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【未来は懐かしい】Vol.26
優しく耳を撫で、肌を温める音 ──「親密さ」に満たされたプライベート・ジャズ・ヴォーカル作を聴く

14 January 2022 | By Yuji Shibasaki

冬も深まり寒さが本格化してくると、きらびやかで開放的な音楽よりも、しっとりと滑らかな音楽に耳を傾けていたくなる。自室で過ごす時間が増えたこの二年ほどは、気が付けばいつもそういう響きを持った音楽を優先して再生していたようにも思うけれど、やはりこの時期においてはより一層愛おしく聞こえてくるものだ。

考えてみればこれは少し不思議なことで、なぜ人は冬の気候に接するとしっとり滑らかな音楽、いわば「親密さ」に浸された音楽に惹かれるのだろうか。温かく柔らかな人肌の感覚をその音像に聴き取っているというのもあるかもしれないし、耳元でささやくようなヴォーカルにくつろぎと温もりを喚起させられるのかもしれない。決して広くない限られた空間性を想起させるくぐもったような音質は、冬のリヴィングのまろやかな暖かさと、ふかふかとしたカウチソファの手触りにも似ている…そう表現してみてもなんとなく得心がいく。肌で聴く音。あるいは、耳で触る体温。音楽における「親密さ」を思うとき、我々のうちで、触覚的な感覚質と聴覚のそれが分かちがたく溶け合っているのに気づく。

ここに紹介するのは、偉大なるジャズ・ギター奏者ジム・ホールの妻ジェーン・ホールが、友人のカナダ人ギター奏者エド・ビッカートとともに1985年に制作したデュオ・アルバム『With A Song In My Heart』である(2017年に海外レーベルから再発CDが限定数販売されたが、今回、日本の《Muzak》から初の国内盤が登場した)。

ジェーン・ホールは、主に夫ジムのために曲提供も行ってきたが、プロフェッショナルの音楽家として活動していたわけではなく、本業は精神分析医であり、当然、広く歌唱を披露する機会はごく稀だった。かつて唯一その歌声を聞くことができたのは、1976年にジムが《Horizon》からリリースしたアルバム『Commitment』に収められていた小品的なスタンダード・カヴァー(「When I Fall In Love」)のみで、これも熱心なマニア以外にはことさら話題に登る機会のない「隠れ名品」的なものだった。しかしこの歌唱は、ごく好ましい意味でのアマチュア感に溢れており、ジムのギターとのデュオというミニマムな編成もあいまって、「親密」そのものというべき温かな空気を醸している。お互い、常に敬意と深い愛情を欠かささないおしどり夫婦として知られる二人が、ディナー後のリヴィング・ルームでただ二人のためだけに演奏している……そんな場面を垣間見るような、魅惑に満ちた名演だ。実際にジェーンにとって、ジムの作曲や練習に付き添って歌うのが日常だったようで、この「When I Fall In Love」は、まさにそのような二人のプライベートを切り取ったかのような曲だ。

それならばなぜ、本作『With A Song In My Heart』においてジェーンの伴奏をジムが務めなかったのであろうか。これには以下のような素敵ないきさつがある。

この作品は、もともとジムの誕生日にジェーンがサプライズ・プレゼントとして企画したものだ。それゆえ、ジム本人でなくて、二人の友人たるエド・ビッカートが密かに伴奏役を買って出た、というわけだ。「企画」といっても、当然一般への販売を前提とした商業目的のものではない。世界中を飛び回る人気ギタリストである夫に、ヨーロッパ・ツアーの道中いつものように自分の歌声を聴いてもらえるように…という気持ちが、アマチュア歌手の彼女をして初のヴォーカル作品を作らしめたのだという。このエピソードだけでなんともうっとりと甘い気分に誘われてしまうが、その内容がこれまた実に素晴らしい。

