「カッコいい人たちは南区にいますよ」
名古屋南区をレペゼンする《D.R.C.》が現在進行形で継ぐ遺志
Ryo Kobayakawa ロング・インタヴュー
先日公開されたラッパー、COVANのインタヴュー記事はすでにご一読いただけただろうか。今回の主役はCOVANとほぼ同時期に彼のファースト・アルバム『nayba』と対をなすようにファースト・ビート・テープ『ing』をリリースした名古屋南区のプロデューサー/DJのRyo Kobayakawaである。
Ryo Kobayakawaは一人のプロデューサーとして、NEO TOKAI/TOKAI DOPENESSのムーヴメントを牽引したレーベル/クルー《RCSLUM RECORDINGS(以下、RCSLUM)》の作品に携わり、COVANやNEIをはじめ、クルーであり彼が現在代表を務めるレーベル《D.R.C.》のラッパーたちとはもちろん、C.O.S.A.や田我流といった名だたるラッパーたちとも共作するなど精力的に活動。そして一方で、2015年から名古屋でスタートしたヒップホップを中心にさまざまなカルチャーの交わるフェス《XROSS CULTURE》を取り仕切ってもいる。今回のインタヴューではそのバイタリティに溢れた幅広い活動がどのようにして始まったのか、さらにはヒップホップと呼ばれる音楽の範疇に収まらず、多彩な表情を見せるビート・テープ『ing』がどのように生まれたのかに迫った。
きっとこれを読めば4月13日に名古屋《club JB’S》で行われる2人の作品のリリース・パーティーにも足を運びたくなるはず!
(インタヴュー・文/高久大輝)
Interview with Ryo Kobayakawa
──COVANさんとRyoさんは同級生で、COVANさんは昔、Ryoさんからよく音楽を教えてもらっていたとおっしゃっていました。Ryoさんの音楽の入り口はどういったところだったんでしょうか?
Ryo Kobayakawa(以下、R):俺は三兄弟の末っ子なんです、上の兄貴とは7、8個離れていて。物心ついた頃には兄貴は格好も普通じゃないし、音楽も好きで、ハードコアもレゲエもヒップホップも、なんでも聴く人だったんです。もともとメロコアやスカのバンドが流行っていて、その中にヒップホップが紛れ込んでいた時期に俺が小学生くらいで、隣の部屋から聴こえてきた音楽に影響を受けて小さい頃は過ごしていましたね。小5くらいからスカが好きで、レス・ザン・ジェイク、Oi-SKALL MATES、KEMURIだったり、洋楽も邦楽も、スカ系のバンドを聴いていましたね。そこからヒップホップではSHAKKAZOMBIEやBUDDHA BRANDはもちろん、Zeebraとかも聴いていたりしたんですけど、やっぱり地元が名古屋なんで、M.O.S.A.D.やPHOBIA OF THUGだったり、名古屋のローカルの人たちがカッコよくてよく聴いていましたね。それが中1、中2くらいです。
──その頃は純粋にヘッズだったんですね。
R:音楽が好きで、「ヒップホップかっけえな」という時期ですね。で、COVANとか、地元の中学で目立った子たちとか、そういう子が中学校でヒップホップの格好をしているわけですよ。最初は無視してましたね(笑)。「やっとるわ」くらいの感じで。俺は兄貴とその友達たちと遊んでいたから、中1とかの頃は同級生のみんなと仲良くする気もなかったんです。その後はすぐ仲良くなりましたけどね。
──同世代よりお兄さんの世代の影響が強かったと。
R:そうですね、兄貴の影響をもろに受けていて。兄貴の部屋にターンテーブルがあったから、誰とも遊ばずにタンテを触ったりしている生活でしたね。兄貴の部屋に行って、兄貴のレコードを触ったり。
──もともと様々な音楽がすごく身近にあった環境だったんですね。
R:だからいまだにハードコアも、レゲエも、スカも聴きますね。全部を深く聴いているわけじゃないけど、小さい頃にいろんな音楽を聴いていて、そのときの気持ちが忘れられないんです。当時聴いていたものを昔の感情のまま聴けていますね。COVANとか、DJ Rise(Lil Rise)とか、今韓国に行っている子でもうラップをやっていない子とかは俺が音楽をよく聴いているのを知っていたから、それもあって「何聴いてるの?」と聞かれたりして。CDを貸したり、昔あったミックステープを貸したり、逆に向こうが買ってきたものを借りたりして交流が始まっていったんです。
──《D.R.C.》はどのタイミングで結成されたんですか?
