Review

Dijon: Baby

2025 / Warner
Back

君のありきたりな日常からの声が漏れるとき

02 September 2025 | By Daiki Takaku

君は今、昼間の仕事から帰ってきて一人、自分の部屋にいる。君はNetflixで過去の名作を眺め、少し飽きたらYouTubeで著名人が新商品を試す動画に切り替える。恋人に週末に観に行くライヴの情報を共有して、出演するアーティストについての嫌味にならない程度のうんちくを垂れ、相手の会社の始業時間からなんとなく想像している就寝時間が近づくと、申し訳程度の愛を囁き、ひとしきりSNSのタイムラインをスクロールしているうちに眠りにつく。表情と呼ぶには味気のない、世界に一人取り残されたような、もしくはそれでも平気そうな顔をして。たまに笑顔には到底届かない、ささやかな笑みを浮かべて。

え、これじゃあ君の日常がパターン化された孤独な現代人の生活みたいだって? うーん……はっきりと否定はできないけど、少なくとも君の行動のすべてには言語化できる理由がある。第一に君は仕事で疲れているから、ストレスなく、それでいて充足感を得るための行動が必要だってこと。それに、君はかつて映画監督を志していたし、今でもたまに会う当時の友人たちと名作について語らうのをとても楽しみにしている。映画を観るのは君のライフワークと言っても差し支えないんじゃないかな。あと、恋人との時間も大切なのは言うまでもないよね。将来、君はその人と幸福な家庭を持ちたいとすら考えているんだから。そう、君の行動にはすべて理由がある。いや、でも君はこうも言いたいはずだ。「それだけじゃない」「もっと複雑なんだ」「僕の気持ちなんて、誰にもわからない」って。

で、そんな君の元に、一枚のレコードが届く(もちろんレコードとは言っても、あの大きくて部屋の棚をすぐに占領してしまう方ではなくて、サブスクの中での話なんだけど)。タイトルは『Baby』、LAを拠点に活動していて、最近だとジャスティン・ビーバーの作品にも参加しているニュー・スター、ディジョン(Dijon)のセカンド・アルバムだ。

君は『Baby』に、いたく感動してしまう。アルバムに収録されたいくつかの曲が、少し不可思議なアレンジの施された今年屈指のポップ・ソングだからって理由だけじゃない。君は、このアルバム全体に染み込んだ違和感にひどく揺さぶられている。

君の抱いた違和感の多くは、おそらくこの作品がさまざまなサンプルが繋ぎ合わされたコラージュ・アートであることからきている。わかりやすいところで、オープニング・トラック「Baby!」のイントロやアウトロ。そこで繋がれているサンプルはほとんど唐突だ。その上、サンプル、あるいはサンプルか聞き分けられないものも含め、つぎはぎである『Baby』は音とリスナーの距離感を固定しない。だから君は『Baby』から聞こえる音が耳元で鳴っているのか、広い部屋に響いているのかわからずにいる。さらに『Baby』のビートには巧みなリヴァーヴの加工がなされ、ときにボヤけ、捻れ、つんのめり、反響して全体を包み、いなくなり、現れる。君は半ば取り乱しながらも、君の行動のすべてに理由があるように、ディジョンにもきっと明確な理由があるのだと寛容に受け取る。実際、これが証拠だと言わんばかりに、君は『Baby』がそうして紡ぐクルーヴで揺れている。

君がこの作品に感動してやまない理由は、ディジョンのヴォーカルとリリックにもある。いや、具体的に言えばその内容ではなく、ボン・イヴェールのバトンを受け取ったような彼の声が様々な方向に切実であることに、である。「Baby!」や「Another Baby!」で歌われるパートナーへの愛情は繰り返されるほどに全体を満たしてひっくり返りそうになる。「FIRE」の冒頭にある消え入りそうな声で歌われるライン──「たとえ僕らしくなくても、彼女は“大丈夫”と言ってくれる/たとえ僕が自分を傷つけても彼女は言うんだ、僕は最高だって」──は、ノイズを浴びて、無条件に降り注ぐ愛情への不安へと転びそうになる。「Rewind」の「すべてはただのパターンの寄せ集めか?/すべては編み込みと巻き戻しか?/すべては風のうなり声か?」という根源的な問いかけは弾け飛びそうになる寸前で形を保ち、「my man」の「離れられない」というフレーズはひび割れて、もはや嗚咽のように聞こえる。複雑で、切実な『Baby』に、君は完璧に魅了されている。

あえて言葉にしよう。君が『Baby』に共感する最も大きな理由は、君が今を必死に生きていることにある。君の頭の中にいる僕は知っている。君が本当は映画監督の夢を完全に諦めたわけではないことを。名作を繰り返し眺めながら、誰に頼まれたわけでもない脚本を一人で書き上げ、いくつかのシーンのセリフやカメラワーク、カット割りを細部に至るまで想い描いていることを。僕は知っている。君が恋人との未来を真剣に考えるたびに、君は幼少期に親から受けた暴力を自らの手で繰り返さないか危惧していることを。それを、まだ誰にも伝えられていないことを。仕事で疲れ切った頭をできる限り使って、君はたくさんの可能性を考えてきた。たくさんの疑念と向き合ってきた。君のありきたりに見える日常は、張り裂けんばかりの苦悩に満ちた日常で、そこから漏れた君の声が、僕にはディジョンの声と重なって聞こえる。

『Baby』を聴き終えた君は、ぼんやりと、でもたしかに理解している。君は「僕は必死なんだ」って、「ただ混乱しているだけなんだ」って、誰かに伝えたかっただけなんじゃないかとね。(高久大輝)

More Reviews

1 2 3 84