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「僕らの音楽は批評精神が全てだった」
ヤング・マーブル・ジャイアンツが今語る“憂鬱の渋滞”たる美学

07 December 2020 | By Shino Okamura

なんと、ヤング・マーブル・ジャイアンツ(YMG)のスチュアート・モクスハムとアリソン・スタットンの最新インタビューである。ダメもとでレーベルを通じてオファーしたら受けてくれただけでなく、こんなにもしっかり当時のことを振り返って話をしてくれた。しかも、彼らが話しているのはただの昔話などではなく、行き詰まりと突破を繰り返してきたポップ・ミュージックの、その絶対的な推進力となってきた不変のスタンス、意識ではないか。残念ながら現在の新しい音楽についての話を聞く時間はなかったが、そんな質問はもはや野暮だということがわかる。

スチュアート・モクスハム、フィリップ(フィル)・モクスハム、そしてアリソン・スタットンによるヤング・マーブル・ジャイアンツがウェールズの首府、カーディフで結成されたのは1978年のこと。尻切れとんぼのように終わる2分台を中心とした短い曲、ドラムマシンを使用した無機質で乾いたビート、ベースやギターは聞こえてくるも隙間だらけで音はスカスカ、ヴォーカルのアリソンも感情を一切しりぞけたように淡々と言葉を乗せていく。アイロニカルといえばこれほどアイロニカルな音楽もなく、素っ気ないといえばこれ以上素っ気ないポップスもない。今でこそキッチュでどこか人懐こい……という解釈が定番になったようなこうしたチープなサウンドも、当時はただただ型破りでしかなく、現行のロッキズムへの強烈なカウンターパンチだった。パンク〜ニュー・ウェイヴ〜ポストパンクの時代とはいえ、ロンドンやマンチェスターなどイングランド都市部ではないウェールズのカーディフという町でなぜ彼らがこうした音楽を形成することになったのか。当時、彼らはどういう意識で鳴らしていたのか。そもそもどういう思いで音楽に向き合っていたのか。

『Colossal Youth』が英《Rough Trade》からリリースされたのが1980年3月のこと。カーディフのスタジオでほんの数日で録音したというこの彼ら唯一のオリジナル・アルバムは、その後も折に触れてリイシューされ、時代時代にメスを入れてきた。2020年は最初のリリースから40年という節目になる。2CD+DVDによるアニバーサリー・エディションもリリースされた(アナログ・レコード・ヴァージョンも同時リリース)。その『Colossal Youth』がどんなにラウドで攻撃的な音楽より、どんなに挑発的な言葉を持つアジテイターより、今なお強烈な破壊力と批評精神を持っていることは、彼らの影響を受けたアーティストが後を絶たないその後の歴史が物語っているだろう。混沌と混迷の2020年の終わりにYMGのインタビューをお届けできることを誇りに思う。
(取材・文/岡村詩野 通訳/滑石蒼 写真/Andrew Tucker)

Interview with Stuart Moxham, Alison Statton

——YMGの前進バンドであるTrue Wheelの話から聞かせてください。バンド名はブライアン・イーノの曲から名付けられたそうですね。あの時代、マンチェスターのア・サートゥン・レシオ(ACR)もやはりイーノの曲からバンド名をつけていますが、あなたがたの世代にとってイーノというのはどういう存在だったのでしょうか?

Stuart Moxham(以下S):イーノが僕たちの世代全体で聴かれていたという印象はないなあ。やっぱり当時もマイナーな存在ではあったよ。確かにたまたまACRもイーノの同じ曲(“True Wheel”)から名前を取っているよね、面白いことに。つまり同時期に、2組のバンドが同じ曲からインスピレーションをもらったってことか。当時、イーノはアートロック〜アートポップの最初期の象徴だった。音楽的にも歌詞的にも、アート・ミュージックの代表という感じだったんだ。それに、僕は彼が唯一と言っていいほど、シンセサイザーを使いこなしていた存在だったと思う。だから、彼は技術的にも当時の先端にいたんだよ。

