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Meaningful Stone、キャリア総括インタヴュー前編
「石ひとつにも意味がある」
社会への眼差し、フォーク・ミュージシャンとしての顔

22 March 2025 | By Daichi Yamamoto

「石ひとつにも意味がある」。Meaningful Stone(韓国ではキム・トゥットル)というアーティスト名にはこんな意味が込められている。その音楽性からオルタナ、ドリーム・ポップ、シューゲイズなどいろんなジャンル名がタグ付けされる彼女だが、彼女の根幹にあるのは社会を鋭い眼差しで見つめ、その中に存在する自らの内面を理解しようとする……そんなフォーク・ミュージシャンとしての顔だ。

1996年生まれのMeaningful Stoneは、2017年にシングル「꿈속의 카메라(夢の中のカメラ)」でデビューし、2020年のファースト・アルバム『A Call from My Dream』で韓国大衆音楽賞の今年の新人賞を受賞。一躍、韓国インディ・シーンを代表するシンガー・ソングライターとなった。その後も2021年にはEP『Cobalt』をリリース、昨年末には『Angel Interview』をリリースし、後者は韓国大衆音楽賞のモダンロック・アルバム部門にノミネート、近年は東南アジアやオーストラリアでもライブを行うなど、充実の活動を送っている。この度、彼女の二作のアルバムの日本盤CDがそれぞれ2025年3月にリリースされることとなり、それに際して筆者はそれぞれの作品に至るまでの時期に関してのインタヴューを敢行した。本記事はその前編に当たる。

『A Call from My Dream』の頃までのMeaningful Stoneというと、聴き手の心を治癒するような柔らかい歌声やDIY感が前面にあふれたMVなどからくるピュアで、可愛らしいイメージも強かった。それは夢で聞いた話を歌にしたというアルバムのコンセプト、プロデューサーであるSilica Gelのキム・チュンチュとともに作り上げたドリーミーなサウンドにもよるところもあっただろう。だが、歌詞のライン一つひとつを丁寧に読んでいくと、そんな幻想からはハッと目が覚めるはずだ。例えば、好きな女の子へ片思いする男友達への忠告が詰まったローファイなシンセポップ「Ah,」では、「ほら、だから言ったじゃん」とカジュアルに話を始めながらも、「ミニスカートを履いたのは 君のためじゃないし 家まで送ってあげたのも 君のためじゃない」と都合のいい支配的な男の心をグサっと刺し、「愛は勝ち取るものよ でも所有はできないからね つまらないファンタジーの世界から出てきなよ」と核心を突く。また「ピーポーピーポー」というコーラスがキャッチーな「Beep-Boop, Beep-Boop」は「死」という重いテーマを扱う、ダイレクト且つ、エモーショナルな曲だ。こちらは歌詞を引用しよう。

「自分がいつ死ぬか分からない
歩いているとき 上からクレーンが落ちてきて 死んだとしても
あの夜 この夜 彷徨って自分が消えたとしても
今更私を探そうと 電話しないで」

「みんな 私の話なんてもう聞いていない 騒がしいニュースだけが真実じゃない」

「自分がいつ死ぬか分からないけど/私は誰かの犠牲と代わるものじゃない
自分がいつ死ぬか分からないけど/私は誰かの涙と代わるものじゃない
自分がいつ死ぬか分からないけど/私は誰かのお金と代わるものじゃない
自分がいつ死ぬか分からないけど/私は誰かの命と代わるものじゃない」

切実な言葉を使いながら、資本主義社会の大都市で生きる自らの命の尊厳を歌うこの曲は、大都会がイメージできる描写や歌の力強さも相まって、彼女と同じように何かを信じ必死に生きる若者たちが共感できる連帯の歌ともなった。Meaningful Stoneの歌はこうして社会と自らの内面を真摯に且つ鋭く見つめ、それを通して何者かになろうという人たちに寄り添っている。石ひとつ、つまり何者でもないように思える人の命にも意味がある、彼女はそんなことを歌を通して伝え続けているミュージシャンだ。

本インタヴューでは、『A Call from My Dream』についてと、このアルバムに通底する彼女の社会的な視線について聞いてみた。近日中には後編のインタヴュー記事も掲載される予定なので、期待して待っていてほしい。
(インタヴュー・文/山本大地)

『A Call from My Dream』アートワーク

Interview with Meaningful Stone

──幼い頃から音楽が身近な環境で育ったようですが、具体的にはどんな音楽を聴いていたのでしょうか?

