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「音楽はあくまで人間が奏でるもの」に疑問を投げかけ、
美を探究するアンビエント

24 June 2021 | By Yuji Shibasaki

1.
Unknown Meによって届けられたファースト・フル・アルバム『BISHINTAI』は、このところ盛り上がりをみせてきたアンビエント/ニューエイジの新潮流の中でも、最も深遠な成果を聴かせてくれる作品のひとつだ。やけのはら、P-RUFF、H.TAKAHASHIの作曲担当の3人と、グラフィック・デザインと映像を担当する大澤悠大からなる彼等が初めて我々に楽曲を届けてくれたのは2016年。その頃から既にアンダーグラウンドなレベルではアンビエント/ニューエイジへの関心が高まっていたとはいえ、いまだ一般的な話題に登ることは少なかった。だから、彼等を指して「先駆者」ということもできるかもしれないが、どうもそのような仰々しい形容が似合うようでもない。「シーン」や「潮流」に寄り添おうとしたわけではなく、極めてパーソナルな創作がたまたまこの4人によって具象化され、我々のもとにひらひらと舞い降りた……そんな印象だったのだ。だから、今回の初アルバムも、「待望」という業界風のクリシェからは遊離した、どこか別の世界より届けられた音楽に思われるのだった。

全12曲それぞれが粒立っており、ある種のポップさを感じさせもする。音楽的なキーワードは、ミニマル、だろう。奥ゆかしくシンプルなフレーズがそれぞれに自律的なサイクルのもとに配され、ときに融合し、ときに離れていく。これまでの作品同様、電子音の配置は実に理知的かつリッチであるが、より一層侘びと寂びを究め、枯淡の美しさを獲得したようにも聞こえる。フレーズひとつひとつ、イコライジングのひとつひとつが、実にたっぷりと、メロウでもある。一方で、どこかしら、うっすらとダンス・ミュージック的な律動が(それが拭い取られることで発生した空白によってかえってその痕跡が想起されるように)伏流的に脈打っているようでもある。

どのメンバーがどの楽音を発しているのかを追うのは難しい。というか、各音から属人的な固有性を蒸発させ、全体としてのサウンド・テクスチャーをふんわりと立ち上がらせることがなによりも優先されているふうだ。それは、食品まつり、ジム・オルーク、MC.sirafu、中川理沙という個性豊かなゲスト陣を迎えた曲ですらそうである。各人が持ち寄った様々な音要素を弁別的に指し示してみることはできるが、してみたところでどうというのだろう、という気持ちももたげてくる。しかし、アンビエント作品として、それがいかに望ましいことか!ここでは、「個性」は、おぼろげな「美」に奉仕する一連の彩として溶け込まされている。本作における個々の「演奏」の素晴らしさを寿ぐのなら、個性が林立ししのぎを削る様ではなくて、動きゆく音の波を形作るうねりとして相互浸透的に働く様に対してするべきなのだろう。

2.
本作タイトルの『BISHINTAI』とは、日本語に書き換えれば「美」「心」「体」を表している。ここで面白いのが、その表記の順序だ。自らの肉体を物理的な拠点とした(とせざるをえない)日常的主体たる我々がこの三つを連想するとき、ふつう、まず体があり、そこに心が宿り、次にその心が美の概念を生み出す、という図式で捉えているように思う。換言すれば、身体→精神→美、という順である。しかし、本作のタイトルではその序列が転倒し、美→精神→身体という構図を示している。

アンビエント・ミュージックというのは、よく知られるように、作家主義的な自明性によって保証される作者/演奏者の肉体や意図を特権視しない音楽である。むしろ、そういった個別的な特権性を融和し、環境(=作曲された「音楽」の外側)と調停させることで、作者あるいは作品という所与的な外殻から音楽を解き放つ試みでもある。では、これを「音の側」から眺めてみるとどうなるのだろうか。それぞれに混じり合い、漂流する音は、作者や作品から遊離し、それ自体が「美」を運ぶ純粋な触媒、あるいはもっと首尾よく行けば、「美」そのものとして表象することになるだろう。特定の肉体や心(意図)から遊離した音は、とたんにその自由を謳歌しだす。こうした事態は、一度でも優れたアンビエント・ミュージックを、いや、それ以外にも「没入(脱我?)的」な音楽演奏をしたり、またはそうした演奏に触れた経験のある人ならたちどころに理解できるはずだ。音が「意図」を離れ、逆に、音によって我々の精神と肉体が駆動させられているような愉悦……。この段において、音は、はじめて音そのものとして存在しだすだろう。メロディーや音色、リズムは、あらゆるコンテクストから離床し、ただそれがそのものであるだけの美的な存在となる。