――そのTrue Wheelはスティーヴィー・ワンダーやサンタナなどの曲をカヴァーしていたそうですが、アリソンが加入してからはヴェルヴェット・アンダーグラウンドやロキシー・ミュージックなんかのカヴァーをやるようになったそうですね。True WheelからYMGに至る変遷を音楽的な変化を交えて少し詳しくおしえてください。

Alison Statton(以下A):方向性が変わったのは、私の加入が理由ではないわ。これはスチュアートが答えるべき質問ね。私が入っていなかったとしても、いずれにせよバンドとしての方向性は変えていたわよね? あの当時もともとのヴォーカルが辞めて、あなたがメイン・シンガーをやっていたわけだし。

S:だけどまだTrue Wheelの初期のシンガーがいた時に、君に声をかけたんじゃなかったっけ?

A:確かに……そうだったわね。勘違いしてた。彼が辞めて、もともとバンドにいたあなたがシンガーを務め始めたんだと思っていたわ。

S:違うよ。あの当時僕はカーディフを出て、田舎の農場で住み込みで働いていたんだ。兄の影響でギターは弾いていたけど。農場にいたのは3ヶ月ぐらいだけでね。そのあとまたカーディフに戻ると、マシューというやつがバンドを組むから僕にギターをやるように言って、それでTrue Wheelを結成したという流れなんだよ。で、フィル(・モクスハム)はベースをやることになった。僕がウェンディ・スミスに出会って、付き合い始めたのはこの頃だね。最初は彼女が歌っていたんだ。で、バンドとしての方向性を変えた決定的な出来事みたいなのは、覚えてないな。オリジナルの曲を作り始めたのが1978年の11月だということは、はっきり分かるんだけど……。強いて言うなら、最初はマシューがやりたい曲をやっていたから、彼がいなくなってから方向性が変わったのかな。よく覚えていなくて……。そもそもTrue Wheelは何年に終わったんだっけ、アリソン? マシューが大学を卒業しないといけないからって、バンドを辞めたんだっけ?

A:マシューの気が変わってバンドが終わったのは覚えてるけど(笑)、その理由までは覚えていないわ。彼はロンドンに戻ったのよね。細かいことは全部忘れてしまったわ。

S:そうだよね。質問に答えるとすれば、3人になって、YMGを始めるにあたって、僕たちにとって一番大事だったのは注目されることだった。ちゃんとしたビジネスを始めることだったんだ。今の時代はミュージシャンが大量に溢れているし、音楽を始めたばかりですぐに人気を集めることが多いけど、あの頃は下積みがアーティストを作っていたからね……って、これ、語弊がないといいけど(笑)。僕たちは1978年にオリジナルの曲を作り始めたとき、まずは45分間のLP1枚分の曲を作ろうと決めた。解散したのは1980年の11月だから、バンドを組んでいたのはちょうど2年間だったということだね。最初の1年間はずっと曲作りをしていて、で、YMGとして初めてのライヴはいつだったか覚えていないんだけど……。

A:私も覚えてないわ(笑)。でも、最初のライヴの時にはカセットテープができていたと思う。だから……。

S:ああ、確かに。ということは、最初のライヴは1979年の夏の終わりぐらいだったのかな。

A:たぶんそうね。

S:これって違法だけど、レコードが完成したあと、アリソンがヴァージン・レコードあたりに行って勝手にレコードを置いたりしていたな。ライブの前に、少しでも知名度を上げないといけなかったから。そもそもロンドンではなくカーディフで活動をしている時点で、充分にチャレンジングだったからね。当時はレコード屋の壁中に、色んなバンドがポスターを勝手に貼っていたような時代だから。

――あなた方は無線雑誌の付録のチープなリズムマシンを使用したと聞いています。なぜあえてそのようなチープなマシンを使用したのでしょうか? ヒントになったアイデア、影響元にある音楽なども含めておしえてください。

S:当時、僕ら以外でドラムマシンを使っているバンドは見たことがなかったと思う。電子オルガンが主流だったから。実際、ドラムマシンは入手するのも大変だったよ。

A:プログラミングできる機材自体が、気軽に手に入るものではなかったでしょう?