Meaningful Stone(以下、MS):お父さんがサヌリムドゥルグックァキム・ヒョンシクなどの音楽を流していました。韓国の音楽が多かったです。それらを聴いて私もこういう音楽をやろうと考えていたわけではないですが、お父さんがいろんな音楽を流していたので、音楽が日常になっていました。

──小学生の時には童謡大会に出たそうですね。

MS:当時『K-POPスター』『スーパースターK』(どちらもオーディション番組)のようなものがあったら出たかったかもしれないですが、私にとって歌を歌える舞台が童謡大会くらいしかなかったので(笑)。小学校6年の時には童謡大会でアヴリル・ラヴィーンを歌って銅賞を取りました。

──その他にも学生の時には、ギターや伝統楽器のカヤクムを弾いたり、チェロを習ってクラシック音楽をやるようになったり、色々なジャンルを辿っているのが興味深いです。どのような経緯でシンガー・ソングライターになったんでしょうか?

MS:中学3年生の時に自作曲を作って友達に聞かせたら、友達が「すごくいいじゃん。オンラインにアップロードしてみなよ」と言ってくれて、「やってみよう」と思うようになりました。当時私は音楽治療師*という職業に就きたかったんです。それでチェロも習いました。チェロの特定の音、周波数が人を治癒できると思ったんです。そういうことを研究するためにドイツに行こうとも思って。ただ、その時クラシック音楽をやりながら「これは私と合わないな」とも感じていて。チェロを始めたのが遅かったので、音大に行くのは難しいと思ったし、入試では不正が多いことを知ったんです。それにクラシックって当時の作曲家がどんな意図でそういう曲を作ったのか把握したりして、数百年前に亡くなった人の音楽を同じように再現するわけじゃないですか。私は私のストーリーを音楽にしたかったのに、なぜ自分を抑えなければいけないんだと思うようになって、反抗的にシンガー・ソングライターになりたい気持ちが強くなっていきました。自分は音楽治療師か、楽器の演奏が上手な人になりたいと思い込んでいたんですが、そこで私は音楽で自分のストーリーを伝えたいことに気づいたんです。

あと、もう一つきっかけがあって。高校1年の時に私はsunoojungwa(ソヌジョンア)が好きで、彼女の所属していたレーベル《MAGIC STRAWBERRY SOUND》に「インターンをしたい」と手紙を書いたんです。そのインターンは実現して、終わった後にレーベルから別の所属アーティスト、Yozoh(ヨジョ)のCDをプレゼントでもらって聴いたんですが、彼女のギターはチューニングが合っていないことに驚かされました。私はチェロをやっていて、440Hzという周波数に強迫観念を持っていたので、音がズレているというのがストレスだったのですが、Yozohの音楽を聴いて、「これだ!音楽ってこうやって解き放たれることで、感動が得られるんだ!私がそれまで習っていたことは間違いだったんだ」と思うようになったんです。同時に「チェロを辞めなきゃ」という考えも強くなりました。それから韓国のインディ音楽をたくさん聴くようになって、シンガー・ソングライターを夢見るようになりました。

*音楽治療師:音楽を使って人の身体、精神を治療する職業。うつ、アルツハイマーなど多様な症状を改善させられるとされており、治療師は実際にピアノ、韓国の伝統楽器などを即興演奏したりする。

──あなたの歌には社会的な視線も込められていると思います。幼い頃のどのような体験や環境が関係していると思いますか?

