パープル・カラーの新たなる誓い
「なぜ地球は私たちに愛(する人)を与えてくれるのか?」。そんな本作のタイトルを見て、この“Earth”とは何を示唆しているのだろうか、“Earth”は何の象徴なのだろうか? とふと思った。神か? 信仰心か? タイトルもアーティスト名も刻まれていない、ラベンダーかアジュガかムスカリか……美しい紫色の花に囲まれて芝に座る本人を捉えたジャケット写真からは、ただ母なる大地への謝意や思いを綴ったものなどではない、むしろ一定の運命、歴史への抵抗すら感じられたからだ。そしてそのパープル・カラーから連想できるのは、アリス・ウォーカーであり、あるいはビリー・ホリデイだった。
アリス・ウォーカーと紫の関係については説明不要だろう。ウォーカーはアフリカン・アメリカンの女性姉妹を描き、1982年にピューリッツァー賞を受賞した小説『The Color Purple』の作者。スピルバーグ監督によって映画化もされたこの作品で、彼女は自身体験し、見聞きしてきた黒人女性として味わされた差別、虐待、そしてそれでも決して失わない人としての誇りを描いた。と同時に、宗教的な呪縛から解き放たれ、存在が曖昧な見えない神に頼らない生き方、自身の中にこそその信仰の対象がある、という信念があの作品から窺える。
一方、昨年日本でも公開された映画『ザ・ユナイテッド・ステイツ vs. ビリー・ホリデイ』の劇中で、最後に「All of Me」を歌っているビリー・ホリデイ(演じていたのはアンドラ・デイ)が身につけていたドレスが淡いパープルで、その場面がとても印象に残っているというのもある。晩年の1枚『Solitude』(1956年)のジャケットも薄いピンク・パープルに彩色された写真だった(蛇足ながら、こちらも後期の作品『Body and Soul』(1957年)のリイシュー・ヴァイナル盤はパープル・ヴァイナルだった)。アリス・ウォーカーがそんなビリー・ホリデイの影響を受けていたことは想像に難くないし、このカーラ・ジャクソンがそうした先達が体を張って伝えてきた黒人女性としての矜持を受け継いでいるだろうことも、紫の花に彩られたジャケット写真から確信できる。すなわち、イリノイ州シカゴ出身、現在23歳のシンガー・ソングライターによる正式なデビュー作であるこのアルバムは、マ・レイニー、ベッシー・スミスから、マヘリア・ジャクソン、ニーナ・シモン、あるいはビヨンセやジャネール・モネイに至るまでの……確実にそうした“パープル・カラーの歴史”を継承した1枚でもある、ということだ。
だから、「なぜ地球は私たちに愛を与えてくれるのか?」 このタイトルからわかるのは、地球は我々に愛を与えているのに、我々は一体どこまで愚かなのか、という人間批判、もしくは空疎な宗教及び信仰心への批判、だが、その愛こそが人間に与えられた素晴らしい贈り物という事実への賛辞……ではないかと思う。タイトル曲の歌い出しはまさしく“Why does the earth give us people to love?”だ。そして、その後に続くのは、“Then take them away from our reach”であり、“Why does the earth makes us fill up the church?”。教会で地球が満たされていることへの疑念が強烈なインパクトを放つ。ポロンポロンと紡がれるアコースティック・ギターの音色に寄り添って咽び泣くように歌うカーラ。セカンド・コーラスからさりげないストリングスと自身によるハーモニーが挿入され、その不条理な哀しみは6分15秒もの曲の中盤付近まで重く重く響いていく。だが、黒人/有色人種差別を痛烈に批判したフレーズ“You collected colored pencils / and sharpened them when they got weak”をピークに、バンド編成が静かに躍動する終盤は晴れやかな曲調へと展開していくのだ。いつかまた歌える日が来るなら、私は最後に低いパートを歌うと約束する、と。ちなみに、この曲は2016年に癌で亡くなった友人に向けられた曲だそうだが、結果として、そうしたパーソナルな体験がもたらした喪失と友情をベースに、死という公平で自然の条理を前には、どんな生命体も、もちろん人類も、どんな肌の色の人間も同等であると表現しているように思える。
全米青年詩人賞を受賞したこともあるこのカーラ・ジャクソンが、素晴らしい散文詩人であり、知に対する欲求を言葉に与えることにとても情熱的であるという事実は、このタイトル曲に限らず、運命の愛する相手を探すことの無益さを歌ったような先行曲「no fun / party」など他の曲からも明らかだ。象、龍、蛇などのモチーフを効果的に配することで寓話的に読める趣向が凝らされているのも素晴らしく、2年前のバイデン大統領就任式で朗読したアマンダ・ゴーマン──そう、彼女もカーラと同じZ世代だ──の「わたしたちが登る丘」にも通じる勇敢さがある。
とはいえ、これらリリックの洒脱な妙味は、ブルーズやソウルのみならず、フォークやカントリーをもブラック・ミュージックとして捉える彼女の音楽的な饒舌さによって、より芳醇に、より輝いていく。彼女は2019年に『A Song for Every Chamber of the Heart』というEPをリリースしているが、まだ素朴なフォーク音楽という印象のあの4曲入り作品にはここまでの起伏に富んだ歌唱表現はない。かなり自覚的に自身のルーツ、アメリカの伝統的な音楽のルーツを奥深く掘り返す作業をしたのだろうか、もはや本作はフォークでもカントリーでもソウルでもR&Bでもヒップホップでもジャズでもないが、そのどれにも当てはまり、もはやどれでもいいと思わせる包容力とおおらかさもある。本人は、前述したブラック・ミュージックの先達に加え、なるほど、フィオナ・アップルの赤裸々な表出力やブルーズへのアプローチに影響を受けているようだ。
だが、多彩なエレメンツが滑らかに混在した末に、黒人女性という視点でさえもユーモラスに解放させたように感じさせる曲もある。例えば、ひどい男に惹かれては傷ついてしまう心情をちょっと自虐的に、大胆に綴った「dickhead blues」……この曲で冒頭に引用されたのは、カーラの元彼とも思える男性からのバースデイ・メッセージ。“(略)I hope yo- I mean it look like you’re showing well. Keep killin’ em, smack a white man”。この後にすぐ曲は始まる。“Damn, the dickhead blues!”(ああ、クズ男のブルーズ!)。
本作にはNNAMDÏ、KAINA、セン・モリモトら同郷のミュージシャンも参加。多様な民族が折り重なるシカゴのネットワークの豊かな繋がりを伝えたアルバムでもある。『The Color Purple』のアリス・ウォーカーは、自然の中に意外にも多くの紫色があることに気づいた、と語っている。パープルが黒人の権利獲得……それはしかし当然のこととする象徴的なカラーだとしたら、カーラ・ジャクソンがここに新たに記した紫色の約束は、神聖でシリアスなだけではない、もっと痛快に世情を蹴飛ばす誓いの合図なのではないだろうか。(岡村詩野)