R:中学校を卒業する前くらいの、それこそCOVANといっしょに出た文化祭くらいの時期に俺はDJをやる、俺はラッパーになる、俺はシンガーになる、みたいな、そういう話になって、クルーを組んだのは流れと言えば流れなんですけど、俺ん家で毎週のようにたむろしている中で、M.O.S.A.D.をはじめいろんなラッパーやDJたちがクルーを組んでいたから、そういうのを真似て、俺らもやろうかとなったのがきっかけですかね。それが高校1年くらいかな、2004年くらいだったと思います。
──ちなみに《D.R.C.》は“Delicious Rich Candyz”の頭文字を取ったものですよね。
R:とりあえず“Rich”になるってことと、一人のツレが“Candy”は甘いからスラングとして「モテる」という意味で付けて、“Delicious”は美味しいという意味だけど、もともと“Delicious”と書いてある皿がウチにあって、よくウチで遊んだりしているときにいっしょに飯を食ったりもして「いいね!」となった感じで。そのイニシャルを取って《D.R.C.》になりました(笑)。
──まさに同じ釜の飯を食った仲間。
R:毎週のように遊んでいる中で、深く考えずに決めた感じですよ。
──そうして役割がなんとなく決まったあと、ご自身で音楽を作っていく方向に進んでいくんですか?
R:昔はDJばっかりやっていて、ライヴはありものの音源を使ってやっていたんですけど、その頃に真ん中の2個上の兄貴がちょうどビートメイクできる機材を買って。それで兄貴からもビートをもらってライヴをするようになって、その流れで俺もちょっと見よう見まねでやってみたのがきっかけですね。だから自分でビートを作り始めたのは17歳くらいかな。もちろん当時は技術もまだまだですけど、作りながらライヴもしていましたね。その頃はイベントを打つのが名古屋でも流行っていたんで、ライヴは週に2、3回あって。
──あくまでその頃はDJがメインだったんですね。
R:DJで月2本くらいがレギュラーであって、その他に単発で3本くらいあって。DJはずっとやっていましたね。だからほとんど毎週クラブにいて。今よりもたくさんイベントをやってましたね。
──そのときのクラブは今もありますか?
R:いや、ほとんど潰れちゃいましたね。残っているのは《club JB’S》くらい。当時、今みたいにイベントが流行っていた時期だったんです。ヒップホップの流行で言えば、《さんぴんCAMP》の人たちが第1世代だとすると俺らがちょうど第2世代のさきがけのような位置で、イベント主催者が増えて、ラッパーが増えて、ダンサーが増えて。で、3〜5年くらいしたらたくさんいた人たちがスッといなくなって、「アイツどこいった?」という感じ。もちろん今はヒップホップが根付いてきたからそんなことないと思いますけどね。けど俺らの世代はいろんなヤツがいっぱい現れては消えていくような状況でした。《D.R.C.》には常に10人くらいいたんですけど、その中で別の道に行くヤツももちろんいて。
──なるほど。作ったビートを最初に発表したのはいつ頃でしたか?
R:20歳くらいのときですかね。《D.R.C.》でEPを作ったんですけど、それで1曲俺もビートを作っていて。それは販売はせず手で配ったんです。それこそ東京でライヴがあったときに持って行って、《VUENOS》(2020年に閉店した渋谷のクラブ)に行ってMACCHOさんや、A-THUGさんに渡しましたね。
──これはCOVANさんにもした質問なのですが、当時の名古屋は派閥というと大げさかもしれませんがいくつかグループが別れていたと聞いたことがあります。Ryoさんは《RCSLUM》関連のコンピ盤などにも参加していますが、先輩方とどのような繋がりがありましたか?
R:《RCSLUM》のソウタくん(ATOSONE、《RCSLUM》のレーベル・オーナー)はNOSE DIRTという服屋さんの店長をやっていて。俺らが高校生くらいの頃はそこに買いに行ったりもしていましたね。あとBALLERSの中でもM.O.S.A.D.の下の若いクルーの人たちとイベントをいっしょにやったりしていました。名古屋では割と真ん中の道を辿っていたのかもしれないです。
──先輩方と繋がりながらクラブで経験を積んでいく中、聴いていた音楽に変化はありましたか?