MS:私は中学生の時に代案学校*という特別な形式の学校に転校したんです。もともと特別な教育の方式に興味があった母が、自然の中で学べて、試験もない学校だと教えてくれて。一寸の迷いもなく転校を決めました。自ら考えることができる素晴らしい環境で、代案学校に行ったことは私の人生で下した最も大切な選択の一つだと思っています。

*代案学校:従来の学校教育の問題点を補完しようと作られた、実習・体験学習などをメインにするなど、公教育とは異なる独自のカリキュラム、運営方針を持つ学校の形態。

──代案学校が一般の学校とどう違うのか、少し詳しく教えていただけますか?

MS:私が通った学校はヴァルドルフ教育(日本では「シュタイナー教育」とも)という、哲学者ルドルフ・シュタイナーが提唱した教育理念が基になっている学校でした。他にもガンジーの哲学を基に作られているガンジー学校など、代案学校は多様です。私が通った学校は国から認可されていない、小さな田舎の実験的な学校でした。1年生から13年生まで、小学生の時は古代史、つまり人間の始まりの時代から、人間の発達過程に合わせて学ぶんです。ギリシャ神話、ローマ神話から始まり、韓国の神話も学びます。中学生の時にはルネサンスの時期、韓国の近現代史についても学びました。その時代に合わせて、数学、化学、音楽、美術、体育を一気に学びました。カリキュラム自体、教科書がなくて、学問を本当に学問らしく学べるような、そんな学校でした。テストも成績もなかったし、本当に自分たちが自ら勉強する雰囲気だったので、いつもすごく楽しかったです。学校は私が好きなこと探し出せるよう、常にサポートしてくれました。韓国の普通の大学生は20歳になっても自分が何を好きなのかわからない人が多いと思うし、好きで選んだ学問を専攻していないことも多いと思いますが、私は中学生、高校生の時そんな過ごし方をしたので、むしろ大学では友達と付き合うのが難しかったんです。それで大学を休学して家で音楽を作り、ホンデに遊びに行ったりしていました。

親は勇気があったと思います。代案学校に行くと、一般的な大学入試のための勉強はできないし、周囲からは良い目では見られませんでした。転校する前、中学校の先生から「お前、あそこに行ったら人生失敗するぞ」と言われることもありました。でもいざ行ってみると私は幸せで。思春期に自ら考えることのできる時間が多かったですし、詩もたくさん書いて、その時に書いたことが『A Call from My Dream』になっています。当時一人で過ごした時間、そこで学んだことを、私が自分の中でうまく昇華することで、20歳になった時に自分が世の中に伝えたいことを歌えるようになったんだと思います。

──代案学校で経験したことの中で、特別なものがあるとすれば何でしょう?

MS:労働のことや社会問題、社会運動について教えてくれる授業があって興味を持つようになり、環境保護のための青少年協同組合を作ったことです。韓国で青少年が作った初めての協同組合でした。当時は「私は20歳になったら必ず社会運動家になるんだ」と思っていましたし、大学でも自然と社会科学を専攻して。私が何を変えればいいのか、今何が問題なのか、そういうことに子どものころからずっと触れていたので、20歳になっても、ただお酒を飲んで遊んでいるだけでなく、私が音楽で世界をどう変えるかということにフォーカスを当てていました。当時、朴槿恵(パク・クネ)大統領の退陣を求める集会がちょうど大きくなっているときで、その直前にはセウォル号沈没事故があって、友人とたくさんデモに行っていました。でも、その後2016年に休学をしてからは社会運動が自分には合っていないように感じ始めました。

Meaningful Stoneがデビュー前にYouTubeにアップロードしていた「風へ」という曲。朴槿恵大統領の退陣を求める「ろうそくデモ」の模様を収めたMVと共に「風よ あなたが強く吹いても 私の心の小さい火は消せないよ だからあなたも私と一緒に手を繋いで暖かい春の国へ歩いて行こう」と歌っている。

──それはなぜでしょうか?

