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カントリー音楽嫌いは階層意識の表明?

19 February 2023 | By Mari Nagatomi


Nadine Hubbs
Rednecks, Queers, and Country Music

クィアの人々によるカントリー音楽は日本でも注目されている。『ミュージック・マガジン』で連載中の企画「ニュー・スタンダード2020s」(*1) では、2021年10月号において「アウトロー・カントリー」が特集され、昨今のカントリー・アメリカーナ・ブルーグラスのジャンルで活躍するクィアのアーティストによる作品も多く紹介された。従来「アウトロー・カントリー」とは、1960年代後半から1970年代前半にかけて製作された、アーティストの創造力を重視したカントリー音楽を指す。テキサス州オースティンなどを中心に活躍したアウトロー・カントリーの音楽家(*2)は、ポップとのクロスオーバーを含むヒット曲による商業的成功を主眼に置くテネシー州ナッシュビルのカントリー音楽産業とは対照的な音楽活動を行なった。アウトロー・カントリーの音楽家の反骨精神を継承するとして、主流のカントリー音楽業界で活躍を制限されると想定されるLGBTQAi+のアーティストによる作品が本特集で選定されたと考えられる。

クィアのカントリー音楽家が、アウトロー・カントリーの音楽家を想起させるように語られるのは、クィアのカントリー音楽家が「商業的なカントリー音楽産業」とは異なる「人間的で素朴な田舎の音楽」を奏でることを前提とする。もっと言えば、これらのクィアのカントリー音楽家を「アウトロー」と称することは、カントリー音楽業界や作品においてクィアの人々が不変的に周縁化されてきたことを前提とする。つまり、主流のカントリー音楽や音楽産業は商業主義を貫き、多様性に不寛容であるとの「常識」により、クィアの人々によるカントリー=アウトロー・カントリーの図式は成立する。この構図においては、「カントリー音楽」と「クィアの人々」は矛盾しており、「クィアの人々による主流のカントリー音楽」は撞着語法なのだ。

しかし2020年代現在、商業的な成功を狙い、実際にヒットするカントリー音楽においても、クィアであることを公にしているアーティスト、ソングライター、プロデューサーは活躍している(*3)。また、現在ではクィアの人々やアイデンティティとして解釈できるような人物像は、古くからカントリー音楽では表現されてきた。例えば、1968年発表のロレッタ・リン(Loretta Lynn)の「フィスト・シティ(Fist City)」などでは、彼氏の奪い合いで殴り合いの喧嘩も辞さないような、一般のジェンダー規範を逸脱する女性像が表現される。

1992年にリリースされたガース・ブルックス(Garth Brooks)の「ウィ・シャル・ビー・フリー(We Shall Be Free)」には「自由にどんな人をも愛することが許された時(中略)自由になれる(When we’re free to love anyone we choose…. Then we shall be free)」と同性愛擁護を示唆するメッセージも込められている。主流のカントリー音楽ジャンルで活躍しているわけではないが、インディゴ・ガールズ(Indigo Girls)による2020年の楽曲「カントリー・ラジオ(Country Radio)」では、「小さな街でカントリーラジオを愛するゲイの若者(a gay kid in a small town who loves country radio)」 が持つカントリー音楽への愛着が彼女彼らの体験や感情を制限する実際の世界のジェンダーとセクシュアリティの規範と共に表現される。ではなぜ、カントリー音楽とクィアの人々の友好的とも捉えられる関係が、「一般的」に不可視化され、可視化された時には主流のカントリー音楽に抵抗する「アウトロー」として賞賛されるのだろうか。本日ご紹介する著書はその問いに答えてくれる。

