バタフライ──CENJU、DANCING MOODにて語る
生活の息づかいと、街のざらつきと、どうしようもない優しさ。東京杉並区・方南町にあった居酒屋《shan2》には、どこか不器用で、でもやたらと体温の高い人たちばかりが集っていた。誰よりも先に声が届くような人たちが大騒ぎしていた。CENJUは、そんな場所を作ったラッパーだ。そしてずっと昔から、そういう「場」をラップでやってきた人だ。CENJUは現在、店主であるパートナーが切り盛りする下高井戸のセレクトショップ/お直し屋《DANCING MOOD》で、スタッフとしてお店に立っている。
2013年、CENJUが盟友QROIXとともに制作した初のアルバム『THANKS GOD, IT’S FLYDAY!』。 仕事を辞め、「守るものもなかった」という切実な状況のなか、溜まりに溜まった言葉を2日間で一気に吐き出したという本作は、結果としてCENJUにとっての臨界点の一つになる。生活と音楽が剥き出しで交わる、その瞬間の記録だ。曽我部恵一(サニーデイ・サービス)は収録曲「バタフライ」を「ざらざらした私小説」と評し絶賛。作品はジャンルを越えて静かな熱を集めていった。
そしてこの夏、12年ぶりに『THANKS GOD, IT’S FLYDAY!』の配信が突如スタートした。この作品に刻まれているのは、単なるストリートの私小説ではない。ダンスホールの揺らぎが下地にある低音設計に無骨な叙情性が、CENJUのラップによって一つのグルーヴとして編み上げられている。どこかで聴いたようなメロウネスや、予定調和な“リリックのうまさ”とは異なる地点から生まれた言葉たち。
今回のインタヴューでは、この作品を起点に、CENJUが歩んできたキャリアをあらためて辿る。 文章は少し淡白に読めるかもしれない。とても書けそうにない話が多く、意図的に削った部分がある。筆者の編集力の限界を恨んでください。これは、東京の片隅でラップとともに生きてきた男の記録であり、現在地であり、そして相変わらずの「途中」。虫食いになっていると思われる部分は、ぜひ本人に直接、尋ねてみてほしい。CENJUの物語(のほんの一部)を、ここに届けます。
(インタヴュー・文・写真/船津晃一朗 Special Thanks/二木信)
CENJU(センジュ)プロフィール
東京出身のラッパー。1990年代後半より活動を始め、DOWN NORTH CAMPのオリジナルメンバーとして東京アンダーグラウンド・ヒップホップ・シーンに多大な影響を与える。2013年には盟友QROIXとの共作アルバム『THANKS GOD, IT’S FLYDAY!』を発表。曽我部恵一が同作収録の「バタフライ」を賞賛したことでも話題に。以降、下北沢の名店《SKARFACE》との深い関わりをアウトプットした『Cakez』(2014年)、《WDsounds》主宰J .COLUMBUSとCJ&JC名義で『STEVE JOBBS』(2015年)、DJ HIGHSCHOOLのプロデュースしたCENJUとYAHIKOによるアルバム『NEIGHBORHOOD』(2023年)など、ソロやユニットでリリースを重ねる。最新参加曲は横浜拠点のハードコアバンドFIGHT IT OUTの作品『SKINHEAD GRIND』収録曲「SKEPTIC」(2023年)、ラッパーであるERA(ERAとCENJUのインタヴューはこちらから)の最新作『UNDER THE SUN』収録曲「swaying in the wind」(2025年)。現在は東京・下高井戸のショップ《DANCING MOOD》のスタッフ。
Interview with CENJU
──今回はQROIXさんとタッグを組んで作ったCENJUさんのファースト・アルバム『THANKS GOD, IT’S FLYDAY!』が配信開始されたということで、CENJUさんのキャリアを改めて振り返りたいなと思っています。ラップを始めたのはいつからですか?
CENJU(以下、C):高校入学前の15歳の春休み(1997年)からやってる。制服とか教科書とか買いに行くじゃん。そんときすごい可愛い子がいて声かけたんだ。そしたら「ヒップホップが好き」って言うから、「俺、ラップやってんだよね」って嘘ついて。それが始まり。そんなこと言ってたら、中学の先輩から町田《FLAVA》のパーティで「ライヴやりなよ」って誘われて。それで一丁前に曲を書いて、Xzibitのインストでラップした。それから、17のときに付き合ってた4個上の女の子が完全なダンスホール狂いで、いろいろ教えてもらった。ラガマフィンとは何かっていうのを学んだりしてね。
──QROIXさんとの出会いはいつですか?