ここで再び「美」→「心」→「体」の図式を思い浮かべよう。今度は、音/美によって(美が心に外殻を与えるように?)、音を聴くものの「心」が起動してくる。じんわりと、音が空間に染め物をするような仕方で、「心」がおぼろげながらに形作られていく。本作の図式によれば、つまり「心」とは、我々の内部に所与のものとして存在してきたのではない(=美と感応することによってはじめて滲み出す彩のようななにかなのかもしれない)。となれば、「体」の成立もこの順に沿って理解できるだろう。体は、心によってその存在が初めて意識され、外殻が認識されるなにかであろう(素晴らしいジャケット・アートワークも、こうした深読みを援護してくれる)。 各奏者の個別的な「意図」が排され、「美」へ奉仕する音の存在を希求するような本作をディープ・リスニングするとき、こうした一連のプロセス/体験がスムースに起動してくるのを感じないだろうか。その体験は、いいようもなく心地よく、同時に静かな興奮を孕むものでもある。

3.
人口爆発による食糧難と超格差社会が常態化したディストピア(来たる2022年!)を描いたSF映画『ソイレント・グリーン』(監督:リチャード・フライシャー 1973年・米)に、恐ろしくも甘美なシーンがある。映画のクライマックスともいえるそのシーンの舞台となるのは、公営の安楽死施設、通称「ホーム」だ。主人公ソーンの友人としてある疑惑を追っていた老人ソルは、ある日、疑惑にまつわる戦慄の事実を知ってしまい、深い諦念とともにその「ホーム」を訪れる。それまで苛烈な生活を強いられてきたソルは、多くの老人たちとともに、その「ホーム」では異様なほどに丁重に迎えられる。優しげな微笑みを湛えた「係員」たちによってある部屋へと誘導されるソル。そこには、プラネタリウムを思わせる巨大なスクリーンがある。ソファへと座った彼は、薬物を投与され、満たされたような表情に変わっていく。すると、どこからか麗しいクラシック音楽が流れ始め、スクリーンには地球が未だ美しく豊穣だった頃の映像が全自動で流されていく。抜けるような青空。野生生物が闊歩する大地。緑に囲まれた川のせせらぎ。ノスタルジックな団らんの日々……。ますます盛り上がっていく臨場感たっぷりの音楽に包まれながら、穏やかな笑顔で満足そうに涙するソル。そこへ突然、ソルの安楽死を引き留めようとソーンが部屋に乱入してくるのだが、そのソーンも、圧倒的なテクノロジーによって再現された音響と映像に、当初の目的を忘れて強く感動し、落涙してしまう。あまりに甘美で痛切な、リチャード・フライシャーの鬼才ぶりが迸る名シーンだ(その後、「ホーム」の秘密が暴かれる衝撃的な展開が続くのだが、観てのお楽しみ)。

私は、このシーンを観たとき、ある意味でこれはアンビエントの極限形態といえるのかもしれない、と思ったのだった。空間を満たす音と映像は、「能動的な鑑賞」ではなく、(「口減らし」というあまりにも無惨な目的だが)、目的に従事するための「環境」として援用されている。しかし、ただのバックグラウンド・ミュージックというわけではない。それを聴くもの/見るものは完全にその「環境」へ没入し、今この瞬間に自らが死にゆく事実の禍々しさを超えた「現実」として享受してもいる。そのあまりにむき出しの「美」に、観客は、慄きつつもうっとりと身を預けるしかなくなるのだ(登場人物たちと同じように)。同時に、ときとしてアンビエント的な美は、このように恐ろしい政治的な目的と安易に結びつくし、それどころか積極的に援用されてしまうということに、不安をそそられるのだ(そう言われてみると、この安楽死シーンに上映される劇中映画は、どことなくレニ・リーフェンシュタール風でもある)。

4.
『BISHINTAI』は、アルバム冒頭から聴こえてくる機械的なたどたどしさを伴ったナレーションからも分かる通り、「電子頭脳のガイドと共に旅をする都市生活者のための環境音楽」をコンセプトとして制作されたという。実をいうと、この情報を目にしたとき真っ先に思い浮かべたのが『ソイレント・グリーン』における件のシーンだった。全自動で提供される、アンビエント「的過ぎる」音楽と映像。マシーンが提供する「人懐こい」音楽と、その背後にある黒々とした恐怖。そういったあれこれを反射的に連想してしまったのだろう。要するに、テクノロジーの発展の末の出来するディストピアを想起し、身構えてしまったというわけだ。