ジェーンのヴォーカルは、上述の通りプロフェッショナルな技巧や声楽的バックグラウンドに下支えされたものではないが、それゆえに「プライベートな歌」としての完璧な魅力を湛えている。ウィスパー気味の唱法はどこかブロッサム・ディアリーを思い起こさせるものでもあり、迫力よりも小気味よさとニュアンスの豊かさがその美質となっている。高低差のあるフレーズでやや震えを聞かせたり、高音部で若干のかすれなどを聞かせるが、それらすべてが心地のよいチャームポイントとなっている(とはいえ、ピッチ・コントロールの正確さに関してはかなりのもの)。なにより、リラックスぶりがダイレクトに伝わってくるような歌唱で、まさしく、愛する人のためだけに歌う「親密」な喜びが横溢するヴォーカルだ。 選曲もごくストレート。タイトル曲の「With A Song In My Heart」をはじめ、「Round Midnight」、「My Foolish Heart」、「My Funny Valentine」、「Lover Man」、「It Might As Well Be Spring」といったふうに、すべてがスタンダード〜ジャズの有名ラブ・ソングで占められており、このてらいのなさこそが夫へのプレゼントたる本作のコンセプトにぴったりだ。ちなみにジェーンは、1960年にジムと知り合い本格的にジャズへ親しむ前から両親の影響でミュージカル・ソングに親しんでいたというから、そんな彼女の趣向が素直に反映されてもいるのだろう。

エド・ビッカートのまめまめしいギター・プレイも実にいい。品のあるフレーズもトーンも、相当にジム・ホール的であり、あくまで夫婦のための演奏を心がけているふうだ。彼は、ジムの紹介で(ジムとの素晴らしい共演で知られる)ポール・デズモンドのグループに加わった経歴もある名手であり、まさしく「直径筋」といえるギタリストだ。ちなみに、本作のセッションを取り持ったという盟友たるベーシスト兼マルチ奏者ドン・トンプソンとの共演映像をYouTubeで観て知ったのだが、彼は、一般的にこうしたオーセンティックなジャズ・ギター演奏においては使われる機会の少ないフェンダー・テレキャスターを長年愛用していた(本作の録音でもそれを使用しているらしい)。太めの音を得意とするハムバッカー・ピックアップに付け替えているとはいえ、同じく必ずしもジャズ・ギター向きとは言い難いラウンド・ワウンド弦を使用。テレキャスター特有のアタックと丸みと温かみを帯びた中低音の配合が絶妙だ。ソリッド・ボディのギターを使用したジャズ・ギタリストの先駆的な存在として、楽器フリークにもぜひその名を知ってもらいたい人物である。

また、オリジナル・フォーマットがカセット・テープであることによるナロウな音質も「親密さ」に一役買っているように感じる。プライベートな録音を覗き聴いてしまったような(実際そうなのだが)感覚が即座に立ち上がってくる。ところどころ、ワウ・フラッターめいたゆらぎがあるのも愛嬌で、この種のデモっぽさや密室性が好きな向きはたまらないだろう。

この作品を受け取ったジムは、妻の心遣いと愛に大いに喜んだようで、以後事あるごとにテープを愛聴していたという。ある日、度々の再生によるテープの摩耗を恐れた彼は、知人に頼んでマスターリールに落としてもらったのだという。いかに彼がここに収められていた音に、そして妻に敬愛を捧げていたのかがわかるエピソードではないか。2013年にジムが逝去したのちも、ジェーンはいまだこのテープを初めて聴かせた際の彼の嬉しそうな様子を鮮やかに思い出すのだという。

幸せのおすそ分け。誰かにとっての「親密さ」は、不思議なことに私達にとっての「親密さ」にもなりうる。優しく耳を撫で、肌を温める音。広く人に聴かれるのを逃れてきた音楽が他の誰かの耳に届くとき、そこにまた新たな感動が生まれ続けていく。ポピュラー・ミュージックとは一般に、広く不特定多数の人々に聴かれることを企図した音楽を指すのだろうが、このようにして受け継がれていくポピュラーミュージックもありうる。それもまた感動的ではないか。(柴崎祐二)

Text By Yuji Shibasaki


Jane Hall

『With A Song In My Heart』



2021年 / Muzak


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柴崎祐二 リイシュー連載【未来は懐かしい】


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