R:俺はもともと西海岸が好きだったので、名古屋の先輩方がやっていた西海岸の影響を受けたものはたくさん聴いてきたけど、途中でCOVANもNYのヒップホップを聴くようになって。俺らの先輩と一緒にやってたイベント名にも最初は“ウェスト・コースト”と入っていたんですけど、それを取って、ウェスト・コーストに限らずいろんなジャンルができるイベントにしました。それが高校生の後半かな。先輩のBALLERSの人たちや、ソウタくんたちは俺らのことを後輩というか仲間のように話してくれて、普通だったら上下関係が厳しくてイベントが嫌いになっちゃうこともあると思うけど、俺らは自由にやらせてもらっていたんです。それこそ兄貴の友達の先輩方がいっしょにイベントをやってくれて、俺らをフロントのアーティストにしてくれたり、すごくお世話になった時期がありましたね。名古屋と言えば先輩が怖いイメージもあるかもしれないけど、全くそういうことはなく、俺らは自分たちのスタイルでやらせてもらっていたと思います。
──そういった雰囲気は現在の《D.R.C.》に繋がっていますか?
R:だと思います。やっぱり嫌な先輩にはなりたくないですからね。
──話を戻しますが、Ryoさんはクラブなどから離れていた時期もあったとCOVANさんから伺いました。
R:ありましたね。《D.R.C.》は一回解散しているんです、20歳過ぎくらいかな。クルーでマイクコンテストに出て結果が出ず、それに加えてとあるイベントに出たらノルマを払えという話になって。「そんなことやるためにやってねえ」と一人が辞めると言い出した流れで「じゃあ俺もラップ辞めるわ」という感じで2人くらい抜けて。「じゃあもう解散しようか」と。《D.R.C.》も解散したし、俺も自由にやらせてもらおうと思って、それからすぐ起業したんです。株式会社DRCという会社を作って、営業をやったり、飛び回っていましたね。でもビジネス的にはそんなにうまくいかなくて。20歳で起業して、2〜3年やったんですよ。大学に行きつつ会社をやって、「めちゃくちゃ稼ぐぞ」と思ったけど全然で。周りの良いように言ってきた大人が飛んだり、変な奴が金だけ持って逃げちゃったりして、ちょっと落ちてしまって。その頃、やっぱり音楽って良いなと思って。もしかしたら逃げのように見えるかもしれないけど、やっぱりこれだと思ってまた戻ってきたんです。それが23、24、25歳くらい。
──20代前半は怒涛だったんですね。ビジネスに奔走している間も音楽に対するアンテナは立て続けていたんですか?
R:もちろんいろいろ聴いていましたけど、どうしてもアンテナは少し鈍っていたと思います。ただ逆に戻ってきたときは貪欲さというか、「もっと聴きたい」という気持ちがありましたね。それこそフライング・ロータスだったり、あの辺のカリフォルニアの音楽がたぶん20〜24歳くらいで出てきたと思うんですけど、それはめっちゃ衝撃的でしたね。
──伝説的イベント《Low End Theory》周辺、LAのビート・シーンですね。
R:《MdM(MADE DAY MAIDER)》(C.O.S.A.、Campanella、Ramza、Free Babyroniaらを中心に開催されたパーティー)に遊びに行ったらそのクオリティ以上の事をやっていたイメージがありますね。
──《MdM》の面々はほぼ同世代ですよね。
R:俺らの一個上ですね、Ramzaくんとか雄一くん(Campanella)とか。すげえカッコいいですよね。
──ちなみに先ほどクラブから離れていた時期に起業したとおっしゃっていましたが、どのような目的があったんですか?
R:14歳のときに名古屋の栄でBALLERSがイベントをやっていたんです。BALLERSに一人、KEISHIくんという人がいて、その人が「今度野外でイベントやるから、誰でも入れるから来なよ」と誘ってくれて。無料だったし、14歳だからクラブは結構ビクビクしながら入っていたから、「クラブよりは野外の方がいいな」と思って行ったら、BMXのパフォーマンスがあったり、ライヴがあったり、DJがプレイしていたりして、俺が今やっている《XROSS CULTURE》のようなイベントですごく楽しくて。結局それが今の自分のクルーやレーベルの活動のきっかけになっていたり、作っている音楽に繋がっていたりするんです。
19歳くらいのときに若宮から栄の辺りを歩いていたら、テレビ塔の前にものすごく広い敷地があって、全然使われていなかったから、ここで野外のイベントやったらKEISHIくんが誘ってくれたあのイベントのようにできるんじゃないかと思って。単純にデカいこともやりたかったというのもあるし、企画書を作って、事業計画書を作って、それから見積もりを取ったらすごい金額で。じゃあまず金儲けしなきゃという流れで起業しました。17歳頃からイベントには携わってきたから「できるっしょ」という感じだったんですけど、全然うまくいかず、一回サラにして、それでも「やりてえな」という思いは消えず、《XROSS CULTURE》を始めたんです。
