メタモルフォシスと円
HYPER GAL、ふたたび翼をさずかる。『Pure』以降、たびたび“翼”の意匠を取り入れてきたHYPER GALが、再びアートワークや映像で翼のイメージを選び取っている。だとすれば次に目を引くのは、新作『After Image』のアートワークに映されたタイヤの存在である。重さや硬さと結びつけられやすいタイヤは、だからこそ翼が似つかわしくない。ホイールはさびつき、タイヤは溝がすり減りチェーンをかけられているが、今にもごろっと転がりだしそうである。HYPER GALの、電子音と声によるリフと太鼓によるリズムという構成要素で成り立った音楽を、仮に“ロックンロール”とでも呼んでみると(ロックンロールとは、リフとリズムで構成された音楽を指す)、彼女たちのロックンロールはとっくに翼をはやして“roll”することをやめているかと思えば、一方で実際にはまだ地に足や腹をつけて匍匐を続けているようにも見える。
翼はときに、人ならざるものや実在の生命ならざるものであることを示す記号となる。「OOPARTS」のヴィデオを観ると、無菌な部屋での生活の中、床を這うことしかできなかった“肉”が知識を身につけ、やがて“翼”を手にする映像が描かれている。ただし、翼を獲得し肉ならざるものへと変態を遂げたニク(仮称)や、不在のヒトに成り代わるニク(仮称)や苺の存在や、ヒトの存在しない空間における超越的な現象は、必ずしもポストヒューマニズム的な諸々の意味を持つわけではないはずだ。その根拠は、ヴィデオの最後に映されたヒトの影や、アニマル・コレクティヴ『Strawberry Jam』のアートワークを想起させるグロテスクな料理と化したニク(仮称)のすがただけではない。なにより、その後景に流れ続ける音楽に宿る身体性に耳をそばだてれば、彼女たちの表現それ自体があくまで現在のヒトのすがたを表象せんと試みていることは明らかである。
「OOPARTS」において、電子音がひたすら機械的な打撃を続ける一方で、角矢胡桃によるシンバルや太鼓の音色は空気をふくんで調子を絶え間なく変えるし、石田小榛の歌声は揺れや震えや上擦りをともない聴き手の心をもそっとシェイクする。実際に石田小榛の歌うことばも、他の楽曲では「ピンピン張り詰めてる空気/カーテンと窓の隙間」(「OVER FUSSY」)、「知らないことは知らないまま/とっても上手に生きてきた」(「The Luncheon on the Grass」)といったように、どこか語り手の実感や生活感をもって、私たちの日常と接続されうるものである(それが共感を拠り所としていないとしても)。
より直感的に、車輪や翼を進歩や飛躍の象徴とみなせば、『After Image』は確かに『Pure』に次ぐHYPER GALのステップを示すものであり、いくつかの点で『After Image』は新たな試みを反映している。前作『Pure』に見られた1分台の短い楽曲がなくなり、『After Image』ではほとんどを2分台または3分台の楽曲が占めている。それに伴い、石田小榛のことばは短いフレーズの繰り返しにとどまらず、ひとつながりのグルーヴをもった韻文となった。トラックも鮮やかな展開をもつようになり、和声の変化による解放感や切迫感が強調されるかたちとなった。一言でいえば、肺活量の大きな作品に仕上がったといえよう。Melt-Bananaが初期のノイズコア的な直感性から、徐々にエクスペリメンタル/アート・パンク的な構築性/複雑さを獲得していったように。
90年代のMelt-Bananaに端を発して一定以上の人気を保ち続けてきた日本のノイズロックやアンダーグラウンドなライブ・シーンは、HYPER GALが共演したo’summer vacationやViolent Magic OrchestraやMs.MachineやBBBBBBBのみならず、大都市−地方の地域格差の存在しない一つの大きなシーンを現在に再び形成している。そうした時代の円環/ゆるやかな連帯を、一つの大きな輪=車輪に見立てるとすれば、この『After Image』はその車輪に確かに翼をさずける作品であり、サークルの内外を鼓舞しさらなるメタモルフォシスを促していく作品である。(髙橋翔哉)