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tofubeats: NOBODY

2024 / Warner Music Japan
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語りを必要としない音楽、シグネチャーを手放すこと

07 May 2024 | By Shoya Takahashi

現実に人工知能がやがて人間と同じ自我に至ったら、人間は彼らを揶揄なく差別なく、「マシン」という一つの「人種」として、受け入れられるだろうか。工場で作られようが母体の子宮内で作られようが自我に貴賎があるのだろうか? 我々は、しっかりと受け止め、受け入れられるのだろうか。
(BOYS AGE presents カセットテープを聴け! 第九回:レディオヘッド『OKコンピューター』)

とはさいたま在住の音楽家、Boys Ageの筆によるものだ。一方で今回リリースされたtofubeatsの『NOBODY』は、全編AIヴォーカルによる8曲入りEP。この作品の背景には、tofubeats自身が発見して気に入った楽曲が、実は生成AIによるものでショックを受けたというエピソードがある。Sora、Claude 3、イライザ。2045年に来たるシンギュラリティを待たずして、人類のクリエイティヴィティはAIに引けを取り、ライターは廃業し、AIは感情を理解して人間に忖度し、不気味の谷は埋め立てられ、AIポルノは人間の欲望の集積と化すのか。いつか『少年マガジン』や『ビッグコミックスピリッツ』で夢想したサイファイの幻は、想像を上回る形で生体知能のレゾンデートルをまんまと解体してしまうのか。いやいやいやいやいやいや、そんなことはないでしょ(笑)。たぶんね(T ^ T)。

ときおり自身や人間の創造性の範疇を飛び越えるべく、偶発性やランダムなプロセスを作曲に取り入れる作家がいる。AIヴォーカルもまた、そんな創造性の外注作業であり、外部性の取り込みでもある。むしろそうすることでくっきりと、作り手自身の作家性が浮かび上がる。

tofubeatsの作家性とはなんだったのだろう。西村ツチカ原作のアニメ映画『北極百貨店のコンシェルジュさん』(2023年)の劇伴を聴いていたときは、それがtofubeatsによるものだと気づかないほどに作家性が埋没していた気がする。フリー音源サイト「DOVA-SYNDROME」で配布されているBGMのような無記名性は、アニメーションの平面性や絵画性を邪魔しなかった。しかし、一見してポップで流麗なビートのなかに、神経質な几帳面さや、こわばったような前のめりなキックや、不穏な和声進行が隠されていた。後期ピチカート・ファイヴの『Happy End of the World』(1997年)の、ラウンジ・ミュージック的な気やすさのなかにドラムンベース以降の切迫感や身体のこわばりを感じるように。

そして新作『NOBODY』はというと、一曲目「I CAN FEEL IT (Single Mix)」からやはり前のめりなビートに、『ORANGE』(1996年)期の電気グルーヴを思わせる頭でっかちな朴訥エフェクトが散りばめられる。ヴォーカルは「いつでもそばに」「昔の友達みたいに」と人懐っこい言葉を投げかけるが、AIならではの無機質な声質は耳と心を掴みきるのに失敗し、言葉はするりと逃げるように後頭部から抜け定着しない。

続く「EVERYONE CAN BE A DJ」は、2010年代以降のカリブーに『VITAMIN』(1993年)期の電気グルーヴを加えたような、アシッドなハウストラック。「だれでもDJにはなれる」と繰り返すリリックは、レディオヘッド「Anyone Can Play Guitar」(1993年)が「だれでもギターは弾ける/その程度のことなんだ」と付け加えるような意地の悪さは見せない。彼自身がApple Musicに「(DJは)すごく面白いことだから、みんなマジでやるべき」と素直に語っているように、音楽を主体的に楽しもうとする姿勢と生真面目さは、続く「なんでもいいからくりかえす」というあまりに無邪気なフレーズにもあらわれている。電気グルーヴが同じリリックで曲を作っていたら、間違いなくそこにはシニカルさとへそまがりさが込められていたことだろう(しつこく電気グルーヴを参照しているのは、『NOBODY』のビートやフィーリングに、90年代のバウンシーさやラディカルさを著しく感じるからです)。

「YOU-N-ME」でも、「どんなことも大丈夫/あなたとわたしなら」と向こうみずな享楽性をのぞかせる。こちらもアップリフティングなハウスチューンだが、たまに電気グルーヴ「フラッシュバックJ-popカウントダウン」(2000年)の大仰なSEが挿し込まれ……──電気グルーヴが好きなんです。彼らは片時もユーモアを忘れたことはないから。時折怒りや苛立ちが頭をもたげるのもいい。tofubeatsは作品のテーマを前景化させやすいためか、それとも彼自身が前述の通りまっすぐな誠実さを持っているためか、リスナーはしばしばシリアスになりすぎる。それは、彼の音楽や活動をめぐる言説や情報の多さからも伺い知れるし、それらの一部を読むと「文脈文脈うるせーよ」な気分にもなるけどね。だから彼が生身のヴォーカルがもつ訴求力を排し、言葉も最小限にし、いわば作品への直接的な語りを拒むようなEPを作ったのはなかなか示唆的ではないか。

そうそう、彼はいくつかの代表曲が証明しているように、歌詞におけるアフォリズムやコピーライティング能力に長けている。彼の最高傑作の一つ「SHOPPINGMALL」(2017年)は、アートワークにイラストレーションではなく自身の写真を使用し、ビートからも彼らしいアップリフティングさは薄れさせていたが、そこでも無自覚にも得意してきたアフォリズムを援用していたように思う。『NOBODY』ではそれすら手放した。歌詞は耳を掴みはしても、それ以上にAIによる声はやたら耳心地がよく、引用ツイートには不向きだね。

最後のタイトルトラック「NOBODY」の聴きどころを共有するとすれば、繰り返される「わたしは」という歌詞が「わたじわ」に聴こえるところ。「NOBODY (Slow Mix)」はさらにハイハットにこもったようなエフェクトが加わり、ビートがくぐもったり水中に潜ったりしている。「わたじわ、わたじわ」と自身に主体を見出すことができないAIは、そのまま水の底に沈んでいく……。

グラフィティ系生成AIが、文字や手指の描写を苦手とすることは知っているだろう。tofubeatsはEPの最後に、限りなく人間に近づいたAIがまだ抱えている「不具」までしっかり刻みこんでいる。そんな楽曲のタイトルは「NOBODY」。誰でもない。外から聞こえた人の声が、実はすきま風だったというように。生成AIに描かれたリミナルスペースのグラフィックが、どんな暗闇や路地よりも孤独を感じさせるように。AIはまだきっと、誰とも言葉を交わすことができていない。そこまで思いにふけったところで、わたしは冒頭に引用した問い──「人工知能がやがて人間と同じ自我に至ったら、人間は彼らを揶揄なく差別なく、『マシン』という一つの『人種』として、受け入れられるだろうか」──を再び思い出すのだが。

※NI(nature intelligence)により生成

(髙橋翔哉)


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