何となく部屋に流れる音
告白すると、僕は折坂悠太を避けていた。といっても、聴くことを避けていた訳ではない。折坂悠太を知ったのは2017年にライヴ録音の『なつのべ live recording H29.07.02』が出た時で、これは凄い人が現れたものだと思ったし、興味惹かれて、インタヴューを読んだりもしていた。
しかし、言葉を発するのは避けていた。めんどくさかったのかもしれない。何か書こうとしたら、職業柄、気の利いた指摘のひとつもしなければいけない。ところが、折坂悠太という歌手は最初から完成されている感があって、その余地がないような気がした。なにしろ声が強い。その声の強さは民謡歌手や演歌歌手にも通ずるところがある。日本語が腰を据えた響きで入ってくる。
個人的にも親交のある中村公輔や葛西俊彦がエンジニアリングを手掛けているので、サウンド・プロダクションにも興味があった。過去の2枚のフル・アルバム、2018年の『平成』と2021年の『心理』は、どちらも現代のシンガー・ソングライター作品はここまで作り込むのだと思わせるクォリティだった。リズムのヴァリエーション、ちりばめられたジャンル横断的な音楽要素の幅にも目を見張らされる。果てはサム・ゲンデルの夢幻的なサックスまで出てくる。
僕の好きな要素だらけじゃないか。しかも、そうした音楽的な意匠にとってつけた感がない。インタヴューを読むと、外部のプロューサーのアイデアではなく、折坂悠太自身がヘヴィな音楽リスナーで、引き出し豊富なのが分かった。少年時代にはロシアやイランで過ごした経験も持つという。ますますもって、僕などが解説するような余地はないと思われた。
もし某音楽雑誌のクロスレヴューが回ってきたら、『平成』や『心理』には間違いなく、9点か10点を付けていただろう。だが、そんな依頼もなかった。現代のSNS上では、何か体験したら、それを書き残しておかないといけないような風潮というか、強迫観念のようなものがある。本読んでも、映画見ても、あるいは美味いラーメン食べただけでも。
別にいいじゃんね、自分だけのものとしてしまっておいても。昔はそうやって、いつか開けるかもしれない引き出しを作っていったものだった。
そうそう、本、映画、ラーメンと書いて思い及んだが、音楽のアルバムというのは、本や映画よりもラーメンに近い、というのが僕の考え方である。本や映画は一度の体験を反芻する。そんなに何度も読み返したり、観なおしたりはしない。だが、アルバムは気に入ったら、繰り返し聴く。気に入ったラーメン屋に通うように。
しかし、リピートするかどうかは、アルバムの、あるいは一杯のラーメンの完成度とは必ずしも関係しなかったりする。作品としては文句なく9点10点つけるけど、一回でお腹いっぱいということもあるのが人間である。僕にとって、折坂悠太の『平成』や『心理』は、そういう傾向を持つアルバムだったかもしれない。なにしろ情報量が多過ぎる。何となく部屋に流れる音としてかけておく、というのは考えられなかった。
『心理』の中の「トーチ」という曲は大変な名曲だと思うが、YouTube上で折坂悠太の弾き語りによる「トーチ」を観た時に、アルバム・ヴァージョンよりもそっちに惹かれた。鍵盤楽器で意識的にコードの動きを抑えて聴かせているアルバム・ヴァージョンは現代的なサウンド・デザインだったが、ネイキッド・ヴァージョンともいうべき弾き語りは、この人は洋楽でいえば、ジェイムズ・テイラーのような安定感を備えたシンガー・ソングライターで、たぶん、何十年後にもこの曲を同じように弾き語っているだろう、と思わせるものだった。
ところで、最近、僕は引越しをした。引越し先はもともとは茶道教室だった古い日本家屋で、縁側と障子に囲まれた10畳ほどの和室がある。その家を選んだ最大の理由はその和室をリスニング・ルームに改造したかったからだった。