ジェンダー・セクシュアリティと音楽の研究者であるナディーン・ハッブスによる『レッドネックス・クィアズ・アンド・カントリー・ミュージック』は、レッドネックス(田舎者)とクィアの人々について、カントリー音楽を通して考察する学術書である(*4)。本書は、2022年に出版されたクィアのカントリーアーティストの活動に焦点を当てるシャナ・ゴールドィン・パースバーチャー(Shana Goldin-Perschbacher)による『クィア・カントリー(Queer Country)』とは異なる。本書では、時代によって異なる中産階級的価値観から逸脱するイメージが投影されることで、カントリー音楽が白人労働者階級を象徴する音楽であると認識されてきた側面が、セクシュアリティと社会階層(class)に注目して解明される。その上で、アメリカ合衆国の文化の語りに労働者階級の人々の視座を含めることの重要性が説かれる。本書は、カントリー音楽をジェンダー・セクシュアリティの視点から考察するカントリー音楽研究の新潮流を代表する研究書であり、社会階層を分析軸とし、黒と白の人種の境界線と共に頻繁に研究されてきたアメリカのポピュラー音楽研究にも一石を投じる。

「レッドネックスとカントリー音楽」と題された第1部では、カントリー音楽が(現在アメリカや日本の音楽愛好者の間で根強く信じられているように)人種差別・ホモフォビア・男性優位で女性蔑視の性格を持つ音楽であるというイメージは、本ジャンルやその楽曲を演奏する音楽家に生来備わった価値観に起因するものではないことが説明される。ハッブスは、このようなイメージは労働者階級特有のステレオタイプとして、1970年代以降の新自由主義の浸透と共に重んじられるようになる、民営化、個人の主体性、商品化されたアイデンティティとは相反するものとして構築されたと論じる(*5)。

ハッブスは、異性愛が中産階級のセクシュアリティの規範であった1970年代以前は、同性愛者たちが労働者階級の象徴でもあったことを挙げ、カントリー音楽は本質的にホモフォビアの文化であるとする風潮に対して反論する(*6)。つまり、アメリカでも日本でも頻繁に語られる「カントリー音楽以外なら聞く(I listen to anything but country)」との音楽愛好者の間での「常識」は、単にカントリー音楽への批判や内容を示すものではなく、音楽の好みを通した視聴者自身の社会階層の帰属意識の表明であると言う。

したがって、カントリー音楽のような労働者階級の視点から発信される文化表現 は、中産階級的なイメージを伴う音楽の好み(ヒップホップやカントリーほど真正性が問われず、個人の創造性が高く評価されやすいロック音楽の場合が多い(*7))や価値観によって、不可視化されてきた。そこでハッブスは、労働者階級の立場から発信される独自の文化や表現の可視化を訴える。

「田舎者、カントリー音楽、クィア」と題される第2部では、カントリー音楽と白人労働者階級におけるジェンダーとセクシュアリティの表現がカントリー音楽の楽曲の解釈を通してより詳細に説明される。

第2部の最初の章、第3章では、グレッチェン・ウィルソン(Gretchen Wilson)の「レッドネック・ウーマン(Redneck Woman)」が解釈される(*8)。「私は田舎者の女で 優れたあばずれじゃない(I’m a redneck woman I ain’t no high class broad)」(*9)とサビで繰り返し歌われる本楽曲では、中流階級が好むとされるもの ―― シャンパン、ヴィクトリアズ・シークレットの下着――と、労働者階級の好みとされる主人公が好むもの――ビール、ウォール・マートの下着――が対比されながら、主人公の音楽の趣味――レイナード・スキナード(Lynyrd Skynyrd)、キッド・ロック(Kid Rock)、チャーリー・ダニエルズ(Charlie Daniels)、ジョージ・ストレイト(George Strait)、タニヤ・タッカー(Tanya Tucker)――やクリスマスの飾りを年中家の玄関に飾る、田舎らしさ(ダサさ)が表明され、「カントリー(田舎者)らしく」いようとする女性たち(redneck girls)に「最高だぜ!」とエールが送られる。日本ではほとんど注目されなかったが、本国アメリカでは2004年にビルボード・ホット・カントリー・ソングスで1位、ビルボード・ホット・ワンハンドレッドでも97位の売り上げを記録し、2005年グラミー賞では最優秀カントリー女性歌唱賞を受賞、2014年には、ローリング・ストーンズ紙が選ぶベスト・カントリー・ソングの97位に選出された。