MS:私は哲学が好きで、人間について探究することも好きですが、社会を知るにつれて、人間一人ひとりのことがよく見えるようになったんです。昔は木がたくさん集まって森になった姿に興味を持っていましたが、時間が経つに連れてそこにある木一つひとつが持っている特性により興味を持つようになりました。人々や世の中ではなく、私はどんな人なのか、なぜ人間はこうなのか、そういうことを考えるようになって。瞑想や仏教哲学などに興味が湧くようになったんです。

──昔あなたはブログで「フェミニズムは自分の内面について知ることだ」と書いていたことを思い出しました。社会について勉強することで、より自分の内面について考えたり、興味を持つようになったということですね。

MS:すべての学びは自分の内面への好奇心に帰着すると思うんです。社会でなぜこういうことが起こるのかということを学んでいると、私のマイノリティ性はどんどん細分化されていって、私という人間が分子のように小さく感じるようになる。私は韓国で生まれた20代の女性で、だからこういう人間で、こういう性格を持っていて、とか。でも、そうしていくうちに、そういう外側の要素によって作られた自分と、私の魂や本質のような、私が感じる自分の独自性とが衝突するような感覚があったんです。

それに社会運動をしていると、怒りのような、直接的で、消耗的な感情が湧くことって多いと思うんです。世の中が変わる速度も遅いし、知れば知るほど痛みを抱えている人が多いから。それに息苦しさを感じてしまうこともありました。

音楽は世界を直接的に変えたり、誰かにご飯を食べさせてあげられるような行為ではないけれど、私らしさを失うことなく、人々の気持ちを変えられて、そうすることで、その人たちにより良い行動を起こさせることができるんじゃないか、世の中を肯定的に変えられるんじゃないかと思うようになりました。音楽で皆さんが世界をより美しく見れるようになるような、良い影響を与えられたらいいと思っています。

──『A Call from My Dream』を作った時には既にそういったことに気がついていたのでしょうか?

MS:いろいろと混じっています。5年から10年くらい、私の考えが行ったり来たりしていた時期に作った曲たちです。

──収録曲には、実際に2000年代、2010年代に韓国で起きていたことも大きく影響していると思います。曲を書いた当時と比べて社会はどう変化していると思いますか?

MS:最近感じることですが、私が20歳だった2015年頃と比べて人々は大きく変化したと思います。私と同世代で、同じ時期に20代を過ごした人たちって、お父さんとお母さんの時代が築き上げた経済成長のようなものを今でも神話として持っていながら、そのようなものを享受させてもらえない、そういう意味でどこか無気力になってしまうところがあると思うんです。私たちが変えられることは何もなくて、私たちはただTikTokやゲームをしながら、ドーパミンだけ満たさなきゃいけない世代、みたいな。でも一方で私たちは2017年に大統領を辞めさせたし、今もまた尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領のことで私たち若い世代、特にたくさんの女性たちが外に出て世界を変えようとしている(2025年1月30日に取材)。そういう肯定的な変化も起こっていると思っています。私も自分が世界を変えたとは言えないですが、その一員ではあったんじゃないか、力を与えていたのではないかと思います。

──「Beep-Boop, Beep-Boop」はMV(2018年版)の概要欄で「貧しいソウルに住んでいると、死について考えるということはすごく容易い事です。私もいつか虚しく生を終えるでしょう。だけど、その前に何かを必ず残したくて作った曲です」と書いていますよね。どんな思いでこの曲を書いたのか教えてください。

MS:20代になれば、華やかですごく楽しくて、何でも思ったようにできるようになると思っていたのですが、いざソウルに上京して、アルバイトをしながら一人暮らしをしてみると、そんなロマンの背後にある暗い部分があまりに多いことに気づいたんです。最低時給で暮らしている人も多い。日本もそうだと思いますが、どれだけ一生懸命に生きても、家を持つことは難しく、若い人たちは貧しく暮らすしかない。貧富格差の構造があることに驚いたし、無力感も感じました。

当時、セウォル号沈没事故も私にとって大きかったですし、歌詞にある「道を歩いていてタワークレーンに轢かれても」という言葉は、私が住んでいた街でタワークレーンの事故で死傷者が出たことからきています。実際に当時は周りを見回すと、そこら中にタワークレーンがあって、いつどれか一つ落ちてきて私が死んでもおかしくない状況で。もしそうなっても、社会は私一人の死に関心を示さないだろうし、それどころか建物をもっとたくさん建てて、もともと金持ちになれるよう生まれてきた人を金持ちにするだけの社会のシステムが、私の命をあまりにも軽く扱っているように感じました。ただひたすら私が一人で乗り越えなければならないジャングルのように感じられて、それで遺書を書きたいと思ったんです。私がもし死ぬのなら、この曲を必ず残して死ななければならない。でも、すごく憂鬱な遺書じゃなくて、ちょっとキッチュな遺書を書きたかった。そう思って書いた曲です。

──リスナーからの反応が大きかった曲の一つですよね。曲を作った時の思い、意図は伝わったと思いますか?

