こだわらず、無限の源(ソース)に飛び込んで
人はみな生まれながらにしてアーティストであるという前提のもと、失われたクリエイティヴィティを回復するための12週間のプログラムを記した、『The Artist’s Way』(著:Julia Cameron)という自己啓発本のベストセラーがある(『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』というタイトルで邦訳版も出版されている)。ラップ界ではJ. コールが『Born Sinner』(2013年)制作期に同著を読み、そこで提唱されているモーニング・ページという手法(毎朝手書きで思いついたことをノート3ページ分書くというもの)を実践したことが知られている(参考)。
『The Artist’s Way』の4週目には「80歳の自分から今の自分に向けた手紙を書きましょう」「8歳の自分から今の自分に向けた手紙を書きましょう」というタスクがある。同著を読み、1週ごとに感じたことを動画にし、自らへのヴィデオ・レターのようなかたちで残していたのが、2020年、当時21歳のDoechiiことJaylah Ji’mya Hickmonである。4週目を振り返る動画の冒頭で、彼女はこう語っている。
「私の創造のキャリアは1本の線じゃなくていい。私は他の表現方法と恋に落ちて試すことを自分自身に許した。1年間絵を描くかもしれないし、音楽をやるかもしれない。人生をプロジェクトごとに捉えることにした。今はミックステープ制作に集中しているけど、完成したら音楽とはまったく関係ないことをやって、他の方法で自分を表現するかもしれない。それが私のインナー・チャイルドの求めるものだから」
音楽以外のことはここでは一旦置いておくとしても、音楽におけるDoechiiのヴァーサティリティ(多才さ)は、早くから彼女の活動を追ってきたリスナーにとっては明らかだった。TikTokでヴァイラル・ヒットした「Yucky Blucky Fruitcake」は、スヌープ・ドッグ「Who Am I (What’s My Name)?」やエミネム「My Name Is」と同じ系譜ともいえる自己紹介シットで、ニッキー・ミナージュを思わせるようなデリバリーと確かなラップのスキルを見せつけている。その一方で、本稿執筆時点でSpotifyにおいて最も再生されている彼女の楽曲は2023年のシングル「What It Is」のソロ・バージョンだが、こちらはTLC「No Scrubs」をサンプルした典型的な2000年前後のR&Bらしい仕上がりだ。しかし、そうした多才さこそがのちに自らを悩ませることになろうとは、当時のJaylahはきっと予想していなかっただろう。
自分は音楽業界においてどういう立ち位置を選ぶべきなのか? そもそも自分は商業的に成功したいのか? さらに「What It Is」のヒットを経て、R&Bアーティストとしての活躍を期待する声とラップを期待する声との間で板挟みになる。そんななかで感じたフラストレーションを、Doechiiは、ひとまずラップに託した。本作前半では特に、彼女の声がブーンバップのビートに乗る場面が目立つ。生まれて初めて書いたラップ楽曲は友人に不義を働いた男へのディス曲だったという彼女は、ヒップホップの伝統的な部分──リリックやスキルを磨くこと、正直に自分の経験を話し人々をつなげること──を存分に示したかったのだと語る。中でも「DENIAL IS A RIVER」は、フロリダ州タンパ出身のDoechiiがLAに越してきてカルチャーショックを経験し、やがてパーティーに溺れていくようになった様子を描いたストーリーテリングで、伝統的なラップの技巧と現代的な感覚・トピックが絡み合うさまは、まるでシロップのかかったチキン&ワッフルのようだ。
ただ、彼女が本作でラップだけに拘泥しているわけではないことも指摘しておきたい。たとえば「SLIDE」では、Kal Banxが手がける2010年代前半の《Top Dawg Entertainment》らしい哀愁を帯びたビートの上で、Doechiiがセクシャルな内容をつぶやくような調子で歌っている。もっと言えば、彼女は歌うかラップするかという次元で音楽を捉えていないのかもしれない。オノマトペとも叫びともつかない言葉が随所で用いられる一方で、「落ち着いて待てばいいのよ」と諭す「WAIT」は、さながらセラピーのセッションのようだ。
これまでに人生で受けた最良のアドバイスとして、Doechiiは「何にも執着するな」というものを挙げている。それだからか、グッディー・モブ「Cell Therapy」の一節を改変し「STANKA POOH」で引用していようとも、紋切型の卍レペゼン卍には感じられない。ワニ革を自らの作品のアートワークに取り入れるという構想も、どうやら《TDE》とサインした直後からあったようなのだが(参考)、作品を世に出してもなお、タイトル『Alligator Bites Never Heal』の意味を彼女自身が模索している最中なのだというから面白い。「アルバムは結婚相手、ミックステープは恋人や浮気相手」と語ったのはエリカ・バドゥだったか。ミックステープは、何にも拘りたくないDoechiiにとって、少なくとも今、うってつけのフォーマットだったのだろうと推察できる。
さて、先述の「Yucky Blucky Fruitcake」が収録されているEP『Oh The Places You’ll Go』(2020年)には「God」というトラックも収録されており、そこでは、神(ここは特定の神でなく“大いなる存在”くらいに捉えてよさそうだ)が誰もがアクセスできるクリエイティヴィティの源であることが語られている。まさに『The Artist’s Way』で述べられている内容だ。同著には、アートとは考え上げるものでなく〈降りてくる〉ものだという記述がある。次にDoechiiのもとに降りてくるのは、ラップなのか、歌なのか、またしてもミックステープなのか、はたまたコンセプチュアルなアルバムなのか……いや、源に対してひたすらオープンな彼女の姿勢を見るにつけ、形式めいたものを気にするのは無粋なんじゃないかと思えてくる。
そんなDoechiiは昨年、ドラマ『Earth Mama』で役者デビューを果たしている。(奧田翔)
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