ハッブスは、イギリスの社会学者ベバリー・スケッグス(Beverly Skeggs)の白人労働者階級女性のエスノグラフィー研究に依拠しながら、本楽曲を白人労働者階級女性の主体の表明として解釈する。スケッグスは、研究対象とした白人労働者階級女性が、趣味やアイデンティティを自由に行き来できる中産階級の人々によって固定されたイメージ通りに振る舞うように期待され、彼女たちが本来持ち得る経済ならびに個人の価値が、そのステレオタイプによって制限されていると感じていると発見した。その結果、彼女たちは、自分自身の主体性と自尊心を保ち、自らの存在価値を日常的に意識せざるを得ない(*10)。ハッブスは、「田舎者の女性たち(redneck girls)」にエールを送る楽曲「レッドネック・ウーマン」は、スケッグスが調査対象とした田舎者の白人女性たちの、彼女たちの視点による価値や存在の表明であり、そのためにヒットしたと推測できると論じる。

さらにハッブスは、本楽曲でレイナード・スキナードやチャーリー・ダニエルズなどのサザン・ロックやカントリー音楽の男性アーティストへの嗜好が表明されることに、都会とは対照的で、比較的男っぽい田舎者の女性の姿を見出す。本楽曲で描かれる女性は、労働者階級の田舎の男性と同じ境遇を乗り越える目的を共有し、男性に向けられる理想と特権を利用しながら、クロス・ジェンダーで、男らしく、覇権的な中産階級の女性らしさの規範を否定する(*11)。したがって、本楽曲はジェンダー規範が社会階層の違いによって異なることに注意を向けさせるものとしても解釈できる。

第4章では、デイヴィッド・アラン・コー(David Allan Coe)の「ファック・アニタ・ブライアント(Fuck Aneta Briant)」 が、ホモフォビアに対する抵抗が中産階級に異を唱えること(アンチ・ブルジョア)と不可分であったことを示す遺産として解釈される(*12)。本楽曲は、コーがカントリー並びに主流文化における人気のピークであった1978年に、彼自身が運営するレーベルから限定盤としてリリースされたアルバム『ナッシング・シークレット(Nothing Secret)』に収録されている。アルバムの表紙には、「成人向け(Adults Only)」、「ラジオには不適切(not recommended for AIR-PLAY)」が表記され、収録曲も自慰(masturbation)が暗示される「マスター・バッション・ブルース(Master Bation Blues)」など、セックスに言及し卑猥な言葉が使用されるものが多い。

5曲目に収録された本楽曲「ファック・アニタ・ブライアント」は、猥褻な表現と共に交戦的に反同性愛運動に抗議する。タイトルにスペル違いで表記されるアニタ・ブライアント(Anita Bryant)は、1977年フロリダ州デイド郡に始まる全米規模の反同性愛運動を率先した人物である(*13)。本楽曲は、「ファック・アニタ・ブライアント」のフレーズから始まり、「ホモセクシュアルは自由になれないと言う彼女を牢屋にぶち込めば(Throw that bitch in a prison)、(ゲイである)彼らのことが分かる」とAメロが歌われ、Bメロからは、「牢屋」の中の同性愛者達の様子が、実際に収監された経験を持つコーによって、中産階級的な婉曲ではなく、ユーモアとウィットと共に感謝の意を伴って歌われる(*14)。

ハッブスは、本楽曲が同性愛者を擁護する政治的メッセージを包摂するにも関わらず、一般的には注目されてこなかったことを指摘する。本楽曲のような、カントリー音楽におけるアンチ・ブルジョアの表現は主流文化で注目される時はいつも「悪趣味」、もしくは、社会では許容されない、政治力をほとんど持たないものとして注目されてきたとハッブスは言う(*15)。ここに、労働者階級の人々の立場から発信された表現がスティグマ化されるアメリカ合衆国内の社会階層と文化の力学が働いている。

さらに、本楽曲が同性愛擁護のメッセージを含むものとして注目されない理由をハッブスは以下のように説明する。労働者階級的でアンチ・ブルジョアのメッセージを発信したコーは、現在のアメリカ合衆国における同性愛擁護運動の支柱に中産階級が定める模範(リスペクタビリティ)があるために、クィアの人々に関する「政治的」(であると認識される)メッセージを発信するには不適切と考えられたからではないか。ハッブスは、クィアの人々と中産階級の人々を関連づける文化的ロジックのために、白人労働者階級が集団的にホモフォビアであると悪者扱いされ、白人労働者階級とクィアの人々との歴史が消去され、脱政治化されたと論じる。