MS:伝わったと思います。私は悲しみや無力感をそのまま表現するのは嫌なんです。B級映画のように作るのがすごく好きで、どうにかして楽しいものを作りたい。悲しい感情で聴いてもらうのもいいけれど、それを楽しんでほしいとも思うんです。聴いてくれた人は「死をこうやって表現することもできるんだ」と気に入ってくれたんじゃないかな。この曲を出して3、4年経ってから子どもたちにTikTokのミームで使われるようになったんです。「ピーポーピーポー」と歌う部分を面白がって、子どもたちの間で死が直接的に扱われて、遊びの要素になっている。一方では悲しくて、憂鬱な曲だという反応もありました。

社会運動は多くの場合直接的に投げかけますが、例えば、ドラァグは愉快な一方で、裏側にはすごく悲しい、暗い歴史もあるように、アートの役割はそういうものを昇華して軽やかで楽しく投げかけることだと思うんです。人々に日常の中でそういうテーマを一度でも楽しく考えてもらえるよう、当時は私をちょっと可愛らしく表現したりしながら、楽に解き放とうとしていました。

──重いテーマをそのまま重く表現したくはないという意思は、当時活発だったあなたのYouTubeチャンネルにアップされていたオリジナルMVやカヴァー動画からも感じられます。当時の動画は小道具を自ら用意してDIYに動画を作ったり、初期のあなたのキャラクター、イメージを形成するのに大きな役割を果たしたと思います。

MS:当時は動画を作るのが好きで、皆さんに何かを作って見せるのも好きでした。MVに出演するのも、自分で企画するのも楽しかったです。新しいキャラクターを作って皆さんに見せられるのが面白くて。

私はいつもやりたいことが多いんです。最近俳優として映画にも出演しました(3月7日に日本でも劇場公開された映画『ケナは韓国が嫌いで』で主人公ケナの妹役で出演)が、ミュージカル俳優もやりたかったし、学校で発表会がある時はいつも積極的でしたし、お祭りを企画するのも自分が舞台に上がるのも好きでした。7歳から8歳くらいの時期はお父さん、お母さんが家に帰ってくると、弟とミュージカルを作って見せたりもしていました。だから、音楽をやっていなくても似たようなことをやっていた気がします。あんな人にもなって、こんな人にもなって、あんな服もこんな服も着て、という感じで、レンジの広い表現が好きでした。

──当時DIY的に曲を作っていたあなたをプロデューサーとしてサポートしたのは、2018年の「Rock Paper Scissors」から『A Call from My Dream』まではSilica Gelのキム・チュンチュでした。今でこそ彼はMinsu、ユン・ジヨンなどたくさんのシンガー・ソングライターの作品のプロデューサーとしてもよく知られていますが、当時はあなたの音楽が彼のどんなところとマッチすると思って、プロデュースをお願いしたのでしょうか?

MS:Silica Gelではロックをやっていますが、彼はPlaybookというソロ・プロジェクトもやっているじゃないですか。だから私の持つフォーク的な部分とロックに対する憧れ、それらをどちらも持っている彼が合うんじゃないかと思ったんです。彼はフォークについて深く理解しているし、それをロック的に編曲することもできる。ジャズやクラシックなど他の要素も持っているし、オールラウンドだと思います。「Rock Paper Scissors」はディスコ的な曲でしたが、彼が跳ねるような感じに上手く編曲してくれて面白かったので、他の曲もお願いしてみることにしました。

──今作の多くの曲を共にしたギタリストのカン・ウォンウ、イジェとはこの後もコラボを続けます。このようなコラボレーターはあなたにとってどのような存在ですか?

