感情や日常を聴き手と分かち合う器
2022年11月に町田市の《まほろ座》で開催され、大きな反響を呼んだ小西康陽と矢舟トシロートリオのライヴ。もちろん私も配信で観た。あれからだいぶ時間が経つ今も、小西がアンコールで号泣しながらピアノで弾き語りしたピチカート・ファイヴの名曲「マジック・カーペット・ライド」のことを時々思い出す。あの美しさは一体どこからくるものだったのか、いまだによくわからない。しかし一つだけ言えることは、歌というものが持つ根源的な力をあの瞬間に見たような気がしたということだ。ポップ・カルチャーの森羅万象に精通し、批評性という鎧をまとって一つの時代を築いた小西康陽。そんな百戦錬磨のアーティストが老境の域に達して向き合った、メロディーと言葉という音楽の最小単位。それが彼の心の堤防を決壊させたことに、畏怖にも近い感動を覚えたのである。
長辻利恵のファースト・ソロ・アルバム『逆光のシルエット』を聴いた時に浮かび上がってきた感情も、それと同じ種類のものだった。バート・バカラック、ロジャー・ニコルス、ピーター・ゴールウェイにカート・ベッチャー。60〜70年代のポップソングの名手たちの名前が次々に浮かんでくる洒脱でキャッチーなメロディ。ガールポップという言葉すら使いたくなるような爽やかで親しみのある歌声。この組み合わせは、聴き手を否応なく90年代半ばから00年代初頭あたり、後期渋谷系の記憶へと誘ってくる。しかしここには、おそらく当時ならばあしらわれていただろう華やかなホーンやストリング、サンプリングやリズムマシーンによるギミックは存在しない。鳴らされている音のほとんどは、簡素で質実な、ドラム、ベース、ギターとピアノ。そして歌だけである。このプレーンな音像が歌のしなやかな強さを際立たせ、音と音の余白から、あの頃から年を重ねた分だけの豊潤にしてビターな余韻を感じることができる。
長辻は1974年生まれ。小西康陽より一回り以上も若い上に、彼女がメンバーとして2000年代初頭、関西を中心に活動していたGolden Syrup Lovers 、あるいはLABCRYの三沢洋紀らとのユニットのPONYは、USインディー、サイケ・ロック、オルタナ・カントリーあたりに直結したサウンドである。世代的にも地理的にも音楽的にも、渋谷系を引き合いに出して語るのはちょっと強引なのかもしれない。今作の中では異色の、シューゲイズ/オルタナ・ギターが炸裂する7曲目の「ジュピター」こそが彼女のルーツと言うべき音なのだろう。しかし、そこからの距離を飛び越えて、オーセンティックなポップスをあえて選び取ったからこそ、ノスタルジーという言葉だけでは括れない新鮮さがあるのではないかと思っている。
実際、歌詞に耳を澄ましてみると、「未来がもっと先にあった頃は 隣にいた君が とても大人に見えてまぶしかった」(「逆光」)、「何かが足りなくて それが分からなくて お互い奪い合って」(「スニーカー」)といったフレーズに象徴されるように、軽やかな曲調とは裏腹に、若い頃に思い描いたようには進まなかった、現在進行形の人生が見え隠れする。こうした感情や日常を聴き手と分かち合う器として、歌とメロディを必要としたのかもしれない。
私たちは永遠に若くはない。しかし若さのすべてを失くしてしまうわけでもない。一曲の歌が、かくもややこしい私たちの「あの頃」を瞬時に立ち上らせると共に、現在地のかけがえのなさを教えてくれることがある。そんなことを思い出させてくれる作品だ。(ドリーミー刑事)