じゃあ、そのボトルメールを持っているのは誰だ?
作品は、インターネットへとリリースされる。未来へと連続するタイムラインを前に、一つの小瓶が放流された。それは不特定多数の感動を引き起こしながら、外形を削られながらも、超大なアーカイヴへと漂流していく。
インターネット上における芸術作品および情報の流通過程は、河川のメタファーによってしばしば把握される。そしてこの傾向は、プラットフォームやSNSの中で、より一層加速しているようだ。ここでは完全な一人一役など存在しない。瓶の送り手は受け手でもあり、受け手は拡散という手段によって容易く送り手としての性質を帯びる。ここでは全てが上流だ。ここでは所有は許可されていない。小瓶の中の手紙は、宛先を欠いたまま、高速で目たちを滑っていく。じゃあ、そのボトルメールを持っているのは誰だ?
『no public sounds』のリリースに伴って特設されたサイトで、君島大空によるセルフコンセプトノーツが公開されている。そこではインターネット、ひいてはサブスクリプションサービスにおける音楽の発表様式への違和感、そしてその“遊び方”を模索することへの希求が述べられている。
例えば、本作より8ヶ月前に届けられたばかりのファースト・アルバム『映帶する煙』は、リリースされること自体が“それまでのキャリアの総括”という意味を帯びていた。しかし、『no public sounds』の力点は、インターネットにおける音楽作品の公開や流通経路への疑義に置かれている。
ここで留意したいのは、かといって『no public sounds』が、単なるノスタルジックな欲望に依拠していないという点だ。というよりむしろ、0と1の激流にサーフボード浮かべてグァバジュース片手に乗りこなし、様々な岸へ居る私の元へと辿ってくる身軽さ。それは「c r a z y」での、生々しいロック・ドラムと簡素な打ち込みが自由にスイッチされていくような、イマジネーションに素直な形で実現されている。
遊びの実践は、跡すら発見できないほど巧妙に施されたコラージュが物語っている。君島のルーツの一つにメタルがあったことを思い出させてくれるオープニング・トラックの「札」では、粒の細かい歪みを通過した低音弦のリフが奏でられるパートに挟み込まれるように、滋味深いメロトロンと歌が挿入されている。それが突飛ではなく、まるで当然であるかのように、無邪気に楽曲は進行するのだ。アルバム前半の「˖嵐₊˚ˑ༄」や「諦観」にハイパーポップ勢との共通性を感じるのは、そのマキシマリズムも去ることながら、彼らがコラージュによってインターネットという広場における遊び人としての道を切り拓いたことに依るものだろう。
また『no public sounds』では、君島が過去の作品で提示してきた音響上の実験がより大胆に行われてもいる。「映画」からは、ザ・ケアテイカー『Everywhere At The End Of Time』シリーズやウィリアム・バシンスキー『The Disintegration Loops』シリーズといった、録音物の劣化をテーマにとった作品からの連続性を感じることができる。前作のタイトル・トラックや「遺構」、EP『袖の汀』(2021年)収録の「白い花」でも同種の試みは確認できるが、ここではよりプログレッシヴに、構成音のほとんどが輪郭を欠いた上に君島の歌が乗る。
創造的な遊戯は新たな発見をも呼び込む。「curtains」に耳を傾けてほしい。やや舌足らずな君島の発音によって日本語と英語は平化され、意味に先行した音が残存する。J-POPやヒップホップの領域でも、両言語の越境に関する挑戦はこれまでに幾度となく行われてきたが、「curtains」は発音を限りなく平化することによって、越境とはまた別のオルタナティヴな視座を提供した。
そう、ここはとても身軽だ。ジャンルも言語も、違っていようと会話ができる。これまでにも君島の言葉が志向していた他者への眼差しは、無邪気なマキシマリズムを羽にして、より遠い地点まで駆けていく。「16:28」や「沈む体は空へ溢れて」に顕著なように、『no public sounds』では〈会う〉ことが強調されている。もしくは「- – nps – -」の主人公のように、〈探す〉ことも希求されている。
この身軽な歌たちは、プラットフォームの中で手持ち無沙汰に彷徨っている私を見つけては、何度も私の眼前に転がってくる。0と1の大河で、このボトルメールは流されることを楽しみながら、這い出た先で私に読まれる。そういった確信を、この作品は抱かせてくれるのだ。無垢なままで、爆笑しながら、小瓶の中の言葉たちは二人称の私と出会う。(風間一慶)