【未来は懐かしい】
Vol.35
アフリカ最東部ソマリアの伝説的バンドが奏でるトランスナショナル・ポップ
〜イフティン・バンドの貴重音源集を聴く
“Al-Uruba Mogadishu”で画像検索をしてみよう。なんとも壮麗で、どこか無国籍風の建築物の姿がヒットするだろう。この「Al-Uruba」は、1975年、モハメド・シアド・バーレ独裁体制下の社会主義国ソマリア民主共和国(当時)の首都、モガディシュ市内リオ・ビーチに建造された、同国が誇る一流ホテルだ。旧領主国イタリア総領事館跡にそびえる同ホテルは、ポスト・コロニアル国家ソマリアの威信を示すかのように、実に堂々たる絢爛豪華な内外装を誇った。よく観察すると、その建築様式は、アラベスク調、西欧調、アジア調が入り混じった一種のアマルガムであるのがわかる。これは、アフリカ、アラブ、ヨーロッパ、アジア各地域の文化が集約し融合する「アフリカの角」の要所として、古代から世界の海運のハブ役を担ってきた
同地文化の複層性をよく表すものでもあった。1988年の内戦勃発まで、同ホテルには各国の政治家や外交官、財界人、裕福な観光客が続々と集った。音楽付きのショーも催され、現地のステージ・バンドが滞在客向けに連日演奏を繰り広げた。
イフティン・バンドも、この「Al-Uruba Hotel」の常連出演者として活動したバンドだ。このコンピレーション・アルバムは、彼らが1982年から内戦勃発前年の1987年にかけて、「Al-Uruba Hotel」内のスタジオで録音した音源と、(同じくステージ・バンドとして出演していた)国立劇場の地下スペースで行ったジャム・セッション音源を集めた、まことに貴重な2枚組レコードだ。
当時のソマリア音楽界は、(他の諸国でも同様の例が見られるように)教育省の管轄する国営のバンドが大勢を占めていたという。全体主義体制下のソマリアでは、彼らの仕事は政府によって厳密に管理されており、イフティン・バンドも元は国営バンドとして発足した。この元祖イフティン・バンドは、通称「Iftin A」と呼ばれ、国外の国際交流イベントにも出演するなど華々しく活躍した。このレコードに収録されているのは、その「Iftin A」のメンバー3名を含む、厳密に言えば別のバンドである通称「Iftin B」による音源となる。彼らは、当時のソマリアではごく稀だったというプライベート・リリース(非国営の民間リリース)も行っており、そのカセットテープ音源が現地市場にいくらか出回ったという。それらもまた内戦を経て国外へと散逸していったわけだが、今作のリイシュー元《Ostinato》による数年間に渡る地道な調査と追跡を経て、こうしてコンピレーション・アルバムにまとめられたというわけだ。
アルバムを聴いてまず耳を捉えるのは、その音楽要素の極めて多層的な様子だ。アフロ・ビート風のリズムが聞こえると思えば、ソマリアの伝統音楽に由来するスケールと特徴的なフレージングが東アフリカ〜アラブ圏音楽ならではの息吹を伝える。その一方で、同時代の米国産ソウルやファンクからの影響も強くにじませている。様々な地域から訪れるホテル滞在客の嗜好に合わせて、欧米産音楽の要素を積極的に取り入れた音楽を披露したという彼らのステージ・バンドとしての力量が、この辺からもはっきりと伺える。
かように、彼らの音楽それ自体が「Al-Uruba Hotelの建築様式と同じく実にアマルガム的なものだったわけだが、中でも特に印象的なのが、レゲエからの明確な影響とアジア的な要素の溶け込み具合である。
アフリカ諸地域において当時からレゲエが盛んに受容された事実は広く知られているところだが、ソマリアにおいてもそれは同様で、より正確に言えば他の地域以上の人気ぶりだったようだ。1970年代以来のボブ・マーリーへの厚い支持をはじめとして、各バンドが積極的にレゲエのリズムを取り入れ、警察や軍の音楽隊までもがレゲエを演奏していたのだという。レゲエがこれほど広範かつ早く受け入れられたのは、ソマリア西部に伝わる伝統的な舞踏「ダーント」のリズムと類似性があったからだとも言われており、ここでの単なる「インスパイア」を超えた自在な咀嚼ぶりもそれ故なのかもしれない。
中央アジア〜東アジア的要素は、主にそのスケールと歌唱法に聴くことができる。東アフリカの伝統的な音階と日本を含む東アジア地域におけるそれとの類似は、エチオピア音楽について頻繁に指摘されてきたわけだが、ここでも同様の傾向を聞き取ることができる。いわゆる「コブシ」を頻用する歌唱法においても、インドやパキスタンなど中央アジアの大衆歌謡、更にはインドネシアのダンドゥットやタイのモーラムとの類似を指摘できる。これらがどれくらい明確な関連性を有しているのか否かについては専門家の研究を仰ぐべきだろうが、すでに述べたとおり、古くからソマリアが全世界的な海運の要所として重要な役割を担ってきた事実に照らせば、右のような直感も故なきことではないように思われる。
また、こうしたアジアの音楽との関係性は、ソマリア民主共和国の外交史を紐解いてみると、一層実体性を帯びてくる。意外に思われるかもしれないが、ここには朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政策が絡んでいる。当時、ソマリア教育省では国営バンド構成員への音楽教育が積極的に行われていたが、そこでは北朝鮮から派遣された音楽家が講師として大きな役割を担っていたというのだ。同じ社会主義国として友好関係を築いていたという事情も大きかったはずだが、当時北朝鮮は国際社会での存在感向上を目指してアフリカ諸地域の若い独立国家へ様々な経済的/文化的支援を行っていたのだった(この辺りの背景を理解するには、昨年日本公開された韓国映画『モガディシュ 脱出までの14日間』が大いに参考になるだろう)。実際にイフティン・バンド(Iftin B)のメンバーも、教育省在籍時に北朝鮮から派遣された講師に音楽を教えられたという。こうした政治的な背景も、本作から聴こえてくる「アジア的要素」の配合に一役買っているのかもしれない。
加えて興味を惹かれるのは、女性シンガーがフィーチャーされたトラックが極端に多いという事実だろう。女性への苛烈な人権侵害が度々報じられているソマリア社会の現状からするとにわかに信じがたいかもしれないが、バーレ体制下においては、国営バンド所属であるかどうかに関わらず、女性音楽家はごく手厚く庇護される存在だった。イフティン・バンドの女性たちは有給の出産休暇を与えられ、政府は彼女たちを保護するために警察の特別捜査班を派遣したという。こうした女性の地位向上政策によって優れたシンガーが数多く誕生したという事実は、それがあまり知られざる事実ゆえに一層注目に値する。
「Al-Uruba Hotel」は、内戦によって甚大な被害を受け、その後も長い間廃墟として放置されてきた(“Al-Uruba Hotel Mogadishu”で画像検索すると、荒れ放題になったホテルの画像もたくさんヒットするはずだ。これらの画像を目にすると、内戦の苛烈さを思い知らされまことに心が痛む)。一時は復旧計画もあったようだが、ついには2016年に取り壊され、かつてのソマリア文化の栄華を写したその威容を再び目にすることは叶わなくなってしまった。現在もなお不安定な政体と危惧すべき治安状態が続く同地を想うと、ここに収められた豊かな音楽は、一層儚く、それゆえあまりに美しく響いてくる。(柴崎祐二)
Text By Yuji Shibasaki
柴崎祐二 リイシュー連載【未来は懐かしい】
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