「誰もが力を貸し合う、それが《Elephant 6》の美しさだった」
ニュートラル・ミルク・ホテルやオリヴィア・トレマー・コントロールでの来日経験もあるジュリアン・コスターが語るあの頃の風景と現在
ジュリアン・コスターと言ってピンとこなくても、ジョージア州アセンズ界隈の音楽コレクティヴ《Elephant 6》の重要人物で、Chocolate USAやThe Music Tapesの……と聞けば、ああ!と思い浮かべることができる人も多いのではないだろうか。日本にはオリヴィア・トレマー・コントロールやニュートラル・ミルク・ホテルの来日公演にも同行していたので、ステージに立っていた姿を覚えている人もいるかもしれない。クリクリとした目と愛らしい雰囲気、どんな楽器も飄々とこなしてしまうマルチな才能の持ち主、どんな音のカケラも胃袋に取り込んでしまうようなタフでポップなクラフツマン的ミュージシャン、それがジュリアン・コスター、その人である。
90年代半ばから後半を一つのピークとしてUSインディー・シーンで人気を博していた《Elephant 6》には、そのオリヴィア・トレマー・コントロール、ニュートラル・ミルク・ホテルはもとより、中心的バンドのジ・アップルズ・イン・ステレオ、オブ・モントリオール、エルフ・パワーなどなど本当に数多くのユニークなバンド、アーティストがひしめいていた。それぞれに異なるものの、共通していたのは、ホーンやストリングス、サンプリングやループも自在に取り入れた室内的な音作り、演奏スキルや高価な機材に縛られないハンドメイド感と柔軟なアイデア、そしてなんといってもメンバーが互いのレコーディングやライヴで力を貸し合うフレンドシップに満ちた環境だ。それぞれのバンド・メンバーが仲間の作品に気軽に参加することは日常茶飯事、もはやどこまでが正式メンバーで、どこからがそうじゃないのかの線引きも曖昧とさえ言える、その開かれたムードはまさにコレクティヴと呼ぶに相応しい。しかも1940年代の大衆音楽も60年代のサイケデリック・ロックも最新のヒップホップもポップの旗印の元に飲み込んでしまう包容力があった。
そんな《Elephant 6》周辺は、昨2023年夏に《Pitchfork》で「The Elephant 6 Recording Co. Documentary Shows Why a Scruffy ’90s Indie Rock Community Still Matters」という検証記事も公開されたように、今、じわじわと再評価の機運が高まっている。そんなところに、昨年秋になるが、ジュリアン・コスターのソロ・プロジェクトであるオービティング・ヒューマン・サーカス(Orbiting Human Circus)が新作『Quartet Plus Two』をリリースした。アメリカン・グッド・タイム・ミュージックを下地にしつつ、シアトリカルで映像的でキッチュでポップで、でも、どこかに悲哀やアイロニーも覗かせるジュリアンのポップイズムとはどこからきているのか? 昨年11月に来日した時の超ロング・インタヴューをお届けしよう。なお、ジュリアンはエレキベース/《WAIKIKI Records》の坂本陽一の招聘によってまもなく来日ツアーを行う。昨今、ハンドメイド・ポップが足りない! と思っている貴方、ぜひかけつけてみてほしいと思う。
(インタヴュー・文/岡村詩野 通訳/竹澤彩子 協力/坂本陽一)
Interview with Julian Koster
──ジュリアンは日本には何度も来ているそうですね。
Julian Koster(以下、J):そう、えーっと、たぶん11回かな。
──11回も! だから日本語も上手なんですね。
J:(日本語で)チョットダケ。お恥ずかしい(笑)。
──初来日は?
J:たしか……。
──もしかしてオリヴィア・トレマー・コントロールの来日時ですか。
J:そうだ(笑)、君の方が詳しい、先に言われちゃった(笑)。
──となると、1999年ですね。
J:覚えてるよ、そりゃもう。あれってたしか夏だったよね? 夏で、すごく暑かったんだよね……日本に到着して次の日すぐライヴっていうスケジュールで。時差ボケがひどくて(笑)。ホテルが、たしか渋谷か恵比寿にあったんじゃないかな。会場は渋谷の《クアトロ》だったのかな? その時のステージが楽しすぎて、一瞬にして東京が好きになった。その時のオープニング・アクトがたしか、何て名前だったっけ……覚えてる?
──くるりですかね。
J:確かそう。とにかく強烈に覚えてるのが、対バンしたその日本のバンドが手作りのケーキを焼いてきてくれて(笑)、それがものすごいインパクトで! アメリカでは前座に出演してくれるバンドが作りケーキを焼いてくれるなんて、想像の斜め上をはるかに超えるくらいあり得ない発想だから(笑)。もうみんなして、スゴイ‼ って、めちゃくちゃ感激したんだよ‼ そのあとイザカヤで打ち上げをしたのかな……? でも、自分の中ではスシを食べた記憶もあって……でもやっぱりイザカヤだったのかな。日本酒で酔っぱらって、しかも時差ボケで……僕はお酒は滅多に飲まないんだけど、そのときはかなり酔っぱらって新鮮な空気が吸いたくて外に出たら、モデスト・マウスのヴォ―カルのアイザック(・ブロック)とバッタリ出くわして……東京の街のど真ん中でだよ(笑)! 2人して“なんでここに?!”“いやいやライヴだよ”“僕らもライヴで来てるんだよ!”って展開になって、一緒に遊んだのを覚えてる。最初の日本の記憶はそれ! とにかく初めて日本に来たときからすぐに日本が好きになった。
──私はあの時、オリヴィア・トレマー・コントロールのビル・ドスとウィル・カレンハートにインタヴューしました。
J:ああ、ビル・ドス! それにウィルもなんだ。
──私が次にあなたがステージに立つのを日本で観たのはニュートラル・ミルク・ホテルの時です。
J:うん。実はその間にも何度かちょこちょこと来てたんだ。2000年代にジョン・キャメロン・ミッチェル(『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の脚本、主演)と一緒に仕事をした関係で彼と仲が良くて、2000年代に日本で公開されたときに、映画のプレミアでジョン・キャメロンと一緒に来たんだ。で、映画会社の人が下北沢に連れて来てくれて、その時にもう大好きになった(笑)。で、いつかまた絶対に下北沢に来るんだって思って、ジョン・キャメロンと2人して下北沢再訪計画を立ててたんだけど、ジョン・キャメロンの都合が合わなくて。で、その後がニュートラル・ミルク・ホテル。で、そこからはほぼ毎年日本に来てるよ(笑)。
