呪いを抱きしめ、平穏を求め狂騒に身を投じ、死ぬまでの暇をつぶせ
2023年の正月休み。家族と乗る車の中でラジオをつけると、あるロックバンドの曲が流れていた。パーソナリティの解説によると、この曲は「バンドとして成功を収めた彼らが、その成功ゆえの苦悩を描いた歌」とのことだったのだが、聴いているうちに「こんなに元気のいい苦悩なんてあるかい」と毒づきたくなってしまい思わずヴォリュームを絞った。そしてふとバックミラーに目をやると、「あんたのひねくれた根性は今年も変わらないねぇ」と言わんばかりに皮肉な笑顔を浮かべる、家主のスウェットを着た娘と目が合った。新年早々、自分のロックンロールに対する歪んだ欲深さを思い知らされたような気持ちになったが、この呪いはきっと死ぬまで解けない気がする。
そんな何かを不可逆的に拗らせた人間の胸をも熱くする二作品が2022年12月にリリースされた。一つは家主のライヴ・アルバム『INTO THE DOOM』。そしてもうひとつは家主のソングライター/シンガーの一人でもある鬼才・田中ヤコブのソロ・アルバム『IN NEUTRAL』。
まず12月7日にリリースされた家主のライヴ盤。これはまさに2022年という彼らにとって輝かしい一年を凝縮した実況録音盤である、と言い切ってしまいたい。しかしその輝かしさを十分に理解してもらうためには時計の針を大きく巻き戻す必要がある。
2019年12月にリリースした彼らのアルバム『生活の礎』は、まだほとんど活動をしていないインディー・バンドのファースト・アルバムであるにも関わらず、リスナー、評論家、ミュージシャンから大絶賛。しかし直後に訪れた忌まわしきコロナ禍によりライヴ活動は制限され、リスナーと十分にその喜びを共有したとは言えない状況となってしまった(私も予約したライヴが2回もキャンセルとなり、歯がゆい思いで配信ライヴにかじりついていた)。
結局ツアーが開催できないまま、2021年末にセカンド・アルバム『DOOM』をリリース。これまたファーストを上回る衝撃作として《TURN》の年間ベスト作品に選出されるなど、各メディアから高い評価を獲得。そして年が明けた2022年、ようやくこの傑作を引っさげて3年越しに行われた全国ツアーの模様の記録が、この『INTO THE DOOM』という音源なのである。もちろん私も2カ所でライヴを観た。初めて彼らを生で目の当たりにして最初に印象に残ったことは、このバンドは決して田中ヤコブのサイド・プロジェクトでも、田中ヤコブ&家主でもない、という事実である。もちろんそんなことはアルバムに収録された他のメンバーが書いた楽曲を聴いて分かりきっていたのだが、配信で観た時のヤコブの存在感が圧倒的すぎて、どうしてもその先入観から逃れられなかったのだ。しかし、サウンドチェックの時も子供のような表情でギターをかき鳴らし、メンバーと一緒に一曲でも多く演奏しようとするヤコブとあたたかく見守るメンバーたちを観て、彼らが強いメンバーシップに裏打ちされたバンドであることを一瞬で理解した。
もちろん彼らのサウンドを特徴づけているのはヤコブの人間離れした、グッド・メロディーからあふれそうなほどの轟音ギターであることは間違いない(M9「マイグラント」を爆音で鳴らしてほしい)。しかし彼がかくも奔放に転げ回れる土俵を作っているのは、田中悠平、谷江俊岳、岡本成央が鳴らすヤコブのギターを活かすための骨太のリズムであり、PAの飯塚晃弘による熱狂と情緒を余すことなく増幅させるサウンド・エンジニアリングに他ならない。芸術性とか批評性やらの前に、仲間と一緒にジャーンと音を鳴らすロックバンドの尊さ。いい歌、いい演奏に自分の喜怒哀楽を無邪気に託すことの喜び。コロナ以降の三年間、私たちが待ち焦がれてきたこの感覚に満ちたライヴにあったことが、音源からも伝わってくるのではないだろうか。私たちを取り囲むどす黒い絶望は、全てキャンプファイヤーの燃料にしてしまえばいい。家主の演奏が続く間だけ、俺たちは呪いを忘れて踊ることができる。
この美しい記憶を胸に、家主もしくは田中ヤコブの2022年は大団円を迎えて良かったはずなのだが、二週間後の12月21日、年末に滑り込むようなタイミングで田中ヤコブ3枚目のソロ・アルバム『IN NEUTRAL』がリリースされた。ほぼ全ての楽器演奏と録音/ミックスまで一人で手がけた珠玉の宅録ポップ集。NegiccoのKaedeに提供した名曲「サイクルズ」のセルフ・カヴァーが収録されるなど、彼の比類なきポップネスが堪能できる一枚。しかし私はそのパーソナルな手触りから、もしかすると彼は家主のツアーで昂った神経を鎮め、自分の中の「neutral=中間、中立」を2022年のうちに取り戻したかったのかもしれないと想像してしまった。少なくとも私が、M1「sadness fanclub」の”楽しいことが続いたら 悲しいことが起こってしまいそう”、M6「心の焚き火」の”一度吐いてしまったツバを飲ましてくれと言えばよかったのか 言わなければよかったのか”、あるいはM11「きかい」の”目抜き通りは俺の歩いていい道じゃなかった”といった無常の極北のようなフレーズに頭をぶん殴られたようなショックを受けたのは、直前まで家主のライヴ・アルバムではしゃいでいたからである。あんなに楽しかったのに、あんなにカッコよかったのに、あんなに愛されていたのに、なぜこの人はこんなに寂しいことを歌わなければならないのだろう。埋まることのない空洞に慄くと共に、苦悩を歌にするっていうのは、きっとこういうことなんじゃないかな、と冒頭に書いた某ロックバンドにも教えてあげたくなってしまった。自分の中の怪物から逃げず、逃げられず、歌にする。歌にしないと死んでしまうようなギリギリで残酷な営み。いやそれでも田中ヤコブにはロックンロールがあって良かったと言うべきなのか。わからない。ぬいぐるみの形をした彼の親友(たまにSNSにも登場する)に捧げたM10「みょんパン」を聴きながら、これは彼自身による治癒と救済のソングブックなのかもしれない、と思った。
そしてこの魂の奥底に潜む闇をむき出しにしたような言葉に対し、音楽作品として「ニュートラル」の関係を保つには、それと同じだけの光を当ててやらなければならない。その光とはもちろん、彼の紡ぐ美しいメロディである。今作においては、まるで歌詞に拮抗するように、後期ビートルズを彷彿とさせる流麗さがこれまで以上に衒いなく披露されている。M2「夢からさめて」の希死念慮の香りすら漂う歌詞をも包み込んでいくメロディと服部将典(NRQ)によるチェロの響きを聴いていると、人間の生と死はかくも脆く危ういバランスで成り立っているのかと気付かされて息を飲んだ。だからこそ、ニュートラルよりも少しだけ前向きな最終曲「遠乗り」のレイドバックしたサウンドに乗って歌われる“長い長い冬さえ 終わりは切ないものさ”というフレーズに救われてしまうのである。呪いを抱きしめながら、平穏を求めて狂騒に身を投じ、死ぬまでの暇をつぶす。そんな矛盾こそが人生ってやつじゃないか、と。(ドリーミー刑事)