──《XROSS CULTURE》はBALLERSのイベントから繋がっているんですね。
R:14歳のとき行ったそのイベントには日本一のBMXのライダーが出ていたりしたんですけど、その人の息子と今いっしょにやったりしていますね。
──すごく素敵な繋がりですね。
R:全員繋がってるんです。BALLERSに誘ってくれたKEISHIくんも兄貴のツレだし、その遺志を受け継いでじゃないけど。俺は若い子、中学生とかに無料で見てもらって、「ヒップホップっていいな」「BMXっていいな」と思ってもらえたら、それが恩返しになると思っていますね。
──物語がありますね。
R:そうなんです。KEISHIくんが誘ってくれたイベントと同じように、あの場所でできたから、俺は今のところ、一応は良かったなと思っています。今後も続けて行きますけどね。
──無料で開催しているのもすごいですよね。
R:まあ有料のイベントもやっていますが、最終的には無料がいいですね。というか、中学生や高校生は全員無料でいい。大人がみんなで出し合って、子どものやりたいことやらせてあげる、それがヒップホップだと思うから。
──そういった存在が現役でやっているのは若い世代にとって心強いことだと思います。少し話を戻すと、Ryoさんが戻ってきて《D.R.C.》に再結成のタイミングがあるわけですよね。COVANさんはRyoさんがクラブに行っていない間も地元で会っていたと聞きました。
R:会ったりしていたかな。ただ自分が戻ってそこからはっきり再結成という感じではなくて、一回解散とは言ったものの、残っている連中はいるし、《D.R.C.》ってまだあるよなと。そこでビートを提供した『POP ZOMBIE PACK』(2013年)が出て、そのあとC.O.S.A.のファースト『Chiryu-Yonkers』(2015年)が出て、「知立Babylon Child」(プロデュースはRyo Kobayakawa)のMVを撮ったりして、で《XROSS CULTURE》をやったりして、少し飛んで、NEIたちがラップやり始めるような流れですね。
──Ryoさんが戻ってから《D.R.C.》としての動きが活性化していったんですね。《D.R.C.》は名古屋の南区をレペゼンしていますが、南区はRyoさんにとってどのような街ですか?
R:どうだろう…職人気質というか、自分で何かやっている人が多いですね。俺も配管屋の職人なんですけど、親父がやっていて、今は兄貴が継いでいます。そうやって自分たちの手で稼いでいる人が多いし、癖の強い人が多くて。なんていうか、バカが多いんでしょうね(笑)。だから俺はめちゃくちゃ面白いです。中学校も最高だったし、めちゃくちゃ面白かったですよ。
──ずっと南区に住んでいるんですか?
R:そうです、南区はめちゃくちゃ住みやすいし、栄にも15分で着くし、海にも20~30分で行けて、釣りもできるし、調子良いですね。俺らをイベントに出してくれた先輩も南区や隣町の人だし、BMX日本一の人も南区だし、グラフィックを壁に書かせてくれるいつも行ってる床屋も南区にある、俺の乗っているTOYOTAの旧車を直してくれる刺青だらけの先輩も南区だし、全部ここで生活が完結しているんです。カッコいい人たちは南区にいますよ。
──南区で全部できるわけですね。《D.R.C.》にもいろんなことができる人が集まってますよね。
R:AGっていう《D.R.C》のヤツは、COVANと俺といっしょに文化祭でライヴしたときのもう一人のラッパーで、そのAGはデザイン会社を今やっていて。C.O.S.A.のファーストもAGがやっているし。今はUNCLEDELICIOUSって名前でやってますね。あとJJJのジャケットを書いた絵描きのvugも同じ中学です。
──AGさんとUNCLEDELICIOUSさんは同一人物なんですね! いろいろと繋がりました(笑)。本当にずっといっしょにやっているんですね。
R:ヤバいですよね(笑)。この間もいっしょにMVを撮ったりして、もう怖い。
──田我流さんと「LAID BACK」という曲で共作していますが、山梨の一宮を中心に活動している田我流さんとRyoさんのローカルに対する思いはリンクしているように感じます。
R:田くん(田我流)は知ってくれているというか、俺らを上げてくれてますね。この前フライヤーをAGがやったりTシャツやジャケットもたまにAGがやっています。田くんは本当にフラットに付き合ってくれて感謝していますね。地元でやっているというのはヒップホップとして最高だと思う。
──先ほども名前が挙がりましたが、NEIさんをはじめ、《D.R.C》の若い世代との交流はどのように始まったんですか?
R:スタジオの近くでスケボーしてた3人組がいて。「うるせーな」と思ってたけど、俺は毎日そこを通るんで、軽く挨拶するようになって、そこにNEIがいたんです。それから熱田神宮という南区の隣の地域のバーで《D.R.C.》のvugが個展をやったときにその3人組が来てくれて、そこで初めてちゃんと話しました。
──そのときNEIさんから「ラップをやりたい」と相談されたんですか?