──今日はあなたのキャリアをちょっと整理させてもらいたいと思っています。私が認識しているあなたの最初の音楽活動は、あなたが16歳の時に始めたThe Music Tapesだと思うのですが……。
J:うんうんうん。
──これが自分のオリジナルの音楽を始めた最初のプロジェクトですか。
J:その通り。
──このThe Music Tapesは、まさしくテープ・コラージュのような、ミュージック・コンクレートの影響も感じさせるものでした。
J:そうだね。
──やはりミュージック・コンクレートのようなことをやりたいっていう気持ちがあったんでしょうか。
J:うん。実は僕の祖母と彼女の姉妹と母親が視覚障がい者でね。それで昔から手紙代わりにカセットテープにメッセージを吹き込む習慣があったんだ。僕と祖母はものすごく近しい関係で、英語で“Birds of a Feather(同じ一つの羽から生まれた鳥)”って言い回しをするんだけど、まさに似たもの同士というやつだったんだ。それでも彼女はしょっちゅう旅に出てあちこち飛びまわってたから、なかなか頻繁には会えなくて、それで旅先からよくメッセージを吹き込んだカセットテープを送ってくれたんだよね。それで時々話のネタにつきたのか、録音ボタンをそのままにして自分が今いる場所をただひたすら実況中継をして、それこそストリートを走る車のピッピーって音まで入ってたり。で、その音を聴いてるとまるで彼女と一緒に同じ風景を見ているような気持ちになって、愛が音の形になってるみたいな感じだったよ。その一つ一つの音にすっかり魅了されて。それが自分と音との関係性の原体験になってるんだ。愛情とか、感情とか、ストーリーを伝えるものとしてサウンドがあるっていう、大好きな祖母とのカセットテープとのやりとりから、そういう感覚がデフォルトとして僕の中に染み込んでるんだよね。
──なるほど……。あなた自身の作品には確かに2つの潮流がありますね。一つがアウトサイダー・アートみたいな側面。非常に自由で形式にこだわらない孤高な表現としてのアート。もう一つは、逆にアメリカの伝統的な大衆音楽、ジョージ・ガーシュインとかコール・ポーターの流れを受け継ぐエンターテイメント音楽を継承しようとする側面です。これは自分でも自覚してるところなのですか?
J:そうだね。これもまた僕の数奇な成り立ちに関係しているところで……もともと1930年代のレコードが大好きで。いつもリサイクル・ショップやガレージ・セールでレコードを手に入れてたんだけど、ほら、アメリカってガレージ・セールがよくあるから、そこで色々と発掘するわけだよ。レコードのバックグラウンドとかコンテキストとか一切ないままにレコードを発見していって。自分が歌ってた曲がいつの時代のものとかまるで知りもせずね。ただ自分が手に入れたレコードをかけて、胸をときめかせながら、夢中になって一緒になって歌ってた。それこそ今考えると完全に我流の、自己満足の歌い方でね。
で、子供の頃にあの時代の音楽に魅了された一つの理由として、例えばある曲を大好きになって、そのバンド・リーダーの大ファンになったとする。でも、実はそれはカヴァーで、例えばビリー・ホリデイの歌ってるヴァージョンがちゃんとある。そこから、他の人の歌っているヴァージョンを聴くんだけど、同じ曲ってことにまったく気づかない。もうただただその歌自体に魅了されて……一人一人、まるで表現が違ってるからね。割とそういう感覚なんだと思う。
それともう一つ、後から知ったことで美しいなと思ったのは、歌い手のその背景にいる作曲家の存在だよね。クラシックの作曲家なんかもまさにそうだけど、曲の形になる以前にその作曲家の元にメロディが降りてくる。それをその作曲家以外の誰かが形にする、曲に命を吹き込んでくれるっていう……様々なアーティストの魂を介して曲に永遠の命が宿るわけだよ。時代を越えて永遠に受け継がれる形で。ドビュッシーがフランスで100年以上前に書いた作品を、今この瞬間、誰かがまた新たな命を吹き込んで蘇らせている最中かもしれない。そういう感覚がすごく好きなんだ。
──そうした二つのディレクションが合流した地点に最初のユニットであるThe Music Tapesがあり、並行して始めていたMiss Americaというユニットがあり、そして、Chocolate USAに発展していく、というわけですね。そもそもMiss Americaというユニットはどういう音楽をやろうとして結成されたのでしょうか?
J:説明するのは大変だなあ……あのユニットを始めた時も本当にまだ10代の子供だったんだ。音楽を作ってカセットテープに録音するのにとにかく夢中で……それで、たまにステージに立って演奏したりとか。とはいえ、相当変わったパフォーマンスで(笑)。当然、プロフェッショナルなものではなく、それを10代の、完全に子供の自分がやってるという構造だった。でもそれを観た人達が“うわ、変わってるなあ……いいね!”って面白がってくれるようになり……それでレコード作れたらいいなって仲間うちで話してるうちに、自分たちも大好きだったレーベルの《Bar/None Records》から声をかけてもらってね。他にもダニエル・ジョンストンやハーフ・ジャパニーズを出してる《50 Skidillion Watts Records》だったり、なんだか知らないけど一気に色んなレーベルから興味を示されるようになって。それで“よし、これはスタジオに入ってレコーディングしなくちゃ!”っていう目標が定まったわけ。それまでスタジオでレコーディングした経験なんて一切ないのに。スタジオっていっても、まずどこにあるのかすらもわからないし、実際にその中でどういう作業が行われているかもまるで知らなかった。そりゃそうだよね、それまで素人がカセットテープで録音してたわけだから。それと同時にちゃんとしたバンドを集めなくちゃ!ってことで……ちゃんとしたバンドというか、今思うとバンドらしきものを作ろうってことで、とりあえず友達をかき集めて、みんなで一緒にスタジオに入ったんだ。そのときプロデューサーも付けてもらってね。そんな感じでスタジオに入ったんだけど、何て言うんだろう……自分でもそれでよかったんだか、どうだったんだのか……。みんなそれぞれに自分の意見を持ってるし、自分もまだ子供で右も左もわからない状態のまま作品を作ってたわけで……。だから、あの頃の作品を振り返ると、ああ子供だったなあ、頭の中がこんがらがってたんだなあって思う。でもね、すごく楽しかったんだ。
──その頃はどちらに住んでいたんですか?