S:そうなんだ。たまたま、いとこのピーターが電話機の技師でね。機械をいじるのが大得意だった。彼がシンセと自作のリズム・ジェネレーターを持っていたんだ。もともとは彼も一緒にバンドをやっていたから、機械が得意な人が仲間にいてよかったよ。結局は、仕事を選んでバンドを辞めてしまったけど。賢明な選択だったね!(笑) 雑誌『Practical Wireless』の付録を使っていたという話だけど、実際はそれをメインで使っていたわけではないんだ。僕自身は雑誌自体は見ていないんだけど、雑誌に付いていた部品を使ってリズムマシンを作ったりしていた。機材オタク向けの雑誌で、毎号に付録が付いているようなものがあったんだよ。

――しかも、そうしたチープなリズムマシンを使用していたこともあり、YMGの音楽は、それまでのロックやポップ・ミュージックにあった伝統的なフォルムや、誰もが口ずさめるようなメロディ、分厚いリズムや低音に縛られない上、余計な音を一切入れない、ノイ!やクラスターのようなクラウト・ロックを思わせるスカスカで無機質な音作りが斬新でした。こうした音作り、アンサンブルになった経緯をおしえてください。

S:そう、一番の理由は、ロンドンではなくカーディフで活動をしていたために、目立つことをする必要があったというところにある。当時はラウドなサウンドの音楽をやるバンドが多くて、どんどんその傾向が強くなっていっていたんだけど、70年代後半の当時はロッキズムへの反抗も出てきていた時代で、長髪の典型的なロッカーに相反する音楽が生まれつつあった。プログレとか、そのあたりに対抗する音楽だね。パンクが生まれる直前の話だ。それで、僕らは静かな音楽をやることにしたのさ。周りと反対の音楽性を狙って、静かでメロディック、そしてとても短い曲を作った。ラーメンみたいに、1皿で完結するシンプルな料理を作ることにした。40種類の材料を使うような、クリスマスの日のディナーではなくてね。質素でありながら、1枚のレコードの中で調和するようなものを心がけた。最初に描いたアイディアに色々と付け足して装飾していくのではなくて、もともとのアイディアだけで成り立つようなものを。

A:私たちは当時の“普通”の反対をいくことをしてはいたけれど、自然な成り行きであったことは付け加えたいわ。いずれにせよ、ロックンロールは性に合っていなかったから。自分で作曲する上ではね。私たちの音楽性は、意識的に決めたものではあったけど、なるべくしてなったという要素もあった。少なくとも私はそうだったわ。

S:うんうん。そのとおり。

A:当時のロックンロールやプログレの、うるさくて、激しい音楽を作ることはいずれにせよできなかったと思う。

S:とても男性的だったしね。

A:そう。まあ、男女で括るのは避けたいけど。男性でも、ロックが合わなかった人がいたわけだし。ソフトで、内省的で、繊細な男性もたくさんいる。ロックンロールは、一般的には男性のエネルギーが必要な音楽ではあるけれどね。ステレオタイプで考えれば。そもそも、スチュアート、あなたもフィルも生まれつき、男らしさに溢れているタイプではないでしょう(笑)?

S:(笑)。

A:あなたたちは繊細で、きちんとしていたわ。

S:性格的にもそうだし、もともと僕たちは、教会音楽とクラシック音楽を聞いて育ったからね。父が、50年代のアメリカのミュージカルのシンガーだったんだよ。家にはそういうオーセンティックな音楽ばかりあった。そういうことを考えると、僕らの抑圧的な音楽性は自然な成り行きだったかもしれない。ちなみに当時の僕らへの批評で一行だけ気に入ったのがあって、それは「彼らの音楽は憂鬱の渋滞だ」なんだ(爆笑)。その通りだと思った。ロックンロールがクソみたいな人生のアンセムだった時代、僕らが作っていたのは干からびた骨だ。その干からびた骨の中に、ブルースの精神も、ロックの精神もたしかにあったと思っているよ。

――アリソンのヴォーカルも意識的に熱量の高さを排除したものですが、歌にも演奏にも過剰な感情を入れ込まなかったのはなぜだったのですか?