R:そのときはただ普通にしゃべっただけで、しかもアイツは俯きがちで、スンとしていて、今では考えられないくらいツンツンしていたというか。そのあと友達とも「アイツだけちょっと雰囲気違うよね」と話をしたくらい。それがNEIの第一印象ですね。それから《XROSS CULTURE》をやったとき、彼らはBMXもスケボーもやっていたんで、BMX周りの連中といっしょに来て、楽しんで帰ってくれて。その次の日くらいにDMで「ラップしてみたいです」と連絡が来て、「やろうか」と。そのあとウチに来て、ちょうどNEIたちが来た日にC.O.S.A.も来ていたかな。で、「曲作ろうよ」って感じで俺のビートでちょっと作って。3人組だったけどNEIだけちゃんとブースに立ってRECして。そこから通うようになって、ビート渡したりしてという流れですね。
──本当にはじめは近所のお兄さん的存在だったんですね。
R:NEIが中学生の頃に、AGがデカい黒塗りのサバーバンに乗っていて、俺らが中に乗ってるのを見て、NEIは怖くて隠れてたって言ってました。でも初めて買った日本語ラップのCDがCOVANの『POP ZOMBIE PACK』だったりして。
──《D.R.C.》が若い世代も入りやすい空気を作っているということでもありますよね。
R:NEIが声を掛けてくれたのは《D.R.C.》にとっても大きなきっかけになったと思うし、COVANと俺だけじゃ作れないものをNEIが作ってくれた。感謝してます。その流れで1年後くらいにNEIが「小学校から遊んでた子と久々にクラブで会ったんですけどラップしていて、良い感じなんですよね」と言ってきて。ある日NEIのバックDJとしてその子が来て、そしたらやたらとデカいんですよ、「デカ!顔ちっちゃ!」みたいな。それがhomarelankaなんです。もともと地元の小学校であの子たちはいっしょで、途中でhomarelankaは引越しちゃったんですけど、久々に会ったらお互いラップしてる状況で。
──繋がりが繋がりを呼んだんですね。
R:homarelankaはそのときいざこざに巻き込まれたあとだったみたいで、あまり良くない方向に行ってしまいそうだったから「ラップするべきだよ」と言って引き入れた感じです。
──悪い方向に行かないようにしてあげようという意識があったんですね。
R:カッコよければいいけど、ほとんどがダサいでしょ。捕まったり、暴力振るったり、ドラッグでヨレたりはダサいですから。それよりラップして成功を掴んでいるヤツの方がカッコいいでしょってことですね。
──ATOSONEさんが《RCSLUM》で打ち出した「音楽の話をしよう」というメッセージ、言い換えれば音楽至上主義という部分とも繋がっていますよね。年齢の上下や悪さを基準にせず、まずは音楽という。
R:そうだと思いますね。もっと言えば名古屋の人たちって音楽がめっちゃ好きで。俺らが集めていたミックステープも海外のローカルでマイナーな人たちのヤバい曲を集めた、いわゆるコンピなんですけど、本当に「最高な音楽を集めました!」というものなんです。いろいろと音楽に対して真面目だったんですよね。だからその影響も絶対にあって。あと名古屋にしかないローカルの『OUTCRY』というマガジンがあって、そこには映画のレヴューやレコードのレヴューがあったり、「アメ車も乗れ」とか書いてあったり、クラブのスナップもあったりして、カッコいい人間、アーティストとは?という部分でも影響は受けたと思いますね、みんな。今はもうないんですけど、バイブルです。
──COVANさんもミックステープの話をしていました。
R:そのミックステープは名古屋のDJの人たち、W.C.C.というクルーの人たちが全部ミックスしていたんです。つまり“ここでしか手に入らないレコード”というものを持っているってことですよね。そういう人たちがギャングの格好をして、アメ車に乗っているんです。だから超カッコよくて。その時代に自分たちはがっつりヘッズで、テープをその人たちから買っていた。だから「音楽の話をしよう」というのは名古屋全体で昔から言われていたことかもしれないですね。それをソウタくんは打ち出して、あの人のブランドにして、カッコいい先輩であり続けていますね。
──ここからは制作についてのお話も伺いたいのですが、まずARKHAM ASYLUMはRyoさんの自宅スタジオになるんですか?
R:あれはウチの配管屋の2階で。床を張って5cmくらい上げて防音したり改造していていますね。機材は大したことなくて、マイクとPro Toolsとスピーカーだけという感じです。ずっと俺が住んでいたんですけど、結婚を機に引越したので、基本はRECや編集をするための部屋ですね。俺は俺で今住んでいる自宅の一室を改造してビートを作ってます。
──2つ拠点があるんですね。ARKHAM ASYLUMの方は《D.R.C.》の皆さんで使うような感覚ですか?
