Review

The Cure: Songs of A Lost World

2024 / Fiction / Capitol / Polydor / Lost Music Limited
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ドライブミュージックとしてのThe Cure

23 November 2024 | By Shoya Takahashi

『Songs of A Lost World』はザ・キュアーにとっての「Music For Cars」ともいえる作品である。1曲目「Alone」の前奏3分間から強烈だ。エーテル状の流麗な和声をならす鍵盤と、線の細い歪んだギターの音色。これだけでもう、『Songs of A Lost World』というアルバムの主題はほぼ提出されきっている。これらは、聴き手の耳を掴みきるのにまず失敗する。1990年前後のザ・キュアーの音楽の上澄みをすくって濾過したようなこの音像は、しかしクルマの運転という状況の副次行動として聴かれたときに、初めて真新しい表情を見せ始める。

つまり『Lost World』で、サイモン・ギャラップのベースやジェイソン・クーパーの太鼓の細かなニュアンスは、音圧不足をもってクルマのエンジン音にかき消され「聴かれない」。そして、リズム隊という骨格が失われたのちもかろうじて耳まで届くのは、濾過された上澄みの部分となる。それこそが前述の大仰な鍵盤と過剰に歪んだギター。これは例えるなら、2000年代のJ-POPをレジャー施設の休憩所で漏れ聞く、あるいは名もなきニューエイジトラックを深夜のネットカフェで聞くのにも似た体験だ。アンビエンス/エンヴァイロメントとしてザ・キュアーを聴くという、他ならぬ未知の体験がもたらされるのである。

「And Nothing Is Forever」について言及した「クソ長いイントロがしょうもない日本のティーンムービーの劇伴みたいで最高」という宇野維正氏の指摘はもっともだ。前の段落で触れた『Lost World』の特長を言い換えて、(ロバート・スミスのヴォーカル以外の要素における)記名性の薄さや重心の高さ、あるいはティーンエイジ的な茫漠とした感傷や透明感や疎外感、あるいはバックグラウンドミュージックとしての機能性、それらを端的に表現しているからである。「Warsong」のアタック感のない鍵盤による持続音や、「Drone:Nodrone」のポストコーラスで鳴るチープな電子音にしても同様。最終曲「Endsong」でもスミスは再び同じ主題を提示して、アルバムを締めくくる。歌い始めるまでの実に6分以上を前奏に費やすこの曲は、インストゥルメンタルこそが本作も核をなしていることを自白している(スミスは映画のサウンドトラックへの興味を言及している)。エントロピーを漸増させながらヴォーカルを包みおおうように広がった音の蒸気は、チルウェイヴの煌めきやドローン音楽の無調へと寄り道しつつ、どこにも着地することなく聴き手と空間を共有し続ける。

再びクルマの運転を通じて翻訳するならば。わたしたちの外界から遮断された筐体のなか、重力とは関係なく空中の水平移動を繰り返さなければならない、そんな状況と緩やかに融け合う音楽。じっさい『Lost World』のムードが映し出す風景は、午前6時台や午後9時台の、煩わしくも安らかな時間帯の町によく似ている。川の堤防沿いを工場づとめの自動車や夜走りのトラックが上っていく。一車線の道路では機械的な譲り合いが行われ、ようやく交通は機能している。リーヴス・ガブレルズの懸命なフレージングや、規則正しいスネアドラムの打撃、そして空中に留まりつづける鍵盤とギターの響きは、いち労働者だったり、いち生活者だったりするわたしたちのそんな大切なリアリティを思い起こしてしまう。そこには、例えばベテランバンドを取り巻く特有の、讃美か嘲笑かの選択を強いられるムードなど存在せず、いずれにも与せずただ「聴く」のみをささやかに許容してくれる。昂ることをやめましょう、貪ることをやめましょう、揶揄うこともやめましょう。低血圧の身体を責めることもせず、低体温のサウンドはそれでも邁進するよ。寝ても覚めてもいろんな実存を集めた色のように、喜びも悲しみも映してる。(髙橋翔哉)

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