荒寥たる風を臨む、遠景に溶けていく
〜シガー・ロス アルバム・ガイド〜
アイスランドはレイキャヴィークで結成されたバンド、シガー・ロスがスタジオ・アルバムとしては実に10年ぶりとなる新作、『ÁTTA』を6月にリリースした。シガー・ロスといえば、後期トーク・トーク的なポストロックと、90年代のポストシューゲイズ的磁場のあいだで誕生したバンドといえる。1997年のデビュー以来、ポストロックを軸にアンビエントやモダン・クラシカルとも行き来しながら、感情の機微を捉え広げるようなニュアンスとスペクタクル、ヴォーカル/ギターのヨンシーによる澄んだ声によって、独自の世界を描き出してきた。
そんなかれらだが2013年の『Kveikur』を最後にスタジオ・アルバムはリリースしていなかったため、しばらくのあいだ沈黙をきめていたと感じているリスナーもいるかもしれない。とはいえ、2002年にオーケストラとコラボレートしたライヴ作品を18年越しに発表した『Odin’s Raven Magic』(2020年) や、24時間ストリーミング配信企画のサウンドトラックである『Route One』(2017年)のような作品もある。またヴォーカル/ギターのヨンシーはA.G. クックをコプロデューサーに迎えた『Shiver』(2020年)でインダストリアル〜ハイパーポップ的なサウンドに接近するなど、ソロ活動も精力的。
シガー・ロスという大きな存在について語り、その音楽の全景を理解しようとするには、スタジオ・アルバムという旧来のフォーマットでは足りない部分も大いにあるし、それと同等に聴かれ評価されるべき作品だって少なくない。しかしながらすべてを網羅しようとすると収拾がつかなくなってしまうため、この記事ではシガー・ロス名義で発表された8枚のスタジオ・アルバムを、3人の筆者によるレヴューとともに振り返る。このディスク・ガイドをゲートウェイとして、かれらの数多くの作品や奔放な課外活動に興味を広げる助けになれば幸いだ。(編集部)
(ディスク・ガイド原稿/井草七海、髙橋翔哉、八木皓平 トップ写真/Tim Dunk)
『Von』
1997年 / Krunk
ライドのマーク・ガードナーが、ノイズの中にいると安心するんだと発言しているのを読んだことがある。この言葉は素朴ながらも90年代以降のポストシューゲイズ的磁場における精神的な真理を示していると思う。シガー・ロスのファースト・アルバム『Von』はまさにノイズ“の中に”身をおくためのレコードであり、ノイズとアンビエンスの境界もないこの音は私たちにとってのコクーンとなる。『Von』はシガー・ロスが次作『Ágaetis byrjun』で自身らの美学と方程式を確立させる以前のもがきを記録したようなレコードだ。ドローン/ダーク・アンビエント的でアブストラクトな音像の中に、時折マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの影響下にあるようなノイジーなギターが揺らぎ、ヨン=ソル・ビルギッソンによるうたになりきらない声があらわれる。その後の作品で応用されるアイディアがふんだんに盛り込まれているが、きちんとした形や体裁を結ぶことなくポップの枠をはみ出してしまう。当初はインディー・レーベルで313枚だけプレスされたという『Von』はローカルの無名なバンドによる実験だったが、その後の躍進もたしかに予感させるのだ。だからといって本作がたんなる背伸びや予備動作というわけではない。日常にひそむ、死に向かう衝動やなにやらをごまかしてくれるのは、この名前のつく以前の音楽、形のない轟音と濁りのある雪景色だけだったりする。(髙橋翔哉)
『Ágaetis byrjun』
1999年 / Krunk