R:俺が使わなくなったから使いなよくらいの感覚ですね。そこにはVOXXというエンジニアがいて、NEIやhomarelanka、ローカルで言えば、Havit、Contakeit、AONとか、いろんなラッパーが録りに来ていますね。みんなも使いやすい場所があった方が制作は進むと思うし。もともとは人の家でRECしたり、鷹の目くんのスタジオに行ったりしていたんですけど、自分たちでやり始めて。最終的にミックスとマスタリングは外に出すから、そこまではやろう、みたいな。いまだにCOVANのミックスは自分がやっちゃうことも多いんですけどね。
──ちなみにスタジオの名前“ARKHAM ASYLUM”は『バットマン』から取ったんですか?
R:そうそう、ジョーカーが収容されていた精神病院の名前から。結局ラッパーなんて精神病なんで(笑)。そこでみんなケアをするわけですよ。精神を病んだラッパーたちが自分の言いたい事言って、吐き出して、それで精神をケアする場所なんです。皮肉しかないですけどね(笑)。
──アメコミなど古いアニメ作品もお好きなんですか?
R:これも兄貴の影響ですね。『ミュータント・タートルズ』『バットマン』『グレムリン』だったり、『妖怪人間ベム』も『あしたのジョー』も観たし、手塚治虫作品も全部好きだし、人間としては少し昭和寄りなんですよね。そういう作品の精神面的なものは今でもやっぱり良いなと思っています。カッコいいですしね。『スポーン』なんて最高ですよ。でもこのスタジオの名前はマジで皮肉です。ラッパーが毎週集まって俺のビートやありもののビートでRECする時期があったんですよ。COVANやATOSONE、vugだったり、みんな来ていたときがあって。みんな「次は俺だ!」「RECさせて!」という調子で。「マジでうるせえな、どうにかなんねえかな」という期間が半年以上あったから、疲れて「もうお前ら来んな」と思って終わったんですけど。その前後くらいでちゃんとスタジオにしようと考え始めて。だから「ラッパーとか精神病でしょ。ぶち込んだろ!」という感じです。すみません、口が悪くて。
──いえいえ! スタジオの方も含め2010年代後半は音楽の活動で忙しくなっていったんですね。
R:いやー、ふわふわしてましたよ。でもビートは1年間で200曲くらい作ってましたね。RECは70回くらいしてて。すごい作っていた時期がありましたね。
──日々ビートはストックしていっているんですか?
R:今はそのときほど作っているわけじゃないですけど、今回の『ing』にはその頃のビートとかが入っていますね。最近作ったビートはあのアルバムの中に10曲もないくらいです。それをミックス、マスタリングし直して出したんです。
──『ing』はCOVANさんのアルバム『nayba』とも対になるような作品ですよね。もともとどちらも2023年にリリースする予定だったと伺いました。
R:そうなんです。俺が息巻いてラッパーたちに言うわけですよ、「2023年に出せなかったらもう終わりでしょ」って。一応ケツを叩く役として。でも「ちょっと待てよ、俺出してないじゃん」「出せ出せ言う割に俺がやんないとダサいでしょ」と思って。「じゃあ俺が出すか、先に」という流れになり。それで2023年に出そうと思ったら全然間に合わなかったですね(笑)。
──でも両方合わせて聴けるいいタイミングでした。『ing』はどのような方向でまとめていったんですか?
R:『ing』では、現在進行形で自分がビートを作っていくし、作っているっていうのを表現したくて。遡ると6、7年くらい前のビートも使っているんですけど、なんと言うか、作り続けることの表明なんです。「止まらない」ってことを言いたかった。だからこれは入れたいという曲は結構入れて、曲数も多くなったんです。
──まさに現在進行形の『ing』という意味なんですね。すごく多彩な作品になっています。
R:自分が今まで作ってきたビートから、入れたいなと思うものを並べていったらこうなってしまっただけなんです。たしかにいろんなビートを作っていると思うんですけど、ただいろんな音楽を聴くタイミングで自分がいいなと思うものをやっているだけなのかもしれません。あとDTMの前に座ったときのノリというか。音色を探して、それを弾いてみて、それに合うドラムを探してとか、サンプリングから合わせていったりすることもあって。やっぱり性格や環境だと思うんですけど、俺は常に明るいヤツではないんで。テンションも下がればムカつくこともあるし、逆に楽観的なアホなこともあるから。一貫していないのが自分なのかなと思ったりしますね。だから「掴ませない」というのが今回の裏テーマだったかもしれません。
本当にいろんなことをやっているし、それが楽しいんです。作品についてカテゴライズしたがる人や「こういうもの」と言葉で言いたい人は多いと思うんですけど、自分はそうやって表現できなくて。自分のタイミングや環境、想いがその場で出ているだけで、そういうロジックはないんです。最近は良いドラムのラインができたらそれを活かして速くしてみたり、そういう作り方もしていますね。
──サンプリングするネタも直感的に選んでいますか?