J:もともと母親がニューヨーク出身で、僕もそう。で、僕が16歳のとき母がフロリダに移ることになって僕も一緒に行ったんだ。音楽活動のほうもフロリダに移ってからいろいろ動き出したみたいな感じで。フロリダにいるときにカセット録音を通じてさっき言った《Bar/None Records》や《50 Skidillion Watts Records》から声をかけてもらってっていう。ライヴもフロリダにいる頃から本格的に始めるようになって。
──Miss Americaという名前はクレームが来てしまったそうで。
J:そうそう(笑)。
──そこからChocolate USAになった。
J:うんうん、そう。
──どちらのユニット名にも“アメリカ”が入っていますね。
J:あー、そうだ、確かに確かに(笑)!
──母国アメリカの音楽でありカルチャーに強く向き合う姿勢みたいなものを作品からも感じるんですけど、実際にアメリカのカルチャーを自分がもう一度上書きしていくみたいな意識もあったりするんでしょうか。
J:はははは! ちなみに僕はここ何年かはほとんどアメリカに暮らしていないんだけど(笑)、ただ、アメリカのカルチャーってことに関してすごく感じるのは、自分の独自のものを作り上げる土壌が最初から設定として備わってるっていうかなあ……例えば僕はパリが好きで、パリに暮らしてることも多いんだけど、僕のフランス人の友達なんかを見てると、美しいものはすでにどこにでも十分溢れてるじゃないかっていう感覚がデフォルトとしてあるのをものすごく感じるんだよ。それこそ何百年も前から美しいものは目の前に存在してて、それが未来永劫脈々と続いていくもの、みたいな感覚というか。それ以上手を加える余地がない。逆にそれを窮屈に感じてる人もいるかもしれない。
その一方でアメリカは、まあ、どこもかしこも醜いわけで(笑)、そもそも何もない、歴史的な重みがない。しかもアメリカでは誰もが多かれ少なかれ抑圧された状態にある。その抑圧された状態から必然的に駆り立てられるようにして、自分から何かしらを作り出さなくちゃいけない、自ら声を上げなくちゃいけないっていう衝動に駆られる構造があるんじゃないかなあ……。アメリカでは色んなグループの人達が形や種類こそ違えども、それぞれに抑圧を受けているわけで。それがある種のマジックを触発するきっかけにもなってる。例えば、僕がニューヨークからフロリダに移った当時のニューヨークはものすごくクリエイティヴな場所で、アートだって盛り上がってたし、ものすごく充実してた。それがフロリダに来てみたら、そんな雰囲気は一切ない。それどころか学校でも少しでも変わってる子が見つけたらボコボコにしてやろうと狙ってる強面のキッズが幅を利かせてるみたいな雰囲気だったから。
でも、フロリダの変わり者の子達はものすごくクリエイティヴだったんだよ。それこそ当時の僕のニューヨークの友達なんかよりも数段クリエイティヴだった。クリエイティヴであることが必然だったから。自分の中のクリエイティヴィティだけが心の拠り所だったから。僕がアメリカのカルチャーに感じる気持ちもそれと同じで、予期せぬところからおかしな化学反応が起きる土壌が整っている……抑圧されてる状態の中から思いがけない奇跡が起こるというマジックが働いているようなね。
──例えばあなたとはタイプの違うアーティストですけどダニエル・ジョンストンがいますよね。先ほどもチラッと話に出ましたが。
J:うんうん。
──彼は小さい頃からアメリカのポップ・カルチャー……アメリカン・ヒーローみたいなものに対する憧れが強い人で、自分がアメリカ人であることと、アメリカを救ってくれる誰かに対する憧れっていうものをシュールに作品に反映させていた人ですよね。あなた自身はアメリカを救ってほしい、変えてほしい、というヒーローをアメリカに求めるところがあるのでしょうか。
J:うん、確かにダニエルはそうだね。そして確かに共通点はある。実はダニエルとは実際に個人的に繋がりがあって、16、17歳のときに出会ったのかな。それこその話にも出た《50 Skidillion Watts Records》の橋渡しで……レーベル側が僕の音楽に興味を持ってくれて、そこからダニエルも作品を出してたんで、レーベル繋がりで引き合わせてくれたんだよね。そこからSpacely Been Hurtっていうプロジェクトを始めて……まさに今のThe Orbiting Human Circusのようなポッドキャスト的な番組だったんだ。当時はまだ僕も若かったんだけど、その企画にダニエルが出演してくれたんだ。当時だからまだ電話ごしにやりとりしてたんだけど。設定としては僕とダニエルが囚人仲間で、刑務所から脱走して冒険の旅に出るという一大ストーリーでね(笑)。その頃からダニエルが大のコミック好きで、キャプテン・アメリカのような何かのヒーローものが大好きだって知ってた。それと当時のことで覚えてるのはコード・オルガンで……当時、アメリカ中のどのリサイクル・ショップにもコード・オルガンが埃をかぶったまま置かれてて(笑)、でも本当に美しい音の楽器なんだ。だから僕もダニエルもコード・オルガンを弾いてた。高価なキーボードには手を出せないけど、コード・オルガンなら身近で手に入ったからね(笑)。それこそ5ドルぐらいで入手できたよ。
それとこれはアメリカ以外の国の人達、とくに日本人やあるいはヨーロッパ人には理解しづらい感覚かもしれないけど、アメリカ人って全般的に帰属意識が希薄というか……。例えば日本人だったら日本に属している、フランス人だったらフランスに属しているという意識がある程度あるように感じるんだけど、アメリカにはそれがない。みんなあっちゃこっちゃに散らばりすぎちゃってるもんだから。しかも、人種やカルチャーも様々でそれぞれに違っている。だから、アメリカ人という国民性を統一するのはほぼ不可能というか、あまりにもお互いに関連性がないゆえに。結果一人一人がまったく違うバラバラの状態のままここまで来ちゃってるというか。でも、それがある意味、アメリカのユニークで面白いところでもある。ただ、カルチャーという点に関しては、アメリカ人全体としての国民カルチャーを代弁できる人は一人もいない。そりゃまあ、テレビや音楽や雑誌の中に出ている人達がアメリカのカルチャーのアイコン的存在であると言えなくもないけど、それだって全体の中のほんの一部だけを切り取ったものでしかないわけで。ただ、自分はどこにも属してないっていうのは、アメリカ人なら誰もが抱いてる感覚なんじゃないかな。
──ちなみにあなたの民族的ルーツは?