折坂悠太の新作『呪文』は、僕がその和室に愛用のスピーカーを運び入れるのと、ほぼ同時に発表された。『呪文』は僕がその部屋で聴く最初の新譜になった。冒頭の「スペル」が部屋に流れ出した時、その自然さに驚いた。折坂悠太の歌声が多分に「和的」な響きを持っていることは先に書いた通りだが、バンドの演奏やサウンドのミキシングを含めた音楽全体の肌あいとして、それはその空間に好ましいものだった。これならば、何となく部屋に流れる音としてもかけておける。
聴きながら、僕は「和的」な響きを持つバンド・サウンドの系譜について、考え始めていた。最初に思い浮かんだのは、大滝詠一の最初のソロ・アルバム(1972年『大瀧詠一』)に入っていた「それはぼくぢゃないよ」だ。バンド・サウンドと書いてしまったが、この曲は実は大滝詠一と駒沢裕城の二人だけの演奏で、スティール・ギター以外のすべての楽器は大滝によるもの。サウンドの志向的にはカントリー・ロックなのだが、しかし、これがまったくアメリカっぽくない。畳の匂いがするようなカントリー・ロックなのだ。
あるいは、同じく駒沢裕城がスティール・ギターを弾いている小坂忠とフォー・ジョー・ハーフのライヴ・アルバム『もっともっと』(1972年)にもそんな曲が幾つかある。「機関車」は小坂忠が自身で作詞作曲した彼の代表曲で、最も有名なのはティン・パン・アレイとともに制作したアルバム『ほうろう』(1975年)のヴァージョンだろうが、僕はこのライヴ・ヴァージョンが一番好きだったりする。力が抜けていて、カントリー・ロックなのに、なぜかこれも「和」な佇まいがある。
そんな1970年代の音源を聴き返しているうちに思い当たった。折坂悠太の最新作『呪文』には、「機関車」の『もっともっと』ヴァージョンのような魅力があるのだと。「機関車」の『ほうろう』ヴァージョンはゴスペル・ソウル風味にアレンジされていて、ティン・パン・アレイの演奏もソリッドだった。完成度高い。聴き応えある。しかし、『もっともっと』のライヴ・ヴァージョンは風が吹き抜けている。これは折坂のアルバム前二作と『呪文』の差にも通ずるのではないだろうか。
僕が聴いている『呪文』はOTOTOYでダウンロードしたハイレゾ版だが、これはマスタリング・レベルも控えめだ。聴き手をねじ伏せるような圧はない音である。パーマネントなバンド・メンバーとの演奏もライヴっぽい。白熱する時もあるが、飽和はせず、風が吹き抜けている。冒頭の「スペル」の中で、ベースとヴォーカルのノートの交差がきわどく思える箇所があるが、人間と人間なんだから、そういう瞬間もあっても先に行く感じ。と思っていたら、3曲目の「人人」という曲が、そんな柔軟なアティテュードを表すような曲だった。
実際はどうだったかは分からないが、マルチトラックをパーツにばらして吟味したり、一小節ごとにアレンジを詰めたりするよりも、そこにいる人を重視する。人と人の間で起こることを重視する。そういうプロダクションだったんじゃないかと思えてくる。
『なつのべ live recording H29.07.02』の次に、こんなアルバムを聴いていたら、僕はもう少し気楽に折坂悠太の音楽をリピートしていたのではないだろうか。でも、いきなり『平成』まで行ってしまうのが、現代のアーティストなのだろう。情報もツールも目の前に揃っているから。肌あい的には『呪文』の方が先にあったアルバムっぽいのだが、ここまで戻るのに時間がかかった、ということなのかもしれない。
そういえば、『呪文』の最後の「ハチス」はマーヴィン・ゲイの「What’s Going On」タイプのソウル・フィーリングがある曲だが、『平成』の冒頭の「坂道」も同じタイプの曲だった。何だか一回りした感がある。しかし、「坂道」に比べると「ハチス」のグルーヴはずっと柔らかい。途中のポエトリー・リーディングでは、パンにジャムを塗るような個人の日常の情景から突然、「しいて何か望むなら、すべての子供を守ること」という大きなメッセージが飛び出てくるが、これは曲調が呼び寄せたのかもしれない。「しいて何か望むなら」と前置きした個人の感情吐露としているのがこの人らしいと思うが、もっと臆面なくヒューマニズムを訴える折坂悠太も、もう一回りした頃には見ることができるような気がしてきた。(高橋健太郎)