ドラマチックに対抗するドラマ
──2024年のアメリカ映画と日本映画を回想して
現実は相変わらず劇的で突飛で、信じられないことが次々に起こる。それは人によっては、今年の数々のエレクションの結果であるだろうし、暗殺と戦争の時代を表象する驚くべき暴力行為のいくつかの行使でもあるだろう。SNSは今や(本当に文字通り)ポルノ化しているし、経済的な格差は、相変わらず分断を助長させている。今や“前提”や“常識”は共有されず、自分流のルールを執行し、そこに当てはまらないものを排除するのが当たり前。『ナミビアの砂漠』の主人公であるカナは彼氏に向かって「映画なんて観て何になるんだよ」というが、確かに映画なんか観ている場合じゃないのかもしれない。
今のような世の中では、本当の意味で自分自身と会話が通じる人間を探すことは、簡単に見えて、実は誰にとっても難しいことなのではないだろうか。そしてその難しさに向き合おうとしない人間、または、通じているかどうかにかかわらずでかい声で話し続ける人間、そしてそのでかい声に、まるで街灯に集る虫の如く集まっている人間が多いこともまた事実だろう。そここそがメインストリームであり、人々が守ろうとする現代の民主主義の正体であり、カッコ付きの真実なのだとしたら、確かにこれほど人が信じられない世の中はない。
例えば米大統領選の直前に、米国公開から少し遅れてアレックス・ガーランド監督作『シビル・ウォー アメリカ最後の日』が、直後に米国公開から少し前倒しでリドリー・スコット監督作『グラディエーターII 英雄を呼ぶ声』が公開されたのは、よくできた話と言えるだろう。2人の英国出身監督が、ある種の抽象性を通しながら、ドナルド・トランプ政権下以降のアメリカ社会の混乱と複雑な構造をシニカルに映している姿には、アイロニカルな要素が少なからず入っている。この2つの大作は、カタルシスが生じ得ない現代のアメリカの有様を、外側から俯瞰するように映した作品でもあった。
2024年にアメリカ政治を取り囲んだ出来事を回想すれば、内側からその中心を直接的に切り取ることが難しくなっているのも無理はないだろう。その中で、冷笑や二極化の渦中からうまく外れつつ、内側からアメリカの人々の物語を描いたのがリー・アイザック・チョン監督作『ツイスターズ』だと言える。90年代のアメリカ活劇『ツイスター』のリブート企画である本作が、オクラホマの草原地帯で竜巻に立ち向かう若者の姿を通して描いたテーマは、驚くべきことに都市から外れた場所で、個人のルーツや生活に立ち返り、利己主義ではない連帯を尊ぶことだった。アメリカン・リベラルが描くストーリーから溢れるものを拾い上げる姿勢を、メインストリームから示したという意味でも、本作は上記の大作のあり方に当てはまらない、大胆で特異な作品だったと言えると思う。
一方で、90年代のアメリカ映画らしさへの回帰というのも今年のトレンドだろう。『ツイスターズ』をはじめ、デヴィッド・リーチ監督作『フォールガイ』、ジョン・ワッツ監督作『ウルフズ』、ダグ・リーマン監督作『ロードハウス/孤独の街』『インスティゲイターズ 〜強盗ふたりとセラピスト〜』(後ろの3作はいずれも配信映画だ)。これらの“かつてのアメリカ映画”を回顧するような作品が同時多発的に並んだ。かつてのロマンティック・コメディを現代に置き換えたウィル・グラッグ監督作『恋するプリテンダー』(アメリカでの公開は2023年12月22日)やグレッグ・バーランティ監督作『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』も、その文脈でここに並べることができるだろう。
これらの作品は、人をシステムや政治の駒として描くのではなく、ただ人として描いている。これは、例えばここ10年ほどアメリカのメインストリームを席巻していたヒーロー映画の連作が放棄していたことではないだろうか。都市から離れた生活を、トラブルを、恋愛を、“普通の人々の物語“をドラマチックに映画的に映す。精神性としてもこれらの作品にはかつてのアメリカ映画らしさ(これは当然“MAGA”なるものとは異なる理念である)があるし、ましてやそれは決してノンポリになることでもない。