J:えーっと、犬で言うと雑種みたいな。ウクライナの血も入ってたり、ちょっとルーマニア人、ちょっとキューバ人みたいな。
──アイリッシュ系は?
J:アイリッシュ系の血は入ってないね。でも、アイルランドに暮らしてることも多い。すごく親しい友人がアイルランドの牧場の中にスタジオを持っていて、毎年訪れているんだ。でも、血筋的には本当にいろいろ。ドイツ系の血もあるかな。メインになると東ヨーロッパ系になるかも。
──先日の(2023年11月)東京でのミニ・ライヴでもクリスマス・ソングをシンギング・ソウで披露していましたし、クリスマス・ミュージックをアルバムとしてもリリースしています。キリスト教思想からの影響に対してはどの程度自覚をしているのでしょうか。
J:思想とはちょっと違うんだけど、クリスマスは僕の中ではこう、世界が色めきたつみたいな、まさにあの感覚そのもので……クリスマスの時期だけアメリカがまるで別世界になる、それにものすごくときめくんだよね。自分の親戚はユダヤ系が多かったし、僕自身ゲイでもあるから、クリスマス的な価値観とは本来相容れないはずなんだけど、それでも世界中が、人々が、みんながクリスマス時期だけは優しさや思いやりに包まれてる感じがして……だって、みんなが笑顔で浮足立っていて。それに子供の時、みんなクリスマス・ホリデーが楽しみであの時期ウキウキしてた。子供心ながらに、大人も子供も誰もがワクワクして生き生きと輝いているように見えたんだ。みんなの生き生きる喜びに湧き立つ感情が世界中に行き交ってるみたいで、それだけで子供心に胸をときめかせていたし……それとあの一体感というか、みんながギュッと一緒になって集うところなんかにしても……その背景に素敵なクリスマス・ソングが流れてるんだから、そんなのときめかずにはいられないよね(笑)。
実際、クリスマス・ソングを耳にするだけであの感情が蘇る……あの情景の中に自分が今まさに立っているようなところがある。それで、“あ、これが音楽とはそういうものなのか!”って発見したわけさ。あの時あの場所に一瞬にして連れて行ってくれる。それはクリスマス・ソングに限らず、すべての音楽について言えることで……ただ、ある特定の文化圏において、その歌に込められたまごころを通じて何千何万って人達の心を一瞬にしてあの時あの場所に集結させることができる。なんて素敵なことなんだろうって……一瞬にしてあの場所に連れて行ってくれるマジックだよね。それで自分のライヴでも、とくに自分の音楽について知らない人達のために“今日この場はこういう場所ですよ”って伝えるのにすごくわかりやすいし有効な手段として、クリスマスのあの頃の感覚を彷彿させるクリスマス・ソングを交えたりして。“みんなが一体となって同じ気持ちを分かち合うような、ここはそんな場ですよ”と。
──今、自らゲイであることを話してくれましたので、差し支えなければそのへんをもう少し深く訊いてみてもいいですか?
J:どうぞどうぞ。
──ゲイであることを自覚し始めたのはいつ頃ですか?
J:わりと早くから自覚してて。今だったら、昔に比べてわりとすぐに自覚しやすいと思うんだ。でも、当時は今よりも前例もないし風当たりも強いし、自分だって最初は認めたくないわけじゃないか……普通でありたい、みたいな。それでも徐々に時間をかけて、(日本語)ユックリ、何年も時間をかけて自分自身というものを理解して受け入れていった……というのが、僕の10代のわけで……。ただ、さっきのアメリカのカルチャーの話にも通じるけど、アメリカ人の感覚としては誰もが自分はアウトサイダーであるって感覚を抱えてて。それがずっと自分の意識の根底としてある。だから、そりゃもう、10代の頃の僕なんて、どの角度から見ても浮きまくってた。ただ、またさっきの話に戻るかもしれないけど、どこにも属してないからこそ、仲間が見つかることもある。自分はなんで人と違ってて浮いてしまうのか、理由はみんなそれぞれ違うかも知れないけど、まわりに溶け込めない点では同じで、その一点で繋がっていく。それが自分を表現したりクリエイティヴへと繋がっていくんじゃないかな。どこにも居場所がないってことは、そこにある種の自由があるわけで、僕自身はそれがあったおかげでクリエイティヴな道をひたすらまっすぐにここまで歩んでくることができた……今ので質問の答えになってるのかどうかわからないけど。
──ゲイというだけで今も理不尽に差別されることもあると思います。あなたはさらにアウトサイダー・アート的なクリエイターでもあります。社会の中で生きにくいと感じることが多くないですか。
J:クリエイティヴ云々に関しては、僕は子供の頃からそうだったんだよね。それこそ、音楽を始める以前にイマジネーションが友達みたいな……目的なんてもの一切なしにして。小さい頃からありとあらゆる想像をしてた……それが小説の形に発展したのが4年生のときで。とてもお恥ずかしい内容だけど(笑)、それでも300ページの大作でね。もともと両親ともにアートに理解がある人達だったからね。母親がモダン・ダンスの振付師で、父親がフラメンコ・ギター奏者だったから。だから小さい頃からアーティストに囲まれていたんだ。才能のある画家とか、今ではそういう言い方をすると問題あるのかもしれないけど、自称“ジプシー” の人達とかね。いわゆるロマの流れを受け継ぐミュージシャン達だよね。子供の頃からそういういわゆるアーティストというか、自由でクリエイティヴな人達に囲まれてたんだ。
しかもたくさんの愛に包まれて、そういう開かれた世界の中で育てられてきた。そうした愛情だとか優しさって外側だけじゃなくて、僕達一人一人の内側にも宿っているものだから……僕はそう思うんだけど、だから、どんなに自分が虐げられて苦しい状態にあろうとも、それでも、やっぱり内側から滲み出てしまわずにはおれないものなんだと思う。……自分の中にある善良な心が“おーい、こっちこっち、愛は優しさを探してるならこっちだよー、自分の内側にすでにあるもんだよ”って、折に触れて自分に教えてくれてるような気がするんだよ。自分自身の一部としてすでに備わってると同時に、自分の外側にも存在してる。それがあるからこそ、自分も地に足をつけて立っていける。自分の中にある愛情が自分のことをいつでも大切に見守ってくれてる、だから自分は大丈夫だって。暴力や絶望に打ちのめされそうになっても、なんとか自分の足で立っていけるように。だって、愛ってクリエイティヴィティそのものなわけじゃないか。愛は物を生み出す力であり、それこそがクリエイティヴィティの根源だと、僕は心からそう思うんだよね。だから、アートだの絵画だの演劇だのそうしたクリエイティヴな媒体に身近にアクセスできて触れて、それに夢中になりながら育ってきたようなもので。それこそ子供の頃に劇場のあの空間のそこかしこにキラキラとした愛が満ち満ちてるような……舞台に立つ側にも、観客側にも、あの匂いや空気や光にも愛が充満してるのを感じてた。そこで“あ、そうか、今ここで魔法が起きてるんだ”って……そこに自分も近づきたい、少しでも触れていたいってね。
