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坂本慎太郎: ヤッホー

2026 / zelone records
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あなたには、それが何にみえますか?

29 January 2026 | By Dreamy Deka

暴走する権力者の狂気に、フィクションが負けてしまう時代。鬼才アリ・アスター監督の最新作『エディントンへようこそ』は、コロナと陰謀論が分断した社会の追認にとどまり、アレックス・ガーランド監督『シビル・ウォー』が提示した内戦状態のアメリカという衝撃的な舞台設定に現実が追いつくのも時間の問題だろう。ポール・トーマス・アンダーソンの傑作『ワン・バトル・アフター・アナザー』に登場する白人至上主義者の姿に至っては、もはや牧歌的にすら映ってしまう。なにせスクリーンのこちら側では、自由の国アメリカの大統領が市民に銃口を向け、同盟国の領土を欲しがり、気に入らない他国の指導者を拉致しているのだから。まさにストーリーテラー受難の季節と言えるだろう。

しかしそんな破局に向かってアクセル全開! の現代社会でも、坂本慎太郎が2014年にリリースした『ナマで踊ろう』には未だ追いついていない。人類滅亡後の世界を思わせる、おどろおどろしく、同時にどこか滑稽でもあるそのディストピアは、幸いにもまだ(完全には)現実のものではない。スーパーカルト、核戦争や疫病、AIによるシンギュラリティ、世界を蹂躙するめちゃくちゃ悪い人たち――作品の中で仄めかされていた数々の要素は、不気味なまでの的中率でこの10年の厄災を言い当ててきたにも関わらず、それでもなお、その物語は消尽される気配を見せない。この先も、ジョージ・オーウェル『1984』や大友克洋『AKIRA』のような超古典として参照され、いくつもの予言が現実のものとして立ち上がってくるのだろう。この黙示録の作者である坂本を神格化したいという誘惑は、時を追うごとに抗い難いものになっていく。

だが、坂本慎太郎をいたずらに崇めてしまうのは、本質を見誤ることでもある。少なくともこの10年、彼ほど自らのメッセージを端的かつ明確に提示し続けてきたアーティストもそうはいない。2016年の「ディスコって」(同年発表の3作目『できれば愛を』収録)では多様な性が祝福され、2020年の「歴史をいじらないで」では政治に蔓延る歴史修正主義に対して真っ向からの異議が唱えられた。さらに前作『物語のように』(2022年)に収録された「君には時間がある」では、ミッドライフ・クライシスという加齢に伴う個人的なジレンマまでもが、あけすけな形で差し出されている。坂本慎太郎はミステリアスな鬼才であると同時に、私たちと同じ世界を生きる一人の人間でもある。語るべきことを語り、警句と示唆を投げかけ続けてきた。その誠実さは、決して見落とされるべきではない。

そう考えると、『ナマで踊ろう』を起点とした約10年のディスコグラフィーは、見たくない未来を目撃してしまった(神でも預言者でもない)一人の男が、その終末を避けるために時代を遡ってきた軌跡という物語として捉えることもできるのかもしれない。時間を遡上する男と、不可逆的に前進する私たちの生きる社会。そしてその両者がタイムライン上で衝突した2026年の記録が最新作『ヤッホー』だ。これは坂本慎太郎の神格性の終着点であり、ストーリーテラーとしての彼が、ついに現代と真正面から向き合わざるを得なくなったアルバム、と言ってもいいだろう。

アルバム冒頭を飾る「おじいさんへ」では、権力に固執し続ける老人たちが描かれ、続く二曲目の「あなたの場所はありますか?」ではカルト共同体における思考停止が歌われる。さらに「脳をまもろう」では、24時間365日SNSで流され続ける怪しい言説から身を守れと説く。これらはもはや比喩や寓話ではなく、紛れもない2026年の現状と生存戦略である。排外主義が席巻し、原発は再び稼働し、帝国主義が世界を覆い、誰もが口をつぐむ社会で、坂本慎太郎は今なお個として抗い続けている。

しかしアルバムの中盤から後半にかけては、その様相が明らかに変化する。

「麻痺」では、特濃のファンクビートとは裏腹に、生の実感が摩耗していく感覚が淡々と歌われ、「ゴーストタウン」では、分断された街の中で透明な幽霊として生きるしかない男の姿が描かれる。60年代の公民権運動を支えたソウル風のアレンジが皮肉に鳴っている。そして極めつけは、8曲目の「なぜわざわざ」だ。

「その気になればいつでもやめれるのに/なぜ自ら苦しんでいるのか?」

「好きでやってるだけさ とくに意味なく」

あまりにも率直なこの自問自答は、諦めの言葉にも聞こえるし、逆に、すべてを受け入れた末の再点火と受け止めることもできる。どちらとも断定できない、極めて両義的なフレーズだ。しかし、この割り切れなさこそが、『ヤッホー』という作品の核心なのだろう。そしてAYA(ベース)、菅沼雄太(ドラム)、西内哲(フルート等)にエンジニアの中村宗一郎、角銅真実のマリンバを加えた鉄壁の布陣による時に有機的で時に冷然とした演奏も、この両義性を音として実体化させている。

そのことを意識してアルバムを聴き返すと、見えてくる景色は一変する。

たとえば「おじいさんへ」。私のようにリベラルを自認する人間であれば、この曲から真っ先に想起するのはトランプやプーチンや麻生太郎だろう。しかし、坂本慎太郎の平易で開かれた言葉は、どんな思想のリスナーをも排除しない。私の対岸にいる人々にとっての「おじいさん」は、ジョー・バイデンやバーニー・サンダース、あるいは石破茂のことなのかもしれない。

同様に、「あなたの場所はありますか?」で想起されるカルト集団は、ある人にとっては危険な宗教組織であり、別の誰かにとっては平和的な市民団体である可能性もある。混沌としたアウトロの中でフルートのリバーブが途切れる瞬間の覚醒感も意味深だ。「脳をまもろう」で警戒される脅威も陰謀論ではなく、ワクチンや西洋医学だと解釈される余地すら残されている。

しかし坂本慎太郎は、正解も不正解も示さず、諦めと再点火の中間、多義性のただ中にあえて留まる。それは決して曖昧な逃避ではない。どれほど明確な怒りであっても、瞬時に誤読され、歪曲され、本来の意味を収奪されてしまう現代において、「どちらとも言い切れない」「どちらとも読めてしまう」余白を残すことは、むしろ最も強い緊張を孕んだ態度と言える。

そしてその余白は、作品を一方的なメッセージとしてではなく、鏡としてリスナーの前に突きつけられる。あなたの顔はどう見えますか?と 「ヤッホー」と山に向かって呼びかけたとき、返ってくるのは、他ならぬ自分自身の声なのである。(ドリーミー刑事)

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