法王は眠り、私たちも眠る歌
偉大なアーティストを肉親に持つ者は、少なからずその威光を携えた存在として認識されてしまう。しかし、その親がジョアン・ジルベルトだった場合はどうだろう。「ボサノヴァの法王」として世界中で支持されているのにも関わらず、彼の作品や生前の映像から、姿勢を正してしまうような格調の高さは香ってこない。ふらふらと揺動する声とギターは、なだらかな猫背からだらっと漏れてきては、色も無く超然と漂うのみだ。
そんな父、ジョアンと偉大なシンガーであるミウシャとの間に生まれたベベウ・ジルベルトは、やはり法王の威光を微塵も感じさせない、独特のキャリアを歩んできた。ボサノヴァ・シンガーとしての確かな実力を備えつつも、彼女はオルタナティヴな要素を必ず作品に忍び込ませるのだ。
例えばブレイクスルーとなったアルバム『Tanto Tempo』(2000年)では旧ユーゴスラビア出身のプロデューサーであるSubaを迎え、エレクトロニカの要素を大々的に導入。テイ・トウワ「TECHNOVA」での歌唱やケニー・Gとの共演など、他ジャンルのミュージシャンとの交流も盛んだ。2017年リリースのライヴ・アルバム『Live at the Belly Up』ではレディオヘッド「Creep」のカヴァーを聞くこともできる。
ボサノヴァの創始者とも目される父の下に生まれながら、ジャンルの外側からボサノヴァを照射してきたベベウ・ジルベルト。ディスコグラフィを追うだけでも、「直進」というより「旋回」や「浮動」といった表現の方が似合うアーティストであることがわかる。だからこそ、亡き父、ジョアンへ捧げるトリビュートとして制作された最新作『João』の持つ意味は大きい。ベベウが自身のアルバムで父、ジョアンのカヴァーを披露するのは、前世紀にリリースされたデビュー作以来となる。
ジルベルト親子の、特にスタジオ録音のアレンジを比較すると、両者の明確なヴィジョンの違いが伺える。『João』の中でも目立つのは、ジョアンがちょうど半世紀前の1973年にリリースした『三月の水』(原題『João Gilberto』)からのナンバーだ。ジョアンの『三月の水』は非常にミニマルな編成となっており、声とギターの他にはハイハットの音しか足されていない。故に浮遊感のあるコードの反復が強調され、霊性を帯びたサイケデリックな音像となっている。対して『João』では、「É Preciso Perdoar」でのシンセサイザーのリバース音や、ミニマルな編成から徐々に展開する「Undiú」など遠景への広がりを感じさせるアレンジが施されている。直接的なオマージュを避けるアプローチは、表現者、ベベウなりの独特なリスペクトであるようだ。
数々の名曲に音響的な広がりを設けるのは、セイント・ヴィンセントやノラ・ジョーンズとも協同するアメリカ人プロデューサーのトーマス・バートレット(ダヴマン)。2020年にリリースされた前作『Agora』で初めてベベウとタッグを組み、そこではポーティスヘッドのようなザラついた低体温のビートを芯のある歌声に添えていた。
今作でそのような実験精神は背景化され、例えばアントニオ・カルロス・ジョビン作曲のM5「Ela E Carioca」で薄く敷かれたシェイカーのように、声とギターへの添え物のような役割を果たしている。反対に「Adeus América」や「Eclipse」など、ジョビンの演奏ではフィーチャーされることのなかったピアノの音色がトーマス・バートレットの演奏によって強調され、それらはボサノヴァに留まらないヴォーカル・アルバムとしての完成度を引き上げている。ソロ作で披露したノクターンや参加作のスフィアン・スティーヴンス『Carrie & Lowell』(2015年)でのプレイなど、沈静を誘うピアニスト、トーマス・バートレットの本領が味わえるアルバムとしても十分に楽しめるだろう。
オルタナティヴな要素を包含しつつ、亡き父への有閑なトリビュートとして仕上げられた今作。「Desafinado」や「O Pato」といったスタンダード・ナンバーの披露のみならず、父子の関係性が紡ぐストーリーも『João』では展開されている。当時生まれたばかりのベベウに捧げられた、先述した『三月の水』収録の小品「Valsa」は、催眠的なミニマリズムの極地とも言える3分間のスキャットだ。両者を繋ぐ重要な一曲で、言葉が介されることはない。そこには意味に与しない声だけがある。いや、意味はなくとも、声の意図はあるのかもしれない。そしてそれは、今作のカヴァー・フォトとして採用された若きジョアンとベベウの2ショット写真のように、お互いの囁き声だけが通じるパーソナルな場所でのみ通用するコミュニケーション・ツールなのかもしれない。
そしてもちろん、私たちは容易に父子の“おしゃべり”へと介入できない。当然だが、父子の関係性など、3分間の歌のみで他者が完全に理解できるようなものでもあるまい。しかし、スキャットの催眠的な魅力に打ちひしがれ、瞳を閉じてしまいたくなる3分間が、父子の関係性と同等かそれ以上にパーソナルな領域であることもまた、歌によって支持されるべき事実として確認されるべきだろう。そしてその二面性こそ、パーソナルな表現の持つ、まさに強度とでも言うべき機能に他ならない。誰かの悼みと、それに関与しない他者のパーソナルな領域。隔てられているはずの二つの場所が、閉じられた眼の中で顔を合わせる。そうして声もギターも、“眠り”という最もパーソナルな領域へと還元されていくのだ。永い眠りの中にある法王へのトリビュートは、かくして瞼の裏で行われる。それも、囁くように。(風間一慶)
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