──東ヨーロッパのクレツマーみたいな音楽は、ヨーロッパ系の血を引いていることから興味を持ったのでしょうか。
J:うん。もともと父親もそうだし、その周辺のミュージシャンがフラメンコの名手だったんだ。サビーカスとマリオ・エスクデーロ(いずれもフラメンコ・ギター奏者)なんかはその代表格。父がまだ若かった頃の友達なんだけど、僕の父親のことを随分と可愛がってくれたみたいだよ。マリオは元々僕の父のお師匠さんで、サビーカスとはよく一緒につるんでる友達みたいなノリで、そんな感じで長年ずっと親交が続いてたんだ。クレツマーじゃないけど、そういう影響はあると思う。……あ、そうそう(笑)、もう3人ともそこそこ中高年になってからの話だけど、3人とも大のボクシング・ファンで(笑)、ケーブル・テレビと契約しているのはうちの父親だけでね。僕もその頃にはもう子供じゃなかったけど、一時期、ローマン・ジプシーのフラメンコの名ギタリスト達が一斉に自宅に集結して、テレビに向かって大声で叫んでる光景が一時期毎週のように自宅で繰り返されててね(笑)。サビーカスなんて子供の頃の僕に本当によくしてくれてね。彼が家に来ると子供心にウキウキしてたのをを覚えてる。もう天使みたいな人なんだよ。しかも、ひとたび演奏を始めたら、それこそルイ・アームストロングスと同じようなスピリットを感じるんだよね。それなのに、見ちゃおられないっていう風なカツラをしてて(笑)、ザ・黒髪、真っ黒みたいな(笑)。ボクシング観戦中に興奮して立ち上がったときにそのカツラがちょっとズレるんだけど、その場にいる気づかない目を伏せるみたいな(笑)、見て見ぬふりをしてて。それで父親のほうを見ると、無言の目配せで“何も言うんじゃないぞ”って(笑)。
──あなた自身はバンジョーもやるしシンギング・ソウ/ミュージック・ソウ(ノコギリ)だったりムーグ・シンセサイザーを使いこなせたりとマルチ・プレイヤーです。しかも、どこかチャイルディッシュなところがある。
J:うんうん。その通り。
──子供でもわかるような、もしくは言語を理解できなくても共有できるような、ある種ドレスダウンさせたような表現を目指しているということでしょうか?
J:そう思う? 嬉しい!
──それはわりと意識的にやってることなんですか?
J:意識的というよりも、そっちのほうが素に近いっていう感じかなあ……父親が僕にギター教育を押しつけるのはいかがなものかってタイプだったんで。おそらくだけど、過去に自分のまわりのギタリスト達の子供が強制的にギターを練習させられてる姿を見て、これは子供にとってよくないと思ったらしく。でも、その思い込みが行き過ぎた結果、息子である僕にはギターについて何一つ教えてくれなかった(笑)。だから、子供の頃からギターの手ほどきを受けたとかいう記憶は一切なく、さっきも話した通り、子供の頃の自分にとっては空想の世界が友達で……イマジネーションの中で世界を作り上げて、それをリアルに実感するという……それが自分が世界と接点を持つための術であり、世界を愛するための術だったんだよ。そのイマジネーションを通して世界を楽しむという……その先に音楽というものがあったわけで、自分にとって音楽ってイマジネーションそのものなんだよね。技巧とか、そういうんじゃなくて、あー、何て表現したらいいんだろう、一番ピッタリくる言葉は“クラフト”なんだけど、音楽って、僕の中ではクラフトとか手作りの工作みたいなもので。そりゃ、その場にいる全員がハッと息をのむような名人技で魅せる方法もあるのかもしれないけど、僕は昔からどうもそっちのほうにはそそられなかったというか……そもそも自分にその資質もなかったのもあるのかもしれないけど。ただ、自分はほんとにそっちじゃなかったんだよなあ……なんかもう、フィーリングなんだよ、音楽って自分の中では昔からただフィーリングでしかないからね。だから、テクニックとかよりもフィーリングを形にしたいわけだよ。
ただ、それは音楽に限らず、物語を伝えることだったり文章あるいは映像を作るときなんかもまったく同じで……少なくとも僕が何かを作るときには、まず最初にフィーリングがあって、フィーリングってものを紡いで形あるものを作り上げている。だから、本当に君が今言ってくれたことに同感で、それは普遍的なものでなければならない。ただ、それが僕にとって真実であるならば、少なくとも何かしらの普遍性がそこに含まれているということだから……もちろん、世界中のみんなが満足するようなアートを作ることなんて誰にもできない。そんなの始めから不可能に決まってる。メガデスが好きな人もいればモーツァルトが好きな人もいるわけで(笑)。それでも、一番の前提の部分で誰でも入って来られるような開かれた状態にしておきたいんだよね。最初から誰も疎外しない、最初の前提からして誰もがウェルカムであるように。僕が一番大好きなアート、昔からそういうものだった気がするんだよね。僕が一番強く惹きつけられてたアートであり、あるいは自分自身が形にしたいと願ってきたアートの姿なんだよね。
──そうした考え方は、当時のジョージア州アセンズの《Elephant 6》シーンでは共通するものだったと思います。だからこそあなたの存在も受け入れられたのかもしれないですね。