ハッブスの本書は、カントリー音楽の演奏と研究を行う私自身が、中産階級的な価値観を「普遍的なもの」として鵜呑みにし、それを疑問視する必要のなかった自分自身の中産階級的な特権を確認する契機となった。私は、カントリー音楽を通して保守的な価値観を実際に持つ音楽家や産業と接し、「ダサい」イメージを持ち続けるカントリー音楽に対して嫌悪感を持ち続けている。しかし同時に、カントリー音楽を通して、音楽の演奏を通したあらゆる音楽で得られるであろうと予想される喜びと、保守的な政治思想を持たない人々も含む素晴らしい人々との出会いを享受し、深い愛着も持っている。これらの相容れない感情と、ステレオタイプのカントリー音楽と私の実体験のズレのために、カントリー音楽との関係を断つべきだと考えたり、賞賛や感謝の気持ちを持ったりと、カントリー音楽は長年私に精神的な負荷を与え続けてきた。しかしながら、この悩みは、私が中産階級的な価値観に基づいてカントリー音楽の特徴を半ば一方的に判断していたことに起因していた側面が大きかったのである。

ハッブスの本書を読めば、冒頭に既述したような2020年代のスタンダードとして非白人並びにLGBTQAi+のアーティストによるカントリー音楽を「アウトロー・カントリー」として紹介することが、中産階級的な価値観(同性愛を擁護する、多様性に寛容であるなど)を「普遍的」なものとし、それらを持ち得ない下層階級の人々の音楽が主流のカントリー音楽であると想定する、批評家や(そこで想定されている)読者の社会階層への帰属の表明として機能してしまう可能性があることがわかる 。クィアのカントリー音楽家をカントリー音楽の「アウトロー」と賞賛することで、クィアの人々とカントリー音楽の歴史、労働者階級に帰属するクィアの人々の声、カントリー音楽を通した多様性を擁護する政治的メッセージが覆い隠されることもあることを心に留めておきたい。(永冨真梨)


*1 『ミュージック・マガジン』誌上で連載されている「いま注目されるシーンに至る歴史的な視点を現在の視点から辿るディスク・ガイド」(『ミュージック・マガジン』54(8):108)企画。各号異なるテーマが設定され、本記事公開時の最新号である2023年2月号時点で第37回を数える。
*2 ウェイロン・ジェニングス(Waylon Jennings)、ウィリー・ネルソン(Willie Nelson)、ジェリー・ジェフ・ウォーカー(Jerry Jeff Walker)、ジェシー・コルター(Jessi Colter)などが代表的な音楽家として挙げられる。
*3 この事実とともに、カントリー音楽産業では、クィアの人々が周縁化され、その活動や成功が限定されてきたことも歴史もある。少なくとも、ホモフォビアであることがカントリー音楽の楽曲や、カントリー音楽産業を定義するものではない。
*4 Nadine Hubbs, Rednecks, Queers, and Country Music (Los Angeles: University of California Press, 2014), 4.
*5 同上, 48
*6 ハッブスの議論については以下でも参照している。永冨真梨「カントリー音楽の多様性と新潮流―ステレオタイプを超えて」大和田俊之編著『ポップミュージックを語る10の視点』アルテス・パブリッシング、2020年、273-303頁。
*7 Hubbs, Rednecks, 54-55.
*8 同上, 19
*9 筆者による翻訳。I ain’t no high-class broadは、この主人公が、自分自身が一般的に考えられる典型的なあばずれではない、との意味と、上流階級によくいる、彼女からみればあばずれと解釈できる女性ではない、との意味のダブルミーニングであるとも考えることができる。ひとつの単語に複数の意味を付与するのは、カントリー音楽の良い楽曲の美学でもある。
*10 Hubbs, Rednecks, 111.
*11 同上, 125.
*12 同上, 7.
*13 同上, 133.
*14 同上, 134.
*15 同上, 137.


著者:Nadine Hubbs

刊行年:2014

タイトル: Rednecks, Queers, and Country Music
出版社:Los Angeles California: University of North Carolina Press

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Text By Mari Nagatomi

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