起点はどこだ? 居場所はどこだ?
起点はどんな人にもある。でも、その境目は本来曖昧で、それは民族的にも音楽的にもそうであるべきだ。来日時に筆者にそう話してくれたのは2021年にLost Girlsとして素晴らしいアルバムを、昨年は《4AD》から最新ソロもリリースするなど40代にして精力的に活動するノルウェーのジェニー・ヴァルだが、実際にその言葉を実感させられるアーティストは現在非常に多い。例えば、最近だとコンゴにルーツを持ち、ベルギー生まれ南アフリカ育ち、現在はロンドンとパリに拠点を置く、Petite Noirの新作『MotherFather』を聴くと、人種連帯でさえもダイナミックに攪拌させる大胆な姿勢を感じることができ、明らかに一つのフックとなっただろうモーゼス・サムニーやサーペントウィズフィートらの登場がその背中を押していることにも気付かされる。他にも、ジャズ、現代音楽、ドローン、ミニマルなど様々なスタイルをクロスさせるパキスタン出身のアルージ・アフタブも然りで、先頃彼女がアンビエントからトランスあたりも視野に入れたコラボ・アルバム『Love In Exile』を共に制作したのが、同じくパキスタン系のシャザード・イスマイリー(マーク・リーボウのセラミック・ドッグのメンバーでもある)とインド系のヴィジェイ・アイヤーという二人だったのも象徴的だ。
ノルウェー育ちでアゼルバイジャンにルーツを持つヴォーカリストのZuzu Zakariaと、フィンランドの電子音楽家/プロデューサーのTatu Metsätähti(Mesak)によるこのYa Tosibaもまた、「起点はあるが民族的・音楽的境目は曖昧」を伝えるユニットと言っていい。ソ連時代のアゼルバイジャンに生まれたZuzuはソ連が運営する音楽学校でクラシック音楽を学んでいたそうだが、90年代に家族でノルウェーに移住してからは文化的な固定概念、先入観にとらわれず、自身のルーツを他の地域の文脈やイディオムと交配させることを積極的に行うようになり、自らDJ活動も展開する過程で、スウェーデンとフィンランドで誕生したダブステップ以降の音楽スタイルのスクウィー(Skweee)のパイオニアであるMetsätähtiと出会い、2010年代初頭にこのユニットを結成した。今はヘルシンキに住んでいるそうだが、一時期二人はベルリンにも居住していたらしい。
2017年にリリースされた前作『Love Party』は古典的なアラブ音楽やペルシャ音楽の要素に、北欧エレクトロ、バルカン・ビーツなど、二人の引き出しからありとあらゆる要素を引っ張り出して混在させたような1枚だった。アゼルバイジャンの古いストリート詩人の作品から引用した歌詞を繰り出すZuzuのマントラのようなヴォーカルも含め、アイデアを盛り込むだけ盛り込んだ内容は今聴いても確かに興味深い。だが、そのとめどない混淆具合に二人が恍惚とし満足してしまっているふしもあった。
しかし、このニュー・アルバムは少し違う。もちろん今回もサウンド面ではかなりトライバルなミックス/パッチワーク状態で、ノルウェー、スウェーデン、フランス、アゼルバイジャン、そしてウクライナのミュージシャンも参加。アゼルバイジャンの伝統的な結婚式の音楽として知られるメイカーナが取り入れられているのも前作同様だ。だが、ギターの緻密なリフやシンセのパッド、古いレコードからのサンプリングとループをうまく組み合わせたトラックは前作よりも無駄が少なくシャープに仕上げられている。
歌詞もやはり詩やテキストから引用されたものだそうだが、Zuzuが自ら探し集め読み漁った100年以上前のアゼルバイジャンの書物などからピックアップしたという言葉は、そのまま現代社会の状況と照らし合わせて有効となるようなリリックとなっているのが興味深い。ロマンスと戦争、セックスとジェンダー、自然と機械、政治と社会を炙り出すような内容は、これが100年以上前の書物の一節からの引用とは思えないほど。というより、100年以上前の書物の言葉が、そのまま現在にも通用することに気がついた時、あるいは二人はこの作品に一定の緊張感と危機感を与え、警鐘を鳴らすことに決めたのかもしれない。
例えばアゼルバイジャン語で「お金」を意味する1曲目「Pul」では貧富による格差社会を嘆いている。「サイボーグ」を意味する4曲目「Kiborq」では人間がこの世から退場し金属で出来たロボットが支配する社会を憂う……といった具合。アゼルバイジャン語の歌詞表現について踏み込めるほどの知識はないが、ストレートと言えばあまりにストレートな現代社会へのアイロニーは、“一刻も早く”の意味の“ASAP”と、“神の思し召しがあれば”を意味する“inşallah”をくっつけた、やや宗教批判とも思えるアルバム・タイトルにもそのまま現れていると言えるし、既にそのタイトル自体が境界を曖昧にしていることにも気付かされる。
筆者は、もう長いことブラック・ミュージック(あるいは移民系音楽)にコンプレックスと贖罪の意識を持つ欧米白人たちの歪な音楽に惹かれ続けているが、スペイン出身のロザリア、パキスタン系のアルージ・アフタブ、あるいはプエルトリコ系のアリンダ・セガーラによるハレイ・フォー・ザ・リフラフらは……いや、コンプレックスでも贖罪でも転覆でも反発でも和解でもなんでもいいが、対象に向けられたその感情の“矢印”があちこちで無数に錯綜していることを伝えてくれる存在だ。そして、無数に錯綜すればこそ、まだまだ未完成なこのYa Tosibaがそう目論んでいるように、デフォルメされたその境目はおそらくさらに曖昧になっていくのだ。(岡村詩野)