J:そうだったんじゃないかと思う。僕達みんながアートや音楽がもたらす力に絶大な信頼感を抱いていたからね。それとさっきのアメリカの話でもあったけど、僕達みんなが変わり者のアウトサイダーだったから。しかも、みんなが違ってた。僕はニューヨーク出身なら、他のみんなはだいたいルイジアナの出身で、ルイジアナといってもそれこそニューオリンズみたいなみんなが憧れるような都会ではなく、いわゆる保守的な地方の出身だよね。少しでも変わってるところがある子はそれだけで生きづらい環境の中で育ってきたわけだよ。とはいえ《Elephant 6》にはニューヨーク出身のメンバーも多くて、というか僕がニューヨークからおびきよせたんだけど、それこそエリック・ハリスやピーター・アーチック(いずれもオリヴィア・トレマー・コントロール他)なんかかね。うん、だから、ほんとにね……本当の意味で人々を動かすようなアートを作りたいと願っていたし、 みんなが音楽でありアートの持つ力をただ真っ直ぐに、愚直に信じてた……そうすれば世界中が良い方向に開けていくって。それとお互い手助けし合ってた。みんなまだ若くてアメリカのあちこちから集まってきて安アパートに暮らして、みんなでお互いに支え合いサポートして、本当に肩を寄せ合うようにして生きていたんだよ。お互いを励まし合いながらね。 それから地元のコミュニティが僕達のアートに力を貸してくれた。やりたいことがあっても、どうやって実現したらいいのかわからないときに手を貸してくれたり、あるいは自分のアイディアに他の人が色んな知恵なり力なり独自のクリエイティヴィティをプラスすることで自分一人では絶対実現できなかった大きなものを形にしてくれたりね。
──ただ、その中でもジュリアンは明らかに独特の存在だったというか、異質な存在だったと思うんですよ。
J:ハハハハハ、たぶんそうだね。アセンズという場所自体がエクセントリックな人達がたくさんいたところだったから。アーティストとかでなく、ただ普通に一般人でも変わり者の愛すべきキャラクターがたくさんいて、みんながその人達のことを話題にしてたし、インスピレーションをもらってた。だから当時のアセンズは変てこりんな人種にとっては生きやすい場所だったんだよ。物価も他の都市に比べるとそんなに高くなかったし。そもそも自分達のまわり中、みんなお金がなかったからね。それでも、お金がなくても日々面白がって暮らしていくのには十分だった。だから、うーん……僕も相当な変わり者だったのかなあとは思うけど、みんなだって僕に負けないくらい変わり者だったよ(笑)。いろんな楽器をやってる人も多かったし……楽器はだってほら、好きこそものの上手なれ的な、好きだから結果そうなってるってだけで。
──オリヴィア・トレマー・コントロール、ニュートラル・ミルク・ホテル、オヴ・モントリオール、エルフ・パワー……と、とりわけあなたはさまざまなグループに関わっていました。
J:いや、単にみんなでお互いに力を貸し合っていただけで僕だけが何も色んな所に顔を出していたわけじゃなかったとは思うよ。ただ、それは普通に当たり前だったからというか。誰もがそうやって力を貸し合っていたんだ。そこがまた《Elephant 6》っていうシーンの美しさであり魅力的なところでもあって、誰もが自分だけのユニークなものを持っていて、みんなで力を寄せ合って貢献することができた。人生に起きる素敵な瞬間って往々にしてそういうケミストリーから生まれてくるものだったりしない? この要素とこの要素とこの要素を足してみたら、目の前に美しいものが出現して……その扉を全方向に開けてて、しかもそこに身軽にアクセスできる状態にあったんだよね。だから、スコット・シュピレーン(ニュートラル・ミルク・ホテル他)だったり、ロビー・クキアロ(オービティング・ヒューマン・サーカス他)だったりが、僕のプロジェクトを手伝ってくれたり、ケヴィン・バーンズ(オヴ・モントリオール)なんかが一時期、僕のThe Music Tapesでベースを弾いてくれてたりね。そういう雑多なものの寄せ集めから起こるケミストリーが確実にアートにおいて働くんだよ。
──互いに助け合うコミュニティ的な雰囲気があった。こうした雰囲気があの時代のアセンズ界隈に集中していたのはなぜだったと思いますか。あなたもまさにその当事者として、なぜ《Elephant 6》界隈だけがみんなでお互いに力を貸し合う状況が実現できていたのだと振り返りますか。
J:良い質問だなあ、うわー、そうだよなあ……さっきも言ったかもしれないけど、やっぱり、みんな純粋に信じてたんだよね。みんなで知恵を振り絞って力を出し合うことであり、アートという表現であり、そこから生まれる力を信じてた……みんな本当に若かったし、何かしら自分が信じられるものを追い求めてた。僕達の一人一人が子供時代から思春期にかけて何度も音楽に救われてきた経験をしてる。それこそレコードだったり、映画だったり、色んな形でアートによって何度となく救われてきた……さっきの話にもあったように、それこそみんなそれぞれ辛い状況に置かれているときなんかに。そういうときにアートによって、目の前の世界がまるで違って見えるようなマジックに遭遇して、何度も救われてきたんだよね。その中に愛であり希望を見い出してたわけだよ。アートを通して愛に触れることができたわけさ。僕達はそれがいかに力強くて尊いものであるか実感してた。だからこそ、みんなで力を合わせてその力を波及させていこうってことだったんだよね……それをただひたすら愚直に信じて実践してた……あの頃の僕達みんな、お金はなかったけど、そんなの全然気にならなかった。電気や水道や電話が止められるなんてことも日常茶飯事で。みんながみんなそうだから、“へー、そうなんだ?”ぐらいの感覚(笑)。実際それで全然普通にやっていけたんだから。みんなステージに立ちながらレストランで皿洗いをしたりとか、僕もApril Chapmanという素晴らしい女性の家でガーデニングの仕事をさせてもらったりしてね。僕達と同じような若者がアメリカ中のあちこちにいたから……そのみんながこぞって紆余曲折を経てあの時代あの場所に寄り集まってきてたという……それが集結して一つになってみたいな力が……それは当事者からしても“うわー‼”って魅了されるような、自分の目の前で今、何か面白いことが起きてるぞってことは実感していたし。ただ、それがどれほど特別なものであるのか、あの頃の自分達だってまるで理解できてなかったよね。
──昨今、《Pitchfork》でも「《Elephant 6》に今こそ注目」みたいな記事が掲載されています。当事者として今またあのシーンが再注目されていることについてどう受け止めていますか?