R:昔はレコードばっかりだったんです。今はレコードでサンプルしたものがデータで残っているんでそれを使うか、YouTubeか、Apple Musicか、あとLoopcloudも使っています。でもネタがなくて作れないより全然良いし、やっていて楽しい。今だとアーロン・フレイザーだったり、最近は現行のソウルをサンプリングしたりしていますね。全然アリだと思うんです、ヒップホップってきっとそういうところから始まっていると思うから。
──COVANさんは昔Ryoさんの家にあったレコードのインストを使っていたとおっしゃっていました。レコードのコレクションはお兄さんのものが多いんですか?
R:兄貴はスカやハードコアが中心で、大きくなってからはほとんど俺が買っていましたね。半分くらい売ってしまったけど、今も1000枚弱くらいはあると思います。家では昔レコードばっかり聴いていましたけど、今はもう全然で、スタジオに思い出として置いていますね。
──アルバムの曲のタイトルも印象的なものが多いです。ビートは作ったあとにタイトルをつけるんですか?
R:半々かな。ウケますよね、1曲目が「Gold Eye Fish」ですから。金目鯛って魚の名前で、まさにそれなんです。皮肉っているわけでもなく「Gold Eye Fish」という響きがいいじゃないですか。あと「View Licence」とか「Rental Meat」とか造語を自分で作って付けたりしますね。「View Licence」というのは眺めを勝ち取るというか、自分にしか見れない景色の資格を持っているというニュアンスで。英語で本当にそういう意味かはわかんないですけどね。「Rental Meat」は人の身を借りているヤツというニュアンスです。曲名にメッセージ性を残したりしますね。でも感覚です。今はやっていないけど一時期リリックも箇条書きで書いていて。それを英語にしたりしてました。
──「kendrick shower」など少し驚いてしまうようなタイトルもあります。
R:“shower”と“lamar”が似ているだけで付けて(笑)。でも、ケンドリックの曲をたくさん聴く時期が誰しもあるかと思うんですけど、あの人のラップはシャワーみたいに降り注ぐじゃないですか。そういう感覚もありますね。
──感覚と字面のユーモアですね。制作にはどのような機材を使っていますか?
R:今はMASCHINEにAKAIのMPK-249とオーディオ・インターフェースがApollo、スピーカーがGenelecでサブウーファーがあって、という感じです。ハードで何かやっているとかもなく。プラグインで遊んでいますね。
──ちなみにこれまでどのような機材を使ってきたんしょう?
R:最初はRolandのMC-909という機材で、全部1台でできるから、毎日やっていましたね。そのあとMPC1000を使ってMASCHINEにいきました。
──名古屋は車社会だと思うんですが、ご自身の作品も車でチェックしたりされますか?
R:もちろん。なんなら自分のビートを車で一番聴いているかもしれないです。できたばかりのビートを車でずっと聴いて、ちょっとノリが違ったと思うこともあるし、「いいな!」と思って別にリリースせずに自分だけでアガってることもありますね。今までずっとアルバムのような形でリリースしてこなかったし、自分がアガるビートを作っているだけかもしれないですね。
──制作のルーティーンのようなものはあったりしますか?
R:ルーティーンは掴めないですね。子どもが2人いて、仕事が夜勤も昼勤もあって。めっちゃ不規則で。もう一生掴めないんじゃないかな。最近思うんですけど、自分はいろんなことをやりすぎているから、一個一個がその場その場でできあがるというか。だから「あ、今日ビート作ろうかな」という感覚で制作しているんです。
──いろんなことをやりすぎているとおっしゃいましたが、Ryoさんの原動力はどういったところからくるのでしょうか?
R:いや、自分のことより他人のことの方が燃えるんです。今で言うとCOVANのアルバムを出せたことに対してはめちゃくちゃやりきった感覚があります。あれの裏も表ジャケの写真も俺が撮っていて。
COVAN『nayba』アルバム・ジャケット──良いジャケットですよね!