キーボーディスト、キャータン・スヴェインソンの加入はシガー・ロスの音楽にエーテルをもたらし、カンの『Future Days』のように空気よりも軽いレコードを作らせた。2曲目「Svefn-g-englar」の後奏、心臓の鼓動のような音が聴こえる。重力は生命が地上に這い出て以来、私たちの身体をずっと地面に縛りつけてきた。『Ágaetis byrjun』はその頸木から引き離すように、翼を与えるように、身体を漂わせてくれる。もっともっと遠くに行きたい。どこまでも澄んだ夢幻の音像は、エモーションを剥ぎとった氷河のように醒めきった世界を描く。どこまでも壮大で、濃密なストリングスと多層的なヴォーカル、ギターのフィードバック・ノイズからは、意識的に作品を「大きな」ものにしようという気概が見える。リリース時に「音楽と、人びとの音楽に対する考え方を永遠に変える」と宣言した本作は、前作『Von』では充分な形で作品に昇華することができなかったアイディアを膨大に詰め込みつつも、それを無理や無駄のない範囲で一枚のレコードに収めることに成功している。それにはやはりキャータンの貢献が大きかったのではと思う。イメージを拡散させることなくひとつの風景を結ぶ、コンセプトと耳に痛くない音の確立。エイフェックス・ツインのアンビエント作品のような、シューゲイザー以降のサイケデリアのさらに先にある、夢の中で描いた意識を描画したような2作目。のちにさまざまなヴァリエーションを生み出す、シガー・ロスの音楽の雛形のようなレコードをかれらは「Ágaetis byrjun(Good Start)」と名付けた。(髙橋翔哉)
『( )』
2002年 / Krunk
世界的な成功をおさめ、彼らの知名度を飛躍的に高めた前作『Ágætis byrjun』に続く『( )』は、どちらかといえばロック・バンドとしてのカラーが強かった前作に比べると、本作はアンビエント的な音作りが顕著になっており、それがシグネチャーになっている。この認識を持った上でアルバム制作の細部を見ていくと、さらに本作の魅力が伝わる。まずはスタジオ。1930年代に作られたスイミング・プールを改造して作られた「Sundlaugin」というスタジオで『( )』が録音されていることが、本作におけるアブストラクトでスケール感のあるサウンド・デザインに影響を与えていることは間違いない。このスタジオはアルバム・リーフやジュリアナ・バーウィック、ムームといった数々の著名アクトにも使用されている。ドラマーが前作まで務めていたアガースト・グンナーソンからオーリー・ディラソンに代わったのも大きい。アンビエント的な要素が強く出ている本作において、全体の音像とアトモスフェリックに混ざり合うのではなく、クリアでシャープなオッリのドラムのおかげで、本作はアンビエントとバンド・サウンドの境目を追及することができた部分がある。そしてこのアルバムからシガー・ロスの音楽と主にストリングスの面で密接な繋がりをみせるようになるカルテット、アミーナ(amiina)の参加。クラシック~現代音楽をバンド・サウンドとリンクさせるシガー・ロスのシグネチャーを支えていくことになる彼らのストリングスは、シガー・ロスとのコラボレーションという点で、本作ですでに完成されている。アンビエントの実験性とロック・バンド的ダイナミズム、それらをクラシック~現代音楽と溶け合わせた本作は、シガー・ロスのその後に繋がるポテンシャルを体現するような作品となった。(八木皓平)
『Takk...』
2005年 / Krunk
緻密に構築されたナンバーを組曲的に仕立てた前作がグラミー賞にノミネートされたことで、本来地元でひっそりと音楽を慈しんでいただけの彼らが一躍グローバルな視線に晒されることに“なってしまった”ことへの疲れも、今作を特別ピュアな方向に導いたのだろう。ビョークでさえフラッと歩いている(と言われる)ような、いわば人間本来の姿に戻れるような素朴さがあるアイスランドは、現地の人間でない筆者でさえも何故だか「帰(還)りたい」と感じる場所の一つなのだが、名声の喧騒に苛まれたこの時期の彼らにとっては特にその有り難さが染み入ったはず。多くの歌詞がアイスランド語であることからも、単なる出自としてだけでなく心の拠り所として、故郷に素直な感謝(Takk…)を捧げたのが今作と言えそうだ。