さらに、身軽な運動や変化の快楽にアメリカ映画が傾いているという見方もできるはずだ。上記の、かつてのアメリカ映画らしさに満ち溢れた作品たちの見事に身軽な小品ぶりは言わずもがな、ルカ・グァダニーノ監督作『チャレンジャーズ』やリチャード・リンクレイター監督作『ヒットマン』における身軽な男女関係のゲームもここに付け加えられるだろう。または、ティム・バートン監督作『ビートルジュース ビートルジュース』における身軽な生と死の行き来、M.ナイト・シャマラン監督作『トラップ』における舞台装置と視点人物の身軽な転換などなど……。まるで過激に二極化していく現実に対抗するように、アメリカ映画は、複数のパーティーを行き来できるような身軽さを纏っていく。
国内映画にも目を向けてみたい。例えば、話題になった三宅唱監督作『夜明けのすべて』、濱口竜介監督作『悪は存在しない』、山中瑶子監督作『ナミビアの砂漠』は同時代的な隔たり、まさに現代における人と人の“言葉の通じなさ”に向き合った作品として、一つの線で語ることができそうだ。それは、同じく三宅唱による2022年の作品『ケイコ 目を澄ませて』が、音楽や言葉を最小限にし、役者の動作を通して連帯や繋がりを示していたことも思い出す。それぞれの結論の違いはあるが、“自分の居場所”というものの存在を認識し、そこに向き合うこの一連の作品は、確かな同時代性、現代の日本の空気を共有していた。『ケイコ 目を澄ませて』と対照的に、3本とも音楽(それぞれHi Spec、石橋英子、渡邊琢磨による素晴らしいスコア)が作品の感情や場所に寄り添っていたのも印象的だ。日本的な閉塞感の中でいかに生きていくかという問いが、これらの作品には鳴り響いている。
さらに、今年3本の映画を公開した黒沢清監督の作品が、対照的に人間性を映画から取り除きながら、現代社会のシステムに対する洞察を、突飛な出来事やショットのモンタージュを通して描いていたことも印象に残っている。特に『Cloud』の驚くべき突飛な編集とジャンルの転換には、前述したアメリカ映画が持ち合わせていたような、ある種の映画的な身軽さが宿っていた。
たとえ、楽観主義を精一杯に体現できなくとも、時に断片的な言葉の荒波に抗えないことがあっても、突飛さを映す映画の身軽なダイナミズムが、現実に押しつぶされて消えないことを祈る。それが、現実逃避でも、ましてや思想を持たないことをクールと称揚するような、見せかけのポリティクスとも違うことであると、我々は知っているはずだからだ。それはつまり、システムや政治から主体性を取り戻そうとする身軽さとも言える。
また、アレクサンダー・ペイン監督作『ホールドオーバーズ 置いてきぼりのホリデイ』やジェフ・ニコルズ監督作『ザ・バイクライダーズ』は、かつての6、70年代のアメリカ映画を、現代的な視点と距離感に則って再現した作品であるが、そういった立ち返りにおいても、かつての和製プログラムピクチャーやアメリカン・ニューシネマ──その時代らしいアウトサイダーへの視線と反骨精神が満ちながら、個人の主体性を決して手放さなかった──そんな作品たちへの憧憬を滲ませないわけにはいかなかった。
劇的で突飛な現実に比べれば、『ツイスターズ』のバカでかい竜巻も、『ヒットマン』の唐突に起こる殺人も、『Cloud』における突如降り頻る雪も、『トラップ』のサプライズも、そこまで大したことではないのだろうか。これらが現在のスクリーンにおいても、ドラマチックな出来事として、人々を虜にするものであっていてほしいと願ってやまない。そこにこそ現代の人々が失いかけている、システムに回収されない主体性が存在していると信じているからだ。現実のドラマチックに屈しないような、ドラマやショットがなくなりませんように。(市川タツキ)
Text By Tatsuki Ichikawa
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