたいな気持ちになる。何もかもがなくなった後に押し寄せてくる余韻みたいなものでクオリティが測れるっていうのはあるんですけど、あの曲はそれを見事に歌にしてくれたと思う。
K:名曲ですね。今回シングル・カットで2曲配信したんですけど、1発目が「アートアンドマインド」で2曲目はやっぱり「ベイビーグッドラック」。これはchoriのリクエストでしたね。 てか、覚えてますかねモグラさん、あの「ベイビーグッドラック」、実はこの《nano》で出来たんすよ。
M:そうなんか!
K:うん。打ち上げかなんかで、あいつがギター弾きながら歌ったんです。僕と一緒にセッションみたいなのをやってた時にできたんですよ。パーティーが終わった夜に。その時はもうべろんべろんやったけど、名曲やからちゃんと曲にしてやみたら?って言って、それでバンドで完成させた曲なんです。座って2人で朝まで酒飲んで……モグラさん、もうおらんかったと思う、途中で帰って。
M:うん、もう帰ってた(笑)。でも、そんなエピソードを聞くと、結局あいつの表現は、もっと世界に羽ばたいていっていいのに、ミニマルな空間のすっごい細かいポイントに美しさを見出すようなものだったのかもしれないって思う。結局、こっちが求めてるマックスの表現と、あいつが美しさを覚えるミニマムなものとの間の乖離……でも、こっちからしたら、小さい何かをフィーチュアするのが本当にあいつは上手かった。
K:よくぞ言い表してくれたって表現なんですよね。僕自身は彼の作品では「タラチネ」って曲の詩が一番好きです。今回の『ちょりびゅーと』にも収録されています。彼は特に細かいところに目が行ってましたね。感性豊かやったんですね。それだけに……本当に何度も言いたくなるんですけど、こういう形で彼のキャリアが終わってしまったのがもったいないです。コロナの時に外界との接触がなくなってかなり内向的になってしまった。パフォーマンスする場所もなくなって働く場所もなかなかなくて。でも、彼自身、30代の人生って想定しなかったみたいですね。20代のchoriは30までに死ぬみたいなことを言ってたみたいだし、彼からしたらもしかしたら、思ったよりも生きながらえてしまったって感覚があったのかもしれないです。だから、本来は今回のこのプロジェクト……『ちょりびゅーと』を通じて、こんなにもあなたは評価されてるんやから前向いて行こうやっていうのを彼に伝えて、どうにかしたかったんです。今回リリースしてくれた《ディスクユニオンDIW》さんもそこはすごく応援してくれて、《石上栽花》って彼のためのレーベルも立ち上げてくれた。これからはポエトリーのシーンから若手の詩人をどんどんフックアップしていこうという話にもなっていたのに……体がもたなかった……。
M:でも、絶対最後までカッコつけてたと思う。自分の弱いとこは見せへんみたいな。僕がchoriに最後に会ったのは去年かな。東京のバンドで、“ヘクトーよるをまもる”ってすごくいいのを見つけたから《nano》で企画やらしてくださいって。
K:最後まで結局“自分より他人”なんですね(笑)。彼が亡くなる直前、僕がミーティングで彼の部屋を訪ねると、自分は食べてないのに「もっちゃん食いなよ」って用意しておいてくれた食事をこっちにまわしてくれる。こっちに気を使わせないように「俺はもう食べたから」って。食べてないのに。病気で食欲に対して麻痺しちゃってたのもあったのかな……最後はもう痩せちゃってたから。でも、そういう人間でしたね。自分より他人だから、勝手に自分でポエトリー・リーディング・シーンを背負ったり、勝手に《VOXhall》を背負ったり、勝手に《nano》を背負ったり。そういう不器用なところが彼の良さだったと思います。自分のことをもっと考えろよって、死んだ今でも思ったりしますよ。やさしい人だったんです。本当に心の底からやさしい人だった。
<了>
今回話をしてくれたモグラ氏と小島基成氏Text By Shino Okamura
chori
『ちょりびゅーと』
LABEL : 石上栽花 / DIW
RELEASE DATE : 2024.11.20
収録曲
1 / The Park Is Mine
2 / すべて光
3 / 730
4 / アートアンドマインド
5 / たべもの
6 / 季節
7 / 聴きたくないような歌だけがやさしい
8 / 手紙
9 / タラチネ
10 / ふらちですか?
11 / なとつみ
12 / 呼び声
13 / バイバイバイ
14 / ぼくたちはなんだかすべて忘れてしまうね
15 / しけるいかばね
16 / ベイビーグッドラック
17 / きみにあげたいものはないけど、今、うたいたい歌があるよ
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