故にか、ヒンヤリと澄んだ前作はもちろん、キャリア全体を見渡してもとりわけ今作の音は、温かい。冒頭のピアノのリフレインは反射する水面の光を思わせ、「光る太陽」を意味する「Glósóli」のサウンドには、陽の光の温もりに対する無邪気なある種の神聖さをも宿す。水溜まりに飛び込んではしゃぐ子供を表現した「Hoppípolla」、そして「Sé Lest」終盤のおもちゃ箱をひっくり返したようなホーンの戯れには彼らが音楽に望むもの── 名声ではなく無垢な喜び──を再確認することができる。アミーナのストリングスに、どこか懐かしさを抱かせるノイズや汚しを残してあるのも象徴的な点だ。心が還っていく。この感覚こそ、今作にしかない魅力である。(井草七海)
『Með suð í eyrum við spilum endalaust』
2008年 / Krunk
ギターとドラムとピアノとグロッケンシュピールをすべてリズム楽器のように演奏することで、凄まじい躍動感を手にしたサウンド。アコースティック・ギターによる倍音がきらめき、勇壮な足音のように響く太鼓、太鼓、太鼓。アイスランドを飛び出しニューヨーク、ロンドン、ハバナでレコーディングされ、プロデュースは当時はPJハーヴェイにU2、近年はシェイムなどを手がけるフラッドが担当。サウンド的には当時のUSインディーとの共振がみられるし、「All Alright」のように初めて英語を歌唱に取り入れた楽曲まである。これまでは作品のタイトルやうたの言語まで、意味や論理から離れて自身らの世界を作り上げてきたシガー・ロス。だが外部性を大いに取り入れた本作で、音のリヴァーブも装飾も取り去って現れたのは、空気を漂いつづけていたがやっと地に足をつけ歩き出した手ぶらの4人組。テクスチャやスペクタクルから離れて、ソングライティングやバンド・アンサンブルそのものに耳をそばだてることができる。サウンド的には従来のかれらとは全くちがう正真正銘の異色作だが、どう聴いてもシガー・ロスの音楽でしかないと感じさせるのは、残響のない骨格だけ残された作曲か、ヨンシーの変わらず澄んだ歌声か、それともオーケストラと合唱団をふくめ90人を数える大所帯のアンサンブルか。結果的に本作はもっともチアフルなムードと間口の広さを合わせもったレコードになった。バンドが外界に目を向けたアルバムは、エモーショナルさはそのままに爽やかなヴァイブスを、異色の魅力として湛えている。(髙橋翔哉)
『Valtari』
2012年 / Krunk
再始動作としては確かにいささか驚きに欠ける作品ではある。希薄なメロディの代わりに、やわらかに降り注ぐストリングスとボウイング奏法独特の切実さを伴ったギターが作り出す滝壺に、女声や子供のコーラスが溶け落ちていく。過剰なエモーションはなく、不規則なノイズや判然としない声の断片、体内で反響する鼓動のようなピアノ、チャイムの音、そしてサウンドと一体化したヨンシーの滑らかなファルセットからなる波は、穏やかで陶酔的、だが掴み所はない。しかし、どこか遠くから体の奥深くに届くような今作に、個人的には、真冬のアイスランドのブラックサンド・ビーチで強風と荒波の音に包まれたときに感じたものを何故だか思い出していた。他の一切と切り離されたような……孤独、と呼べば良いだろうか。それはネガティブな感情ではなく、自分の輪郭をはっきりと認識できる感覚のこと。そして『Valtari』から降る清冽な音もまた、それに近い体験を味わわせるのである。そう感じるのは、前作以降バンドとしての休養を宣言して約4年、ソロ活動に傾倒していたヨンシーが孤/個の感覚を研ぎ澄ませていたが故なのかもしれない。過去のセッションの断片を再構成する形で今作が制作されていることも考えると、正式なスタジオ・アルバムではあるが、ヨンシー個人としての思索をもう一度シガー・ロスとして紡ぎ直すためのつなぎ目のような作品と見た方が良いだろう。とはいえ、私たちの秘めたる孤独に光を当てる瞑想的なこの作品は、当時以上にSNSやネット技術の発達によって自他の境界が混沌とする現在において、もっと評価されてもいいと思う。(井草七海)
『Kveikur』