R:COVANのアルバムに対して俺はすごく漲るものがありましたし、今後もNEIやhomarelankaやAndreをサポートしたいなと思っていますね。逆に自分のビートに関しては好きなようにやって好きな時期に出すスタンスで。そこに対しては変にクールかもしれないです。このビートでああやってこうやって、この人を呼んで、こういうMV撮って、という自分に対するモチベーションはあまりないかもしれない。ラップしたかったらしてくださいって感じです。もちろんカッコいいラッパーはいっぱいいるんですけど、でも今は身近な人たちだけでいいかな。
──他人のことの方が燃える性格は昔から変わらないんですか?
R:そうだと思いますよ。俺は三男で、家族団欒が好きだし、母も嫁も福祉系で。あとなんと言うか、わかっているんです、まだ掴んではいないけど、人に対してやってあげると自分の調子が良いんですよ。生きていく上でのコツじゃないけど、人が困っているところを助けてあげるとなぜか自分も調子が良くて。そういうときって、自分のことはすんなりいったりするんです。だから他人を蹴落としたり、他人のことがどうでもいいやっていうスタンスのヤツは、たぶん自分のこともカツカツで、余裕がないんだと思うんです。自分も別に金がめっちゃあるとかではないけど、他人のためにやってあげている方が調子が良い。性格だろうなとも思いますけどね。来月子ども食堂もやるし、スケボーパークも作るし、イベントは無料でやりたいし、そうなると応援してくれる大人がいる。「あのときの影響で《D.R.C.》聴いてます」とか、きっと回り回って自分に返ってくるじゃないですか。だから何かやってあげたいと思うのは、変な話自分のためでもあるんです。
──せっかくの機会なので、ありがちな質問ではありますが、一番影響を受けたアーティストを教えてください。
R:兄貴かな。2人いるんですけど、2人ともめっちゃクリエイティヴなんですよ。長男は自分の刺青のデザインを描いたり、次男の方は家を作ったり店舗を作ったりしていて。
『ing』のジャケットに収められた絵は上のお兄さんが10歳のとき描いたもの。──自分たちで作るのが当然という感覚があるんですね。
R:ウチは職人一家なんで、材料も道具もあるわけですよ。だから何かをやってるのを観たら、ああこんな感じかというのがわかる。溶接してテーブルを作ったり、そういう意味で完全にアーティストですね。毎日いっしょにいますけどね。影響を受けたアーティストで言えばそうなるけど、ラッパーやビートメイカーで挙げればいっぱいいます、ドクター・ドレー、マッドリブ、フライング・ロータス、ラッパーで言えばアイス・キューブ、マック・ミラー、ミーク・ミルとか、めちゃくちゃいますよ。
最近聴いたヒップホップだとフレンチ・モンタナは良かったです。あとBlancoも好きでしたね。リトル・シムズの新しいEPも、ミーク・ミルとリック・ロスの『Too Good To Be True』(2023年)も良かったです。最近はレゲエもまた聴いていて。シズラのライヴはくらったし、プロトジェイ、ダミアン・マーリー周辺、アルボロジーやブジュ・バントンとかですね。レゲエはヒップホップよりもちょっと野生的じゃないですか、その野生的な熱量に血が騒ぐ感じが好きです。
──いろんな影響がRyoさんの中でミックスされていっているんでしょうね。
R:死ぬ間際で完成すればいいかなと。この散らかったものがギュっと凝縮して、「これが作りたかったんだ」と思えるものが。
──最後に今後について考えていることを教えてください。
R:今後の展開の一つとして、《XROSS CULTURE》にみなさん期待してくれているとは思うんですけど、ネガティヴな意味ではなく、アーティストをたくさん呼んで、デカいフェスのようにやるのが少し飽きちゃっているんです。一つのステージを見た5〜10分後にはもう次のステージが始まるから、噛みしめる時間もない。20組とか、ちょっとやりすぎました。そのバタバタ感にも飽きてきてしまっていて。クールじゃないかもって。アーティストのステージをちゃんと観てもらえるようなイベントをやりたいです。一つひとつが濃いステージになるように、精鋭たちを呼びたいですね。もっと言えば《D.R.C.》だけで1,000人くらい集まるようなクルーにするべきですね、俺は。
<了>
《D.R.C.》オフィシャル・サイト
https://deliciousrichcandyz.com/
《XROSS CULTURE》オフィシャル・サイト
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Text By Daiki Takaku
COVAN ”nayba” Ryo Kobayakawa “ing” W RELEASE PARTY
2024.4.13
START : 22:00
DOOR : 2500YEN
出演 : COVAN, Ryo Kobayakawa, ATOSONE, AIWA STONE, DJ RISE, ayapaqa, Lisebet, marin, AUGUST, TOSHI 蝮, NEI, homarelanka, Andre
詳細は以下から
https://club-jbs.jp/schedule/4-13-sat-night/