S:さっき言ったような僕らの抑圧的な音楽性を形づくったのは、アリソンの歌なんだ。アリソンの歌い方があったからこそ、YMGの音楽性が成立した。とてもラッキーだったのは、君が僕と同じ音程で歌えたことだね。どれか1曲だけ、音程を変えたものがあったと思うけど、基本的にはすべてそのままだった。君のコーラスが、レコードやライブの中心のようなものだったよ。君の存在感が、バンドにぴったりだったんだ。ステージの上での出で立ちや、観客へのアイコンタクトの仕方がね。

A:自分でもそう思う(笑)。でも、ああいう歌い方しかできなかったのよ。わざとやっていたわけではなくて。

S:今映像を見ると驚くけど、僕たちは全然緊張している感じがないんだ。初めてのライブの時でも、リハーサルをしているような雰囲気でライブをやっている。なんだか慣れているんだ。「こいつらは誰なんだろう?」「何考えてんだろう?」って、醒めた目で観客を見ているんだよね。

――YMGはそうしたユニークな音楽性と反骨意識ゆえに、猛烈に批評精神を持ったバンドとして立脚していたと思います。実際に最初からポップ・ミュージック、大衆音楽に対する批評性をあなたがたが持っていたとして、どのようなクリティカルな視座でポップ・ミュージックを創出していたと考えられますか?

S:ああ、何をするにも、クリティカルな能力というのは必要だと思っているんだ。自分の考えが正しいと信じるためにね。僕らの音楽は、批評精神が全てだったと思う。ある意味、禅と似ているかもしれない。まっさらな状態から何かを作り出す場合、それは完璧なものでなければならない。そして次に作るものは、さらに完璧なものに更新されていないといけないんだ。そうでないと、人のために何かを作ることはできないと思う。これが答えになっているかはわからないけどさ。

――ええ、わかります。今でこそ、サンプラーやカセットMTRなどを使った音作りは当たり前のようにありますし、安い録音システムを使った作品をロウファイとしてカジュアルに親しまれていますが、当時のあなたがたがやったことは極めて過激で、既存のポップ・ミュージックへの何よりの抵抗ではなかったかと考えます。では、そもそもYMGの曲はどのように作られていたのですか? 曲作りのメソッド、プロセスなどを教えてください。お手本にしていたソングライターはいますか?

S:僕はソングライターだから、歌詞から始める。ほとんどの場合ね。言葉が組み立てられれば、そこからリズムが生まれ、メロディーに繋るという自然な流れができるから。アリソンはどう?

A:考えていることや感情、想いからアイディアが出てきて、そこからメロディーを作っていく。実はアフリカン・ドラムが好きで、例えば歩いているときや料理をしているときに強いリズムが頭に浮かんでくることもあるわ。そこからメロディーを作ったり。逆の順番の時もある。先に音楽を作って、書き溜めた歌詞を当てることもあるし。でも、一番多いのは、やっぱり歌詞から始めることね。

A:もう長年ギターを弾いているからか分からないんだけど、最近、頭で考えるよりも先に、手が勝手に動くことがあるんだ。しかもそれが結構良かったりするから急いで書き留める。あとはキーボードだと、メロディーがすごく考えやすいよね。音程が決まっているから。アリソンも同じか分からないけど、ピアノに向かうと延々と曲作りができる気がするね。ピアノの鍵盤に、無限の可能性が見える。クラシックな楽器には、やっぱりそういう力があるんだろうかね。

A:ピアノはそうよね。でもドラムもいいわ。私が関心を持っているのはオーケストラ・ドラムではなくてアフリカン・ドラムだからちょっと違うけど。

S:じゃあ、ジンジャー・ベイカーのドラムは好き?