J:あー、それは本当にもう、素敵なことだなあって思うんだけど……今でもあの時代に興味を持って興味を持ってくれてる人達がいることについては……僕は《Pitchfork》を読まないからなあ(笑)。ただ、今この時代、この瞬間においてクリエイティヴであることが、真にクリエイティヴなんじゃないかと……それをあの時代に体現していたのが当時の《Elephant 6》だったんじゃないかとは思う。そして、あの頃、あの時代、僕らはアートがもたらす力を純粋に信じてた。そして、それを実践してた。ただひたすら純粋な思いで……それは今日、今この瞬間にクリエイティヴな存在であれ! ってことなわけさ……要するに、最終的な着地点としては。だから、今のこの時代に再びあのシーンに興味を持ってくれる人がいるっていうのはすごく光栄だし嬉しいことだなあとは思うんだけど、それは何もあの時代だけに限ったことではないってことだよ。
自分があの頃について思うのは《Elephant 6》云々よりも、ただ大好きな仲間に、たくさんの素敵な(日本語で)トモダチに囲まれたなあっていう、本当にただそれだけなんだ。シーンとか云々よりも、みんなで何かを作り上げようと、それをどうにか発信しようとして、その熱を人々に波及させようっていう、その熱い思いだけで……仮に自分達の表現が伝わらなくても、その熱が誰かに伝染して、その人が自分なりの何かもっと自分なりの表現に繋いでくれたらいいっていうね。その精神性こそが《Elephant 6》のクリエイションの核にあったと思うよ。
──そして、そのスピリットが現在のあなたのオービティング・ヒューマン・サーカスに継承されているわけですね。もともと架空のラジオ・ドラマというか、架空のポッドキャスト、演劇、インスタレーション、ミュージカルなど色んなものを複合した正直あんまり実体の掴めないユニットとして誕生したという印象のこのオービティング・ヒューマン・サーカス、どのような経緯でスタートしたのでしょうか?
J:あ、そうそう、僕はもともと物語を作るのが好きで、さっきの話にもあったかもしれないけど、それこそ音楽を作る以前にお話を作ることをしていて。そしたら10代の頃フロリダのローカルFM局に《WRMF》っていうのがあってね。ニューヨークにおける《WFMU》みたいな存在っていったらわかりやすいかな。地域で一番イケてるとされてたラジオ局的存在で。とにかくフロリダ時代に地元のDJが僕のやってることを面白がってくれて“何でもいいから10分間の番組を作ってよ”って声をかけてくれて、スタジオも使わせてくれて。そこにテープだの編集用の機材だのオーディオ効果音のライブラリもあってね。それでラジオ・シアター的なノリで番組用のストーリーを作り始めたんだ。母親が1930年代のラジオ・シアターの音源として使われていたレコード・コレクションを持っていたんでそれもフル活用してね。それこそ昔オーソン・ウェルズがやっていたラジオ・シアターの音源なんかあまりにも素晴らしくてね。ああいう感じの番組を自分でも作りたいなあって、それで『Spacely Been Hurt』というタイトルのラジオ番組を作ったんだ。
それにさっきも言ったようにダニエル(・ジョンストン)が出演してくれたんだけど、そのときの経験がものすごく楽しかったんだよね。それと《Elephant 6》時代に『The 2nd Imaginary Symphony for Cloudmaking』っていう、これまたストーリー仕立てのアルバムを作っていたこともあって。かなり大掛かりなストーリーでオーケストラ風になっていてね。レーベルの《Merge》もすごく気に入ってくれて乗り気になってくれたんだ。それでも通常のアルバムではないから扱いに困っていてね。何度もリリース計画を立てたんだけど、その間に僕が曲を書いてアルバムを完成させちゃったものだから、代わりにそっちがリリースされる運びになって(笑)。ただ、僕自身はミュージック・コンクレートだのコンセプトやストーリーを元にした作品にずっと興味があって、というか、僕が作ってきた作品は昔からずっとそういう要素があったと思うんだけど、もう一歩先に踏み込んでみたい気持ちがずっとあってね。そんなときに《NPR Tiny Desk Concert》へのお誘いがあったんだ。ちょうどその頃クリスマス・キャロル・ツアーの真っ最中で、各都市の毎晩4、5軒まわってミニ・コンサートを行うという企画でね。ワシントンD.Cにもツアー先に含まれてたんだけど、NPRのオフィスもちょうどワシントンにあってね。それで最初にNPRの収録に参加して終了と同時に今度は各家をまわるっていう強行スケジュールを敢行したんだ(笑)。ワシントン6公演で最初に巡った家がNPRのオフィスで、そこから朝の4時まで家と家を渡り歩いてパフォーマンスしてね。そしたら、その一軒にNPRのえーっと、名前なんだっけ……そう、Bob Boilenだ。Bobが収録の後にクリスマス・キャロル・コンサートのほうにも来てくれて。それで『NPRのラジオ用に案があったら連絡してよ』ってライヴ前に言われたんだよ。去り際にも同じセリフを言われたもんだから、“これは社交辞令じゃなくて、本気なんだ”って思ってさ、その場では何も思い浮かんでないとしても、NPRにラジオ案を出したいに決まってるじゃないか(笑)。あんなに素敵なプログラムなんだから。それで、このオービティング・ヒューマン・サーカスのポッドキャストの案を思いついたんだ。
それで最初のエピソードの一部を作って試しにBobの元に送って、そこから始まっていったんだけど……BobがNPRの《All Songs Considered》の番組用に僕に5分だか10分くれて……それでも《All Songs Considered》が30分で、オービティング・ヒューマン・サーカスのエピソードも30分だったか尺に収まりきれなくてどうしよう? っていう、まさに《Merge》のときと同じようなパターンになってしまった(笑)。すると、そのうちアメリカでポッドキャストが流行り出して、いつのまにかものすごいことになっていて。中でも一気に伸びたのが『The Welcome to Night Vale』っていうポッドキャスト形式のラジオ番組だったんだ。すごく変わってるんだけど世界中で大人気で、何百万という視聴者数を誇っていてね。ポッドキャスト小説ブームの火付け役みたいな存在っていうのかな。そしたらオービティング・ヒューマン・サーカス側の一人がニューヨーク演劇シーン繋がりで例の《Night Vale》の制作サイドの人と繋がっていて、そこから僕達の制作したポッドキャストがその人の元に渡ったんだ。
ちょうどその頃彼らはレコード・レーベルみたいな形でポッド・キャスト版のレーベルを起ち上げようとしてた時期だった。で、お茶しながら話しません? ってことで出向いていったら、“うちのポッドキャストで作品をリリースさせてくれませんか?”という話でね。《Night Vale》以外の初のリリースということで、僕にしてみればまさに渡りに舟で。すでにグローバル・マーケットの視聴者を抱えていて、しかもその大半が若い子達でね。《Elephant 6》のファンも時代が変わってもどうも若い子達が多くて(笑)、何年も何年も循環式で入れ替わるように若い世代のファンが入ってくるシステムになっているらしく(笑)。《Night Vale》の視聴者はまさにそのゾーンで。不思議なことに僕の何十年かにおけりキャリアにおいて、僕がパフォーマンスを重宝してくれるお客さんのメイン層はいつの時代にも20歳が平均値らしいんだよ(笑)、10年単位で時代が移り変わっていってる中で。僕は着々と年齢を重ねてるはずなのに、お客さんの層はいつの時代もなぜか一定で20歳前後なんだ(笑)。オタクだったり引っ込み思案だったりクィアーだったり……そう、一言で言えばアウトサイダーだよね、まわりに溶け込めない、浮いてる子達。そんな人達が世界中に何千万人もいるわけで、僕のメインのターゲット層としてはどストライクなわけだよ。その後、NPRやニューヨークの《WNYC》が協賛の形で関わってくれる流れになり……当然のことながら、予算的にそちらのほうが潤沢なので(笑)。なんだかんだ言って、すごく大掛かりなプロジェクトで、たくさんの人が関わっているし、結果的にスタッフ総勢50名ぐらいになるのかな。今ではインディペンデントのポッドキャスト・レーベルでの番組を作るのよりも、はるかに大規模な予算をかけたプロジェクトになってる。
──ハッピー・サプライズですね。ジュリアンを中心にアウトサイダーの輪がどんどんと広がっていっている。
J:ね。起こるべくしてというか、オービティング・ヒューマン・サーカスが開けた経緯に関しては、ある意味、天からの導きとか贈り物くらいに思ってるよ、本当に。すごく感謝してるというか、僕にとってはまさに理想的なことだらけで。しかも、今回のニュー・アルバムの一部なんて、これ、東京でレコーディングしたんだ。しかも、ここ下北沢で!