しかし、このアルバムは、見事に私のそうした予想を裏切ってくれた(そもそも、ちょっと考えれば彼等がそういう暗黒的な音楽を嬉々として作るとは思えないわけで、明確に私の早とちりだったわけだが)。音楽としてここに立ち現れているのは、古典的なロボット恐怖症にまで遡れることができるテクノロジー発展に対するぐろぐろとした感情ではないし、俗流的なシンギュラリティ論に見られるようなディストピア観でもない。逆に、まことにポジティブなテクノロジー観に彩られているように思うのだ。

既に述べたように、本作において「音」は、属人的な意図を離れた美と重ね合わせられた純粋な存在として志向されている。では、そうやって音/美が人称から離床したならば、仮にその「送り手」が非人称的/非ヒト的存在=電子頭脳であったとしても、その美の性質が変質ないし毀損されることはないといえるのではないか。なぜなら、本作の提示する図式において、美は心や身体に先立つ存在であり(こういうと、なにやらプラトニズムじみてくるわけだが)、ヒト(の身体と心)のみが独占的にその流通を支配できるものではないからだ。美を感受し、自家薬籠中のものとし、さらにそれを「作品」として再提示する主体は、電子頭脳(非ヒト)であっても全然構わないのではないか……?だから、「電子頭脳のガイドと共に旅をする都市生活者のための環境音楽」に我々が心の底から癒やされても、まったく後ろめたいことはないし、むしろそこに積極的な意義を見出しうるのではないか(そもそも我々は、これまでもコンピューターやデジタル・シンセサイザーを音楽制作で積極的に使用してきたわけで、たとえ断片的であったとしても、それらが「電子頭脳による音楽」でないとはいえないだろう)。

ここには、「音楽はあくまで人間が奏でるもの」という茫漠とした常識を痛烈に批判する動機が潜んでいるように思う。もちろんこれは、ジョン・ケージを始めとした現代音楽の先人たちも思い思いの方法で実践してきたテーゼだし、眼を見張るほどに革新的な批判というわけではないだろう。しかし、『BISHINTAI』で試された、「美」を介する理路は、優れて現代的な問題意識に立脚したものといえるだろう。有り体にいえばそれは、ヒト/機械の二項対立の融解と捉えるのも可能だろうが、彼ら独特の視点によって、より本質的な融解が眼差されているように思うのだ。それは、ヒトと電子頭脳は、美をもって繋がりあえるだろうし、美を介してこそ、相互的なコミュニケーションを行いうるのではないか、ということだ。そこに気づいた上で、「Beauty, Mind and Body」各曲に配された電子頭脳のガイダンスを聴くと、その声色にもまた違った表情を見出すことになるだろう。

本作は、来たるべきAI時代に生み出されるであろう「電子頭脳による電子音楽」の秀逸な試作モデルなのかもしれない。「未知なる私」という奥ゆかしい屋号をもつ4人のクリエイターたちは、今、きわめて斬新な方法で「クリエイティブ」の新しい形を提示してくれている。彼等はおそらく、近い将来喜んでAIとともに「作曲」をするだろうし、AIとのコミュニケーションを率先して楽しむことだろう。当然だが、ディストピアを招来するのは、電子頭脳その自体なのではなく、電子頭脳とのコミュニケーション不和、あるいはそのスキをついて侵入してくる『ソイレント・グリーン』的な欲望の放置と暴走なのだ。私もそんな将来に備えて、AIアンビエント・ミュージックの優れたα版たる本作を聴きながら、電子頭脳とのコミュニケーションの予行練習をしておこうと思う。(柴崎祐二)

UNKNOWN ME -New Album『BISHINTAI』 Release Party-
6/27(日) @ Galaxy –銀河系-, Shibuya
OPEN/START
17:00
ADMISSION + STREAMING ¥3,300 (+ 1drink) *枚数限定
STREAMING ONLY ¥1,500
※7月4日23:59までアーカイヴ配信
LINE UP
Guests: MC.sirafu, 中川理沙
Guest Live: 食品まつり a.k.a foodman/Satomimagae
Guest DJ: Chee Shimizu
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Text By Yuji Shibasaki

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