2013年 / Krunk
キャータン脱退がバンドに与えた影響は大きかったと思うが、トリオのバンドとして再出発したシガー・ロスは、これまでのキャリアの中で最もヘヴィでハードな作品を作り上げ、彼らにとっての新境地に踏み出すことに見事に成功した。トリオでのバンド・サウンドを基盤としながら、電子音響~エレクトロニカを思わせるエクスペリメンタルでノイジーなサウンドを持ち込むことでインダストリアルなテイストを匂わせ、パーカッションを取り入れることでサウンドの切れ味を演出、そしてブラス~ストリングスを導入することでシンフォニックなフィールをサウンドに宿した。シガー・ロスがアイスランドで培った人脈が本作で存分に発揮されていることも重要なポイントだ。ビョークとのコラボレーションでも知られるヴァルゲイル・シグルズソンがストリングスの録音に参加し、彼が設立者の一人であるアイスランドのレーベル《Bedroom Community》からアルバムをリリースしているダニエル・ビャルナソン(Daníel Bjarnason)がストリングスのアレンジを担当、そしてムーム等ともコラボ経験のあるエイリークル・オッリ・オラフソン(Eiríkur Orri Ólafsson)がブラスのアレンジを担当するなど、アイスランドならではの音楽的な人脈が本作を作り上げたと言っても過言ではない。そしてさらに本作の魅力を付け加えると、上記のようなアグレッシヴなサウンドを徹底的に追求していながらも、ヨンシーのヴォーカル・メロディが非常にキャッチーでひとつひとつの楽曲がアンセムのような輝きとスケール感を放っていることだ。先進的であることが大衆性、そして美と矛盾しないことを彼らはキャリアを通して証明し続けてきたが、それは本作でまたしても更新された。(八木皓平)
『ÁTTA』
2023年 / BMG
10年ぶりの新作『ÁTTA』は、ある意味ではアンビエント・レコードと言ってもいい。バンドの要でもあったドラマーのオーリー・レイソンが不幸な形で脱退し、ヨンシーのここ最近のソロ・ワークがアンビエント・ミュージックに寄っていたことを考えてみると、今作で形成されたフォルムは必然的な着地として考えても不思議ではない。数曲でささやかなビートは聴けるものの、リズムを強調する要素は本作にはほとんど存在せず、代わりにメインで聴けるのは、いわゆる「うた」というよりも「音響」として存在するヨンシーのヴォーカルと、最近ではパウウェルやマシュー・ハーバートと見事なコラボを展開したロンドン・コンテンポラリー・オーケストラのオーケストレーションだ。ストリングス・アレンジメントに、一度はバンドを脱退したが、今作から復帰してきたキャータン・スヴェインソンの名前がゲオルグ・ホルムと共にクレジットされていることから、キャータンが戻ってきたからこそシガー・ロスは10年ぶりに復帰することができたと推察される。本作におけるアンビエント的なサウンド・デザインを可能にしたのは、おそらくプロデューサーとして参加しているポール・コーリー(Paul Corley)の影響もあるだろう。彼はニコ・ミューリーやヴァルゲイル・シグルズソン等の《Bedroom Community》周辺のアクトと仕事をしていて、クラシック~現代音楽を他ジャンルの視点から解釈するのが得意な人間であり、その知見が活きている。シガー・ロスが10年ぶりに世界と対峙する際に採用したフォルムが、オーケストラを用いたユーフォリックなアンビエントだということは、戦争と疫病の伝染が人類を襲い、様々な形での格差や差別が益々顕著になってゆく現代において大きな意味を持つ。彼らがそれらの事象を目にする過程では、諦念や絶望も通過してきたことだろう。しかし最終的にシガー・ロスは淡い光のようなサウンドをリスナーに提示した。本作には、そんな多層的な願いと祈りが込められている。(八木皓平)
Text By Shoya TakahashiKohei YagiNami Igusa
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