A:ええ、もちろん(笑)。

S:ジンジャー・ベイカーのドキュメンタリー映画(『Beware of Mr. Baker』2013年)は観た?(笑)

A:ええ。素敵なドキュメンタリーだったわ。楽しかった。悲しくて楽しかった。

S:彼の「俺ははちゃめちゃが大好きだ」っていう発言が好きだったな。本当にはちゃめちゃだよね(笑)。

A:ええ、間違いないわ。

S:でもドラムは素晴らしいんだよな(笑)。

――1曲が平均2分台のショート・ポップで仕上げていたのには、どのような狙い、意図、思惑があったのでしょうか? ある種、50~60年代のバブルガム・ポップ時代の手軽さ、徒花的な魅力にアイロニカルに回帰したとの評価の声もありますが、音楽の歴史に向けて、そうした意図は実際にあったのですか?

S:最初の話につながるけど、ロンドンに住んでいたわけではなかったから、目立つ必要があった。曲を短くしたのもそれが理由なんだ。

A:そう。必要のない要素は全て省いていたから。あとは、音楽の勉強をしていたわけではなかったから、特に何も考えずにあのフォーマットになっていたというのもあるわね。私たちの曲は、短くてシャープよね。端的で、すぐに本題に入る。本題に入る前のパフォーマンスはないの。

S:レコードの中で、1曲1曲が繋がっていないしね。

A:ひとつひとつに独立したインパクトがある。曲が短いとそれが効果的になるから。刹那的なのよ。

S:僕らは「高潔なもの」を避けていたんだ。当時、高潔だったものはプログレだったわけだけど。僕はギターを弾き始めてほんの3年半ぐらいでバンドを組んで、音楽の勉強もしていないし、とても脆い存在だったんだ。だからこそこのバンドは当時の僕にとって本当に大切なもので、自分自身にプレッシャーをかけていた。カーディフという田舎でさえ、数多のバンドがいた時代で、身近な友だちが成功するのを見たりしていた。バンドをやるからには、絶対に頭ひとつ抜ける必要があったんだ。スポットライトを浴びる必要があった。絶対にね。バンドが何かなんて、よく分かっていなかったけど……今もよく分かっていないけどさ(笑)。音楽の知識がない分、自分の中にある違う部分に頼って音楽を作らないといけなかった。いずれにせよ、最終的に残るのは自分自身のセンスと、批評精神だと思ったんだ。

それで曲作りをするにあたって、まずはYMGというバンドを客観的に見て、どんな音楽をやればYMGらしいかを考えた。理想的なYMGを妄想したんだ。アリソンという女性シンガーがいるから、自分はもう歌う必要はない。ベースは弟がやるから、信頼できる。そして曲は僕が書く。色々妄想して、完璧なバンドだと思った(笑)。フィルと兄弟だったというのは大きかったね。言葉を交わさなくても伝わる感覚があった。同じ音楽を聴いて育ったわけだから。セッションをしているときにも、言わなくてもキーを変えるとか、そういうことがわかり合えたんだ……ああ、アリソンごめん、しゃべりすぎたね(笑)。

A:いいえ、言葉を交わさずにコミュニケーションが取れるその感じ、素敵よね。見ていても分かったもの。次にお互いが何をするか、言わなくても分かっていたわよね。だから、演奏が本当にスムーズだった。YMGとして活動していた期間は本当に短かったけれど、いまだにあの時のことを鮮明に思い出せる。そして、ライヴでお客さんがどんな風に反応していたかもね。

――では、今回のアルバム40周年を境に、新作や新曲を制作する予定、ライヴの予定などはないのでしょうか?

S:そうだなあ……未来は未知だから。

A:何の計画もないのよ。でも何が起こるかは分からない。イギリスだけではなく、世界中が本当に悲しい状況を乗り越えているときだけれど、いつの日か終わりを迎えて、またみんなで会える日が来れば嬉しいわね。
<了>


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Text By Shino Okamura

Photo By Andrew Tucker

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