「老成」と「若づくり」のあいだで
5オクターブの声域、ホイッスルヴォイス、メリスマ唱法、ゴージャスな歌声、そして冬の風物詩としてのクイーン・オブ・クリスマス──。マライア・キャリーほど、その存在と歌声が記号化され、世俗と神話の両次元でアイコン化しているアーティストもいないだろう。それでいて、ワールド・ツアー《The Celebration of Mimi》を開催し日本でも3公演を実施、さらにこの度7年ぶりとなるアルバム『Here For It All』をリリースした。マライアは「All I Want for Christmas is You(恋人たちのクリスマス)」だけで毎年約300万ドルを稼いでいる、なんてエピソードもあるくらいだから、なおさらこの活動量には舌を巻く。彼女の中に、新しい音楽を作りライヴで届けていくということの、何ごとにも代えがたい歓びがあるのだろう。
その今作だが、聴くと、まずヴォーカルの変化に気づく。壮大なスケールの歌唱で歌い上げていくようなマライアらしいスタイルというよりは、伸びやかな高音は控えめで、ある程度音域を絞った中でのかすれや息継ぎ混じりの表現が目立つ。ところどころ加工されているようなパートもある。けれども、それが悪いわけではない。むしろパワフルさが抑制されたぶん、繊細な表現力は強まったような印象すらある。声量は弱くなったが、今作は今作で、のびのびと歌うマライアが堪能できて新鮮だ。過去の栄光を守ろうとする力みがないぶん、ごく自然体に歌へ向き合っているように聴こえる。
サウンドも、アンダーソン・パークの好演が光る「Play This Song」をはじめとして、ディスコ、ソウル、ゴスペルといったジャンルの力を借りながら古き良きマライアの音楽性がアップデートされた印象だ。マライア流オーセンティシティの更新、とでも言えばよいだろうか。とはいえ、現行ヒップホップ/R&Bのプロダクションによって上質かつモダンな質感で録られているため、古臭くは感じない。ヴォーカルにおいてもサウンドにおいても、若作りにも老成にも逃げ込まずに、その一歩手前で留まる姿勢が感じられるのだ。つまり本作は、今のマライアによる、マライア像の再編集として受け止められる。現在のマライア自身による、セルフ・リメイク=自己批評的プロジェクトのようなたたずまい。彼女はここで、記号化されたマライア像──ガラスのようなハイトーン、華美なアレンジ──を再演するのではなく、それらを素材として再構成している。
若作りと老成のあいだで、のびのびと歌うマライアのスタンス。それは、エリックB&ラキムの「Eric B. Is President」が引用され歴史の彼方に飛ばされそうになりつつも、立体的な音空間によって“あいだ”を表現する「Type Dangerous」にも顕著だ。他にも、「Play This Song」や「Sugar Sweet」ではアンダーソン・パークのグルーヴの中でヴィンテージとモダンが並列化され、「Jesus I Do」ではゴスペルの再文脈化とDAW的な緻密さが共存する。むやみな新しさの追求ではなく、もちろん懐かしさの再演でもなく、2025年を生きるマライアの肖像となっている今作。それは、衰えではなく「熟成」であり、懐古ではなく「リ・アレンジ」であり、自伝ではなく「再編集」と説明した方がしっくりくる。
彼女はもはや新しいマライアを作る必要はない代わりに、マライアという現象そのものをもう一度デザインし直しているのだ。ゆえに、『Here For It All』は単なる復帰作ではなく、マライア・キャリーというブランドの自己批評的アップデート版として成立しているだろう。「マライア・キャリー」という現象の、セルフ・ディレクション。巨大な文化遺産と化したレジェンド・アーティストが、過去をなぞり続ける形ではなく、かといって無理やり現行のフィールドにしがみつくわけではなく、いかにヘルシーに後期のキャリアを形成していくか。その理想の形が、『Here For It All』にはパッケージされている。(つやちゃん)

