あの部屋から海を思う、生活の音楽
彼女の歌詞には「海」を連想させるものが多い。それは彼女の出身が茅ヶ崎であったり、石垣島での生活で着想を得た曲もあったりなど、海や自然と生活が乖離していないからなのだろう(そもそも“浮”=“海に浮かぶ浮標”であるし)。そして本作にも大らかで穏やかな自然と、ささやかで地に足のついた日々の生活、その二つを接続させようとする跡が見える。弾き語りからトリオ編成、作詞提供、他アーティストとの共演(何と浅井直樹の新譜『ビートデリック』にも参加)など様々な活動を経た、米山ミサによるソロ・プロジェクト約3年ぶりの作品は地に足をつけ着実に、手の届く距離の美しさを切り取る。
前作『三度見る』で特に印象的だったのはサウンドのリバーブ(残響)感。フォーク、民謡的な影響を強く感じる歌唱に深くリバーブがかかり海面から空へと上昇していくように多幸感が広がる。それはまるで彼女自身が海と溶け合うかのような、ある種憑依的な力強さも感じるし、シンプルなようで意外に積極性のあるサウンドの感触があった。
比較して今作は、部屋で鳴らされているかのような静謐な印象だ。エフェクトのかかっていない、彼女の声そのままをパッケージしたアコースティックな空気。もともとの声質からして重心が低く落ち着いた印象が持ち味だったため、抑制のきいた声が生々しくも素朴に、一人の人間の歌として聴く人の傍に浮かび上がる。また、楽曲をサポートする演奏陣もアンプラグドな楽器を用いている。“浮と港”のトリオ編成の活動から共演しているドラム(藤巻鉄郎)、コントラバス(服部将典)を中心として、時にピアノ、ヴァイオリンなどが楽曲に彩りを添えるものの、音像は広大になりすぎることはない。「薄暮は時を」を聞けばコントラバスの美しい独奏に、例えば街を歩いていてどこかの家から楽器の音が聞こえてくるような、そんなノスタルジックな空気が漂う。
そして楽曲と対応する歌詞には自然が描写される。風、光、草と花、そして海。自然の情景を決して大袈裟ではなく美しく丁寧に綴っており、「つきひ」ではその美しさが静かにピークを迎える。本人も折坂悠太や寺尾紗穂など同時代のアーティストの影響を挙げてはいるが、何より歌唱も相まって音楽の授業でも触れたであろう「故郷」などを強く連想させる<唱歌>のようなニュアンスの描写が彼女の目と耳を通して描かれる。
部屋でぽつり静かに鳴らされたサウンド。そこにのせられる詩は悠久の自然。生活と自然が継ぎ目なく同居する彼女の表現はその懐の深さを増し、過度にチアフルでもダウナーでもない。生活すること、生きることは本来派手な行為ではないということを「米山ミサ」と「海」を通して気付けば、不思議と肩から力が抜ける。使い慣れた食器を手に取るように、日々のあわいにそっと聞かれるべき作品だ。(寺尾錬)