フィジカリティのゆくえ
――あの頃のキム・ペトラスに想いを馳せながら
キム・ペトラスの待ちに待った、本当に待ちくたびれたファースト・アルバム『Feed The Beast』が酷評を受けている。特に英米メディアは手厳しい評を並べており、容赦がない。《Pitchfork》は「メインストリームの名声を求めすぎるあまり自分のエッジをすべて削ぎ落としてしまった」と批判し、《The Guardian》は「ノスタルジックな雰囲気を醸し出すにはあまりに軽率でちぐはぐなサウンド」と一蹴。音楽メディアから一般大手メディアに至るまで、強い口調でペンを走らせている。これまで熱量高い支持を贈っていたLGBTQ+メディアに至っても、鋭い牙を向けているようだ。カナダの《Xtra Magazine》は次のように切り捨てた。「キム・ペトラスが人々にどのように記憶されたいか、が問題なのだ。ストリーミングやTikTokの再生回数、そして散々なデビュー・アルバムという形で記憶されたいのか? それとも、彼女のアイドルであるマドンナやカイリー・ミノーグのように、障壁を打ち破り先見の明がある作品群を生み出したと記憶されたいのか? ファンも批評家も、彼女にはその可能性があることを知っている。しかし、『Feed The Beast』でペトラスは他の人たちが作ったゲームを演じているに過ぎない」
批判のポイントは、いくつかに分類できる。収録曲のほとんどがTikTokに最適化され、短い尺に振り切って作られていること。過去作と比較しリリックが保守的な内容に終始していること。そして、――最終的に和解となったため言及の方法には留意しなければならないが――、ケシャが性的虐待で長く被害を訴えていたプロデューサーのドクター・ルークとますますの蜜月な制作体制が敷かれていること。中でも作品のクオリティについては総じて疑問の声が上がっており、例えばニッキー・ミナージュとの曲「Alone」では、サンプリングしているアリス・ディージェイ「Better Off Alone」(2000年)の使い方に工夫が見られないという指摘も多い。
これらの意見には、私も概ね同意する。しかし、いくつか同情すべき点もあるだろう。本来、すでに完成していたデビュー・アルバム『Problématique』が流出したことにより、本作は新たに制作を進めなければならなくなった。その間、恐らくレーベルの圧力により、楽曲は日に日に角の取れた凡庸なものに変化していったのかもしれない。サム・スミスとの「Unholy」(2022年)が第65回グラミー賞で最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス賞を受賞したことも大きいのではないか。恐らく、レーベルからは売り上げに対するかなりの具体的なオーダーが提案された。しかし変化を薄々感じながらも、世間はキム・ペトラスに対する期待値を下げなかった。なぜなら、待ちに待った正式なファースト・アルバムであり、グラミーの授賞式のスピーチも涙を誘うものだったから。彼女はソフィーとマドンナという2人の偉大な音楽家の名前を挙げ、こう述べた。「すべてのトランスジェンダーのレジェンドに感謝の意を表したい。なぜなら、今夜私がここに立てているのは、ここまでの道を切り開いてくれた先人たちのおかげだから」と。
少しずつ記憶が掘り起こされてきた。ソフィーの話をしよう。
キム・ペトラスを初めて知ったのは、2017年にリリースされアンダーグラウンド・シーンで話題になった「I Don’t Want It At All」がきっかけだった。ダンス・ポップ調の軽快なシンセと弾むような歌唱にも惹かれたが、さらに興味深かったのはMVで、パリス・ヒルトンが祭られた中でショッピングを楽しむという世界観が抜群にキッチュで酔狂で素敵だったのだ。そこから彼女の<Era1>と名付けられた初期のデジタル・シングル集を追いかけていったが、最も感銘を受けたのはシリーズ終盤の2019年2月にリリースされた「1,2,3 dayz up」だった。プロデュースは、ソフィー。連名で発表されたこの短いナンバーこそが、私は今でも彼女の最高傑作だと思う。まず、声が良い。このアーティストの最大の持ち味は絶対的な“声”であり、艶やかで、けばけばしくて、どこか人工的な感触が記名性を持っている。オートチューンなどの加工に馴染みやすく、しかしどれだけ手を加えてもキム・ペトラスと分かるボーカル。「加工された声」と「それでも残る本人の何か」があり、その「残った本人の何か」がソフィーならではの破壊的かつ陽気な――これもまた複雑なニュアンスだ――タッチで演出されていた。何よりも、メロディとリリックに“私は生きなければならない”という力がみなぎっていた。哀しみを全てかき集めて祈ることで、マイナスとマイナスが掛け合わさってプラスになってしまったような、強行突破のハッピーなメロディが涙を誘ったのだ。
それらは、つまらない言葉で表現してしまうと「あの頃のキム・ペトラスはバブルガムでハイパーな魅力があった」ということになるのかもしれない。つまらない表現だけれど。確かに『Feed The Beast』は大仰で下品なサウンド処理がやや影を潜め、オーソドックスなダンス・ポップが前景化している。ただ、問題はサウンドそのものの変化よりも、彼女のいきいきしたフィジカリティが失われている点ではないか。実を言うと、その魅力はすでに昨年リリースのEP『Slut Pop』で後退していたと思う。2019年のミックステープ『Clarity』には、まだこのシンガー特有の肌理のある官能的な声が残っており、特に表題曲では音韻によるダイナミズムも発揮されていた。
もしも別の角度から『Feed The Beast』を擁護するのであれば、そもそもキム・ペトラスは本来マドンナともソフィーとも全く異なる才能を持ったアーティストだという主張になる。彼女はマドンナのようなトレンドに対する敏感な視点は持ち合わせていないし、ソフィーのような独創的な音像に対する感性からも遠い。チャーリーXCXのように、「Boom Clap」でヒットを生みつつもその後尖端的なテイストを強めていったアーティスト性とも異なる。彼女が達成してきたことは、エッジィなサウンドを人工的でキュートな世界観に落とし込んだ上で、より一層フックある仕掛けを作ることだった。そして、生きていることがどれだけ素晴らしいかについて、その渦に多くの人を無理やり引きずり込み信じさせるという芸当に長けていたのだ。だからこそ、今作について、「本来エッジィなアーティストが……」とソフィーやチャーリーXCXを引き合いに出し批判するのはやや的外れなジャッジだろう。先鋭と通俗のバランスが崩れてしまったことよりも、その均衡をもう一度探ることよりも、もっと大切なことがある。思えば、パリス・ヒルトンのキュートさというモチーフを、愛を持って世界一巧みに再定義できるのはキム・ペトラス以外にいなかったはずだ。願わくば、どこに行っても誰と組んでも、キム・ペトラスの「加工された声」と「それでも残る本人の何か」が、それでもきちんと残りますように。どのレーベルにいても、どんなプロデューサーと組んでも、それでも、それでも……。
“O-o-o-o-one days up/Two days up/Three days up/We don’t stop, we don’t stop, we don’t stop/I never, I never quit/I got a bag in my bag……(一日後も、二日後も、三日後も、私たちは止まらない。絶対にやめない。せっかく手に入れたんだから……)”
キム・ペトラス「1,2,3 dayz up feat.ソフィー」より
(つやちゃん)