あの夏のフィーリングは続く
番組仕立ての新企画がスタートしたジョナサン・リッチマン
21世紀の歩みを辿る
2020年9月1日、ジョナサン・リッチマンの“新曲”がbandcampで突然リリースされた。正確にいうと、それは“新曲”というより“新番組”だった。
『Just A Spark, On Journey From The Dark』というタイトルがついた9分47秒。公開されたデータには“ファースト・エピソード”と添えられていた。
早速再生してみた。まずはテーマ曲「Just A Spark, On Journey From The Dark」。ジョナサンの現在のパートナーであり、近年のジョナサンのレコーディングの常連メンバーであるニコル・モンタルバーノの奏でるタンブーラ、そしてジェイクという名のプレイヤーが弾くオルガンの音色が印象的。最新作『SA』(2018年)のミステリアスなムードの延長線上にある曲だ。
続いて、ジョナサンがしゃべりだし、このあたりからラジオ番組っぽい感じになる。それによると、この配信は“マンスリー”であり、毎回ジョナサンが曲をプレイしたり、ゲストを迎えて何かやったりするらしい。この第一回で披露されているのは新曲で「No One On The Earth Get Me Like She Does」。続いてはインスト「Maybe a Walk Home From Natick High School」。2001年のアルバム『Her Mystery Not of High Heels and Eye Shadow』に収録されていたさりげないインスト曲だ。ナティックは、ボストン郊外にある小さな町。ジョナサンは少年時代をその町で過ごした。高校生のころに見ていた秋の景色の思い出語りを交えながらギターを2分ほど。「That Summer Feeling」ならぬ「That Autumn Feeling」といったところか。すっと曲が終わると再びテーマ曲に戻り、“番組”は終わった。第二回も「Want To Visit My Inner House?」のタイトルで9月15日に無事配信された。
この配信のニュースを前に、92年リリースの人気盤『I, Jonathan』が初めてアナログLP化されるというニュースが、ジョナサンのファンをざわつかせていた。「待ってました!」の声も多く聞いたが、このニュースであらためて興味を持った人もいるみたい。「まだやってたんだ」とか、『I, Jonathan』がジョナサンの新作だと勘