──なぜ下北沢だったんですか?
J:だってその頃こっちに住んでたから(笑)。厳密に言うと、(日本語で)下北沢と高円寺を中心に。僕とボーイフレンドと一緒に毎年東京を訪問しててね。それもあるし、日本とジャズとの関係性が好きっていうかなあ……日本というか、もしかして東京だけのことなのかもしれないけど、日本とジャズってすごく特別な関係にあると思ってて。実際、日本に滞在している間に、普通に町中でジャズを耳にする機会が多いなって思う。ジャズ喫茶のカルチャーなんてね、下北沢なんてまさにその聖地だよ。大好きなジャズ喫茶《マサコ》もあるし。
とはいえ、僕はこんなに何度も日本に来てるのに、お恥ずかしながら東京以外ほとんど知らなくて(笑)。でもね、本当にこっちに来て日本とジャズとの関係性に感動したっていうかね。日本に来て、僕とジャズとの関係性において新たな転機が訪れたというか。僕の中でのジャズ界の2大ヒーローはサン・ラ・アーケストラとセロニアス・モンクなんだけど、どちらもある意味で突き抜けちゃってる人なわけじゃないか、いい意味で(笑)。でもそれとは違う親しみやすい、人々の身近な生活の中に溶け込んでる存在としてのジャズを認識するようになったっていうかな、“ああ、こういう音楽を僕もやっていけたらなあ、こういう形で人々の心に働きかることができたらいいなあ”って思うようになり。だから精神的な面でジャズと特別なゆかりを持つ日本の地で、このアルバムの完成作業をすることはすごく理に適ってるように思えたんだよね。それ以前に面白そう!っていう好奇心のほうが先立って、それで下北沢で録音したんだ。
元にある音源自体はニューヨークのブルックリンにある、それこそ大きなスタジオで録音してるもので。それこそ今回の音の9割方がたった1日で、しかもほぼライヴ録りでレコーディングしてるんだ。限られた条件下でのパフォーマンスであり録音で。僕も歌いながらシンギング・ソウを弾くのが同時に楽々こなせるわけじゃないから(笑)、そこは後でオーヴァーダブでシンギング・ソウのパートを被せたりしてね。だから、この作品の中で僕が歌っている場面ではシンギング・ソウは弾いてないことになる(笑)。オーケストレーションはまた別録りでね。
──もうあなたは日本に住むべきですね。
J:ぜひともそうしたいところだけど、どうやって実現したらいいのか……ヴィザの問題さえクリアになれば。東京は一番好きな町だしね。パリは(日本語で)ニバンかな(笑)。ニューヨークはね……世界中どこと比べても今はニューヨークがダントツで物価が高い。僕にはちょっと生活コスト的にもちょっと厳しいかな。そうまでしてニューヨークに住まなくちゃならない価値を自分は見い出してないというか。僕はもともとの実家がニューヨークだったから、そこまで特別なものを感じないというか、むしろ当たり前のものとしての感覚があるんで。
──ちなみに今はどこにお住まいなんですか?
J:今はどこにも定住してない。いわゆるノマドというやつ。春に大所帯のジャズのグループでアメリカを廻る予定で、ニューヨーク、ニューオリンズといって、それからポルトガル、スペイン、あとチェンマイ。あと、3月に日本でもライヴをやる予定。で、アメリカ・ツアーがあり、スカンジナビアをノルウェー、スウェーデンとまわって、ついでにヨーロッパもまわって。
──あなたは1972年生まれ……今、51歳です。そのくらいの年齢になると一ヵ所に落ち着くことを望む人が多いと思います。あなたは帰りたい場所を持つことに興味はないですか。
J:いや、今のノマド暮らしのほうが自分には気楽かな。これは生まれ持った性分みたいなものかもしれない。いつか叶えたい夢としては、世界のあちこちの場所に帰れる場所を持っていたい。2拠点、3拠点に自分の故郷を持つみたいな……とはいえ、僕も大金持ちではないんでね、果たして実現するのかどうかだね(笑)。
<了>
Text By Shino Okamura
Interpretation By Ayako Takezawa
Orbiting Human Circus
『Quartet Plus Two』
LABEL : Merge / Big Nothing
RELEASE DATE : 2023.11.22
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【Orbiting Human Circus JAPAN TOUR 2024】
-featuring THE MUSIC TAPES with JULIAN KOSTER (Elephant 6, Neutral Milk Hotel), and ROBBIE CUCCHIARO (Nana Grizol) –
福岡公演 2024.04.06(土)
京都公演 2024.04.07(日)
東京公演 2024.04.13(土)
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