MS:ウォンウ、イジェ、EP『Cobalt』(2021年)から合流することになるドラマーのキム・ナヒョンと出会ったことでシンガー・ソングライターとして暮らしながらも、本当のバンドのような体験ができたんです。大切な時間でした。例えば、『Cobalt』を作っていた時には、私が通っていた代案学校のバンド部のコンテナで5日間編曲、レコーディングしました。夜になると私の家で寝てお酒も飲んで楽しい時間を過ごして。バンドって音楽をやる時間以外にも一緒に人生を共にできる存在なんだなということを学びました。音楽的なことだけでなく、先輩として私に多くのことを教えてくれて、本当に心強い“支援軍”のようでしたね。今はそれぞれの場所で音楽をしていますが、いつかまた集まりたいです。

──『A Call from My Dream』をリリースした頃のインタヴューではいつか女性だけでバンドを組んでみたいと話していましたよね。当時の真意と考えの変化があれば教えてもらえますか?

MS:私はその後、Sailor Honeymoonというパンク・バンドに加入していた時期がありました。結局、私が少し疲れて抜けてしまったのですが、私のソロではその後も(男性である)ウォンウさんとも一緒にやっているし、ロックが男性中心の音楽であったことを考えれば、以前と比べれば、女性のバンドやミュージシャンが増えているとも思うので、最近は逆に女性”だけ”である必要があるのかな?と思うようにもなりました。

──以前より女性だけで構成されたバンドや、女性シンガー・ソングライターに注目が当たることが増えているとは思いますが、韓国のインディ・シーンで、女性ミュージシャンが活動する環境については以前と変わったこともあると思いますか?

MS:ロック・ミュージックを消費する層には男性が多いと思いますが、韓国ではあたかもK-POPアイドルに望むかのように「まず(容姿が)綺麗じゃなきゃいけない。その上で音楽がよければより成功できる」といった考えが今でも有効なようで、そのせいで女性ミュージシャンが多様なジャンルで成功すること、長期間活動することが難しくなっていると思います。なので、もう少し様子を見なければいけないけれど、女性ミュージシャンが多くなることよりも、長い間活動をしていけるかがもっと重要だと思います。私も30歳になるので不安を感じています。

──女性ミュージシャンとして影響を受けた人、尊敬している人がいるとしたらどなたでしょう?

MS:私は幼い頃から女性ミュージシャンの音楽をたくさん聴いて育ちましたが、一人選ぶならビョークですね。彼女は今でも活発に活動している。そして、いろんなジャンルを行き来できるレンジが広い人で、演技もできるパフォーマーでもありますよね。そういう意味で「この人がいてくれてよかった」「こんな風になれるんだな」と思わせてくれます。

──最後の質問です。今回4年経ったいま日本でファースト・アルバム『A Call from My Dream』のCDが作られることになりました。ミームで使われたことも含めて、この作品が韓国でも多様な形で長い間愛されている理由はどこにあると思いますか?

MS:聴いてくれる人が、ある種の神様のような大きな愛をいつも感じてほしいという気持ちを込めて作ったアルバムでもあるし、その気持ちを込めたからじゃないかと思っています。

実は私がお金もなく、何も知らなかった時だったので、ホーム・レコーディングでかなり劣悪な環境の中で作った曲たちなんです。その素朴さとアマチュアリズムを気に入ってもらえているのかもしれません。

あと、誰もが実は心の中にアーティストになりたいという気持ちがあると思うんです。 この作品は私自身がそんな気持ちで作ったアルバムで、「この音楽が世界を変えられるのか」という疑問もたくさん含まれている、それだけ世界を変えたいと思って作ったアルバムでもあったし、そんな私の純粋で素朴な心が一つになって、皆さんが好きになってくれたんじゃないかと思います。

<了>

Text By Daichi Yamamoto


Meaningful Stone (キム・トゥットル)

『A Call From My Dream』(日本盤)

RELEASE DATE : 2025.03.19(デジタルでのリリースは2020.09.27)
CDのご購入は以下から
https://diskunion.net/portal/ct/detail/1008987591

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