命をもって脈うつ歌
大石晴子のファースト・アルバム『脈光』は4月末に発表されるとすぐさま音楽好きからの注目を集め、“日本語の「うた」は新しい時代に突入している“とする小熊俊哉の『SENSA』での評など、熱のこもった感想やレビューが立て続けに現れた。それは2019年にデビューしてEP1枚、シングル1枚を出した「知る人ぞ知る」女性シンガー・ソングライターには異例といっていいほどの反応だった。
では、大石の音楽の魅力とは何なのだろうか。それはまず第一に、彼女の歌そのものにある。「喉を鳴らす、唇を弾く」「鼻を鳴らす、舌先を弾く」と、自らの歌唱行為を細かく描写する「発音」にあるように、『脈光』ではリリックの意味と同じぐらい、あるいはそれ以上にアーティキュレーションや声の肌理一つ一つが重要になる。それは歌声があたかも独立した生き物のように命を持ち、躍動する世界だ。そういう意味で「脈光」という身体的なタイトルや、謎めいた塊が互いを包み合うようなジャケット、草木が命を持ったようにさざめく「さなぎ」のPVなどは、大石の音楽を表すのにふさわしいものと思える。
ここでは、1曲目の「まつげ」を取り上げてみよう。中村公輔の手による素晴らしい録音のなか、キーボードとライドシンバルが鳴らす持続音のうえに管楽器が重なり楽曲は始まる。ギル・エヴァンスなどを連想させる、霧のなかでゆっくりとものが動いていくようなオープニングだ。だが、各楽器がGナチュラル・マイナー・スケールから導出されるフレーズを奏でるなか、堀京太郎のトランペットはGm(add9)の根音Gと半音でぶつかるA♭に一瞬触れ、かすかな不穏さと緊張感が生まれる。その響きはまろやかな霧を切り裂いて外に出ようとする運動を感じさせ、この楽曲が、さらにはこのアルバムが大石の新たな境地を示すものであり、R&B・ネオソウルといったジャンル名に収まらないものであることを予感させる。
そして、大石の声が「恥ずかしい」という出だしの詞を歌うが、日本語の自然な発音に乗っとれば「は・ず・か・し(D・F・F・C)」と発音されるはずの言葉は「は・ず・か・し(D・D・F・C)」と、第一音の「は」のDを引き延ばすかのように歌われる。ミニー・リパートンやコリーヌ・ベイリー・レイに影響を受けたという大石がこの節回しを「崩し」と意識して歌っているのか、あるいは一種のメリスマとして自然に歌っているかは定かではないが、日本語の発音を揺るがすようなこの箇所は聴き手の印象に強く残る。
そして、なにより驚くべきは次の部分で、「はずかし」の「し」はそのまま「し~~」とゆるやかに伸びあがっていくのだ。「恥ずかしい」という形容詞は見慣れない生き物のようにその体の一部を伸ばし、グリッドを越えて全音上の「い」(「痛み」の最初の音)へとつながっていく。そして、そこに描かれる曲線はつややかに伸びる睫毛のイメージと重なっていくだろう。その後、「追っ手のない自由な私が」という言葉が三拍子に乗ったあとバックバンドは転調を繰り返し、大石の歌声は「まつげは瞳よりも黒くて平然と…」からの跳躍するパッセージを伸び縮みさせながら歌いこなす。その声はうねりながら、先行きを予想しようとする聴き手を翻弄する。ディスコミュニケーションを歌うリリックに合わせてしだいに歌唱は熱を帯びていき、「歩いて帰れない…」という最もエモーショナルなフレーズで頂点に達することになる。
このように『脈光』において、大石は日本語のアクセントやイントネーションを軽々と揺るがし、躍動させる。彼女が以前から抱いていたという言葉や発音に対する関心は結実し、ジャンルに収まらないオリジナルな日本語表現が生まれたと言っていいだろう。その他にも「港に船」のオクターヴ上に駆け上がるメロディ(「懐かしむのは…」)、「手の届く」の、半音での上昇を挟みつつ跳躍する、やや不穏で手探りするような節回し(「ことわりなく…」)など大石のうたが「運動」する瞬間はアルバムの随所にあり、聴き手の耳を強く惹きつける。また、その歌唱をがっちりと受け止め、ときに挑発するバックバンドにも最大限の賛辞を送るべきだろう。
これから『脈光』を聴く人は、まず曲順通りに1曲目「まつげ」の、美しく衝撃的な歌い出しを聴いてほしい。そこには、コロナ下で「見えないものを手繰り寄せるように」音楽を作っていたという大石の掴んだものが集約されている。また、俗な言い方で言い換えるなら、穏やかな曲調にもかかわらず大石は頭から「かましてきている」とも言えるのではないだろうか。その「かまし」ぶりに、そして、新たな日本語表現の登場に、驚きをもって応えてほしい。(吸い雲)