慎ましき音の連続体
いつ始まったかもわからない。どこへ向かっていくのかもわからない。そして、いつ終わりを迎えるのかもわからない。冥丁の新プロジェクト=天花(Tenka)のデビュー作『水分補給(Hydration)』は、始点も終点もない、自然という環境でただ鳴っている音の長い連なりの一部を切り取ったかのような、穏やかな音に満ちている。風の戯れや潮の満ち干き、あるいは虫や鳥の鳴き声をシミュレートしたような電子音やノイズ、水が湧き出てくるところを捉えたようなクリック音、木々の細かいさざめきを表現したチャイムやベルのような音、柔らかなプリペアド・ピアノを思わせる音、そして、それら音の呼吸に合わせるかのように穏やかに鳴らされる持続的なシンセ・サウンド。そう、ここで鳴っているのは、延々と形を変えながら循環していく自然を尊重しすぎることなく、慎ましく表現したような音楽なのだ。
広島県在住の冥丁はこれまで、“Lost Japanese Mood”というコンセプトのもと、『怪談』(2018年)、『小町』(2019年)、『古風』(2020年)、『古風 Ⅱ』(2021年)といった作品を作り上げてきた。それらの特徴をひとつ抽出するとすれば、時間と空間の境界を溶解させることといえるだろう。それに加え、『古風』ではかつて第三者が残した民謡や童歌をサンプリングし、クラックル・ノイズと交錯させることで、より自然にノスタルジックな情景を描き出した。その様は、レイランド・カービーのザ・ケアテイカーによる『Everywhere At The End Of Time』シリーズやベリアルといった、マーク・フィッシャーいうところの“憑在論的な音楽”に通ずるものがあったといえる。さらに『古風 Ⅱ』では、昔の日本で生きていた人々の、えも言われぬ感情の蠢きを表現。とりわけ印象的なのが、様々な和楽器によるアンサンブルの躍動感が印象的な「黒澤明」で、それはまるで黒澤の『天国と地獄』から見え隠れする高度経済成長期の人々の光と闇を描いたようだった。つまり、彼の“Lost Japanese Mood”という特異なテーマに基かれた、時間と空間の境界を曖昧にするようなサウンドは、遠い記憶のようなものを呼び起こすだけなく、失われかけた感情をも表現していたのだ。だからこそ冥丁の音楽が新鮮に響いたのだと思う。
こうしてみると、冥丁の音楽は、音楽性は少しづつ変化しているものの、基本的には一つのテーマに準じて作られていることがわかるだろう。だが、新名義の天花でのこの『水分補給』には、あまりそういったテーマやコンセプトがあるようには感じられないのだ。強いて挙げるならば、今作は“自身が住む近隣の山林で何時間も過ごし、色、音、匂い、湿度、感触、雰囲気、味覚に焦点を当てた”ということから、自然ということになるだろうが、その穏やかなサウンドは決して自然というものを過度に意識させることはない。それが顕著なのが、心に染み渡っていく柔らかな電子音に、細かく刻まれるクリック・ノイズのような音や波の音を思わせるノイズ・ドローンが加わっていく「The Ocean That You Observe In My Aquarium ~ The Eternity I See In Your Eyes ~」。そこからは、自然と向き合いつつも、崇敬しすぎることなく、自分自身の呼吸のリズムのまま自由連想のように音を紡いでいるように感じるのだ。だからこそ本作には、慎ましいという言葉が似合う気がしている。そして、この慎ましい音楽に身を委ねれば、きっと耳だけではなく身体全体でそれを吸収したくなるだろう。(坂本哲哉)
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