C:俺が高校生で16歳、クロくんが19歳の頃。恵比寿の《カラーズ》というクラブで初めて会った。クロくんはそこで見たCUROGARASUというグループのDJをやってた。俺もめちゃくちゃだったし、クロくんもめちゃくちゃなグループにいた。CUROGARASUのMC、ショウちゃんはラップもめっちゃ上手かった。何より全員面白かったんだよ。その時、俺は高校になんとなく通っていて、夏休みはクロくんと一緒に過ごしてたんだ。ほぼ毎日、宮崎台にあるクロくんの家に泊めてもらったり、旅行にも行ったりした。俺らは一文無しだけど、クロくんはちゃんとバイトしていて、そのお金で(笑)。そのくらい仲が良かった。俺が高校を辞めて仕事を始めてからも、ずっと連絡を取り合ったりしてた。ちなみに、俺は16歳で《カラーズ》の土曜日の夜にレギュラーを持ってた。人生の糧だね(笑)。そして、YAHIKOも確実にそこにいた。というか、連れてきてた。
──それから少しして、DOWN NORTH CAMP(DNC)が結成されるんですよね。
C:そう。いろんな説があるけど、俺の考えとしては、俺とTAMUが1999年のノストラダムスの大予言に打ち勝つために立ち上げたんだよ。世界が終わるんだったら俺たちが立ち向かって地球を守ろうって。だから、DNCは地球防衛軍みたいな始まりだよ。しかも、俺たちの周りはみんな家がちゃんとしてなかったから。俺も片親で母ちゃんに彼氏ができて行き場もないみたいな状態のなか、ノストラダムスの大予言で地球が壊されてたまるかって気持ちで始めたんだよね。そこにはもちろんラップが根底にあって、そのうえで「地球をどう守ってく?」「ノストラダムスの大予言で恐怖の大王が降ってきたときにどう戦っていく?」みたいな話をTAMUとずっとしてたの。20年以上経ったいまだから言えるけど、TAMUは俺の良き理解者だったからね。
それからはライヴはもちろん曲を作ったり、仕事ながらめちゃくちゃな生活をしてた。『THANKS GOD, IT’S FLYDAY!』を出した2013年、俺は仕事を転々としていたんだけど、結局嫌になって辞めたんだ。音楽やろうって。その時、守るものもなかったから、やるしかないという状態。ここでやらなかったらどうするんだって。だから作品を作ろうと思ったんだ。その時に一番話しやすいのはクロくんだった。ノリもわかってるし、連絡したら二つ返事でやることになった。それからクロくんの家で2日で作った(笑)。『THANKS GOD, IT’S FLYDAY!』は俺の最高傑作だと思ってるよ。誰のことも気にしてないんだよね。言いたいことをずっと言ってる。トピックや感じることもいっぱいあるし、言葉も溜まってた。仕事を辞めてストリートに立つと、色々なことが立体的に見えてきたから。
──そのころの生活の全てが詰まっている作品であったと。それと、作品には曽我部恵一さんが絶賛していた「バタフライ」が収録されています。ツイートを見返してたら「70年代のヤクザ映画のやるせない終わり方…そんな雰囲気があって、最近大好きなんです」って。
C:ははは。あと、「ざらざら私小説」とも言ってくれてた(笑)。ヒデオ(仙人掌)がとある曲で「バタフライの扱いには気をつけろ」って言ってるよね。「バタフライ」は俺が勝手に作った隠語なんだけど。
──どういう意味なんですか?
C:◯◯◯◯◯。
──(笑)。
C:まあ、曲はバタフライ・エフェクトがテーマになってる。蝶々の羽ばたきが竜巻になるかもしれないという話だね。それでもし蝶々が羽ばたいてせいでナイフが動いたら、それのせいで人が死んだらという内容なんだ。つまり、人の生死というのはそういうものだと。世の中は小さいことで動いているから、気をつけろということ。バタフライナイフ的な話。でも、ポジティヴに捉えることもできる。たった今、一歩を踏み出したことが、何かに影響していくんだ。実際、《Manhattan Records》が『THANKS GOD, IT’S FLYDAY!』のアナログを出してくれたり、この作品は制作前に思っていたよりも多くの人に聴いてもらえたんだよね。でもそんな勢いが出てきたところで、エンドロールが突然やってきた。そういうものだよな。
──なるほど……。ですが、その翌年にはセカンド・アルバム『Cakez』をリリースされています。『Cakez』は下北沢のショップ《SKARFACE》(スカーフェイス)から生まれた作品だと、過去のインタヴューで語っていますね。
C:そう。1999年頃、路面店時代の《SKARFACE》で”かっつぁん”と出会った。”かっつぁん”とはその後、同じ仕事をしたりするようになって、仲良くなった。二人ともその仕事を辞めた後、”かっつぁん”が「店をやろうと思ってる」と言っていたから、俺も入れてくれって。”かっつぁん”のお金でまた《SKARFACE》が出来た。その《SKARFACE》があったから、ILL-TEEやOS3(DJ HIGHSCHOOL)、マーシー(J.COLUMBUS)、みんなと知り合えたんだ。“かっつぁん”の功績は本当に大きいね。その出会いの集大成が『Cakez』。その頃はDNCもソロでもライヴやリリースがバンバンあるし、みんなと会うのも毎日楽しい。家になんて帰らなくてもいいじゃんってくらい。
──青春ですね。
C:そうそう。
──さらに2015年、代官山《UNIT》で《REFUGEE MARKET x SKARFACE Presents CENJU『cakez』 & jjj『YACHT CLUB』 W Release Party》という、ヒップホップやハードコアが入り交じった凄まじいイベントが開催されました。
C:俺はちょっと……ライヴがへたってたな。あの日からずっと、今日までそう思ってる(笑)。偶然リリースが被ったJJJとの共同リリパになった。JJJはたまに悩みがある時《SKARFACE》にきて、「センくんどんな感じですか?」って言っていたな。イベントにはPAYBACK BOYSやFIGHT IT OUTも出演してくれた。
──CENJUさんにはハードコア的な一面もありますよね。それこそ、FIGHT IT OUTの作品に参加もしていたり。
C:FIGHT IT OUTとは路面店時代の《SKARFACE》で知り合った。《SKARFACE》にユウキくんというキーマンがいて、ERAくんやFIGHT IT OUTのみんなを紹介してもらったり、ライヴに一緒に行ったりした。FIGHT IT OUTは超楽しい。みんな好きだよ。すごくない?あの人たち。本当に自由だもん。去年、FIGHT IT OUTには大きいイベントに出させてもらった(SATANIC CARNIVAL 2024)。娘と行ったんだけど、ケータリングがすごくてさ。もうレストランみたいな感じだよ。娘もぶち上がって、いきなりフルコースだよ。ピザ、餃子、なんとかってさ。超喜んでたな。
2025年4月26日「Benefit Show For BOS」Koiwa BUSHBASHにて撮影
──同年2015年にはマーシーさんとのタッグCJ&JCとして作品『STEVE JOBBS』をリリースされています。ラフな音像が印象的な作品です。
C:うん。あれはたぶん、俺とマーシーがレコーディング機材の使い方を間違えた結果、ああにしかならなかった。でも俺はカチッとしたものよりも、ラフなものが好きなのかもしれない。
──『Cakez』もそうですが、そのラフさに全てを成り立たせている不思議なバランス感がありますよね。それがCENJUさんの印でもあるというか。
C:それしかできないのかもしれない。この頃は曲を超作ってた。マーシーとはきっかけがあってやりとりするようになって、曲もやろうよと。それから毎日、《WDsounds》の事務所に行くようになって、あの作品が出来た。
──そしてその頃、WCBことWorld Coke Boysという謎のクルーも発足したと。CENJUさんやマーシーさん、JJJさん、仙人掌さんらも所属しているという。
C:そう。YODELくんが『WCB』というMIX CDを作っていて、「『WCB』って何のことですか?」って聞いたら「World Coke Boys」って。YODELくんは本当にイケてる人だからさ。その真意は俺は全然わからないんだけど、「それ、めっちゃカッコいいですね」って。
──先日、神戸の《EPOCHS》というイベントで、マーシーさんがWCBの「goemon」をライヴで披露していて、記憶に残っています。それから2018年にDOWN NORTH CAMPのコンピレーション『The believable media around us』などのリリースがありましたが、以降は曲をリリースされてないですよね。
C:そうだね。会社でちゃんと仕事したりしてたよ。子供もいるしさ。でも、ラッパーとしては生きていた。たぶん、悪い意味で(笑)。でもその意識がなかったら、筋が通らない。「俺は日本で一番イケてるラッパーだから、俺のことを信用してくれ」というアティテュードがあって、仕事もうまく回せていた。リリックを書くのは俺のライフワークだし、ラップも生活の一部。ラッパーっていうのは、いつになるかわからないけど、「やろうぜ」って口約束をしたら、それが10年後だろうが、20年後だろうが、絶対にやる人たちだし、それがラッパー同士の付き合い方。その「やろうぜ」っていう口約束が実現できたときが俺はすごい好きだし、俺はそれがラッパーの良さだと思う。そのときに、俺はこいつと出会えて良かったなって初めて感じるね。
──良い話ですね。そして、2021年には方南町に居酒屋《shan2》をオープンしました。
C:コロナ禍で仕事がほぼストップしていたんだけどね。でも、居酒屋をやるのは俺の一つの夢だった。そこで出来たのが『NEIGHBORHOOD Presented by DJ HIGHSCHOOL』。おそらく俺は5年くらい仕事をしないと作品が作れないんだよね。仕事を辞めた時に言葉が山ほど溜まっていて、それを吐き出してるイメージ。制作を始めたときに「こういうことだったのか」と思うこともあったりする。
──『NEIGHBORHOOD』は方南町を基点に東京のローカルを前面に押し出した内容でした。《shan2》では必ずレゲエがBGMで流れていて、この作品の根底にもレゲエがありました。
C:俺はずっとレゲエが好きだし、年々そっちに寄っているけども、音楽のアプローチはヒップホップしかできない。でも今は「こうやったらできるんじゃないか」って思うこともあるし、自分のヒップホップ的アプローチがレゲエに接近してるんだよね。今は完全にそれを意識してる。それがより自然に出来るようになったら、新生CENJUが誕生するんだけどな。
ラップが超走ってるやつはカッコいいじゃん。すげえ!と思わされる力がある。それに、単純にスピードや技量も必要だしさ。『THANKS GOD, IT’S FLYDAY!』はそれが出来ているし、ちゃんとレゲエ的な要素もある。いま振り返ってみたら、自然と俺がやりたいことが出来てたんだよ。出来ていたことが、凝り固まって出来なくなってきたのかもしれない。でも、それも自然なことでもある。
上手くなった先には、何かしらのゴールが設定されているとして、ゴールまでのプロセスは十人十色ある。そのプロセスが答えだと思うんだ。俺はその人それぞれのプロセスを知ったりするのが好きで生きているとまで思うよ。ゴールや結果は重要だけど、そういう話ではない。そのプロセスで悩んだり苦しんでる今が一番カッコいいんだって。成長するプロセスを楽しんで常に生きているんだよ。ゴールは何となく決まってるし、必ずそうなれるから。
──CENJUさんの全ての作品には、CENJUさんが経てきたそのプロセスが焼きついているということでもありますよね。
C:自分が生きている時間があって、それを作品にするのが俺のやり方だから。やるしかないよね。
──『NEIGHBORHOOD』には「Memories」という曲も収録されてます。
C:あれは元々女の人との別れについて歌った曲なんだ。そしたら、俺のヴァースをフィーチャリングのCHIYORIが、友達が亡くなったときの詩として受け取ってそういう歌で返してきた。だから、俺も書き直してさ。男と女が別れる詩を、人が死んだときに書いた詩と受け取ることもあるのかと。あの曲は書き手としては良い経験になった。
そして、この曲は亡くなってしまった親友のことを歌った曲でもある。この曲だけじゃない。俺はずっとその親友のことを歌ってきてるんだ。彼は大切なライヴの前日に亡くなった。その時のことを覚えてる。みんな《SKARFACE》に集まったんだ。俺はくたばってた。そんな時、マーシーが俺の足を思いっきり踏みつけてきたんだよ、ティンバーランドの靴で。「お前くたばってんじゃねえよ」ってさ。
追伸──DANCING MOODについて
東京・下高井戸にある《DANCING MOOD》というお店。誰でもふらりと立ち寄れるその場所には、子ども服とキャップ、刺繍入りのシャツや入園グッズ、ちょっと風変わりな古着と、ラスタカラーの気配がほんのり混じっている。お直し屋としての顔と、セレクトショップとしての顔。そして、何よりも“誰かがいる場所”としての、もうひとつの顔を持っている。
元は鍼灸院だった物件を、自分たちで床を削って、壁を白く塗って、手作業で整えていった。そうして、彼のパートナーの夢である「洋服のお直し屋」を形にしていった。もちろん店主はパートナー。CENJUの友人たちの商品も並び、常連がつきはじめる。子ども服は中学の同級生・モトノリさんが手がけていて、忙しい親たちの「困った」を拾ってくれる。給食袋、ランチョンマット、体操着入れなど。街に生きるというのは、そういう“ささいな布”を必要とすることでもある。
店の名前はデルロイ・ウィルソンの名曲《DANCING MOOD》から取った。言うまでもなく、CENJUはラッパーだ。でも、この空間にあるのは、マイクの上で拡張された言葉ではなく、誰かの手のひらのなかでうまれた布と、刺繍と、シルエットの「うつわ」だ。そこには「語られないこと」が染み込んでいる。この店には、Tシャツ1枚にだって物語がある。物語を無理矢理にでも作ってしまうユーモアと気概もある。刺繍ひとつに込められた「なんとかやってみた」精神だってある。
「街の兄ちゃんでありたい」とCENJUは言う。肩書きがラッパーであろうと、店主であろうと、そのどれよりも先に「街の兄ちゃん」でありたいのだ、と。その姿勢は本気だ。誰かがふらっと来られる場所。ただ話をしに来てもいいし、直しをお願いしてもいい。服を見に来て、「これ、丈詰めたら着られるかな?」と相談してもいい。彼のところに行けば、「どうにかなるな」と思わせてくれる安心感がある。このお店と一緒に、自分のスタイルをカスタムしていくのも楽しい。退屈な時にはそこに行けばいい、そんなふうに生活のリズムを作ってくれた、彼の居酒屋がそうであったように。「酒の量、ほんとにやばくなっちゃってさ」。でも、変わりたいと思ってるうちはまだかっこいい。変わってしまったあとには戻れないが、変わりたいと願ってる今なら、戦ってる最中のその姿こそが魅力だ。そんなふうに、自分に言い聞かせるように語る。
インタヴューでも語られるように、CENJUは音楽活動を続けている。いろいろな話が進行中だと言う。「音楽をやめることはないよ。歌にするために、書くことは続けるだろうから」。音楽を通して、言葉を通して、彼はコミュニティとつながってきた。そして今、それは服や空間、生活用品のかたちでも続いている。近くには、TRASMUNDOやHATOS OUTSIDE、鳥たけ、ばんや、月見湯など、彼の言うところの「いい場所」が点在していて、それぞれが小さな経済圏と文化圏を育てている。
どこかで誰かが拡声器を手にして、自分の声を「でかくする」ことばかりを競っているこの時代に、《DANCING MOOD》には、ただ人がいて、ただ服がある。子どもの給食袋のサイズに悩んでいる親がいて、勝負服を買いに来た大学生がいて、いつのまにか町の回遊ルートになっている。そういう場所にこそ、いま必要な静けさがあるのだと思う。そしてその静けさの裏には、いつだって方南町の路地に響いていた、あのルードな男たちの笑い声が、かすかに重なっている。そして、CENJUはいつもそこにいる。レゲエのように裏打ちされた、反復と粘りのリズムで、彼は答え続けている。
<了>
Text By Koichiro Funatsu
Photo By Koichiro Funatsu
DANCING MOOD
住所:東京都世田谷区松原3-29-20
営業時間:13:00〜20:00
定休日:不定休
Instagram:@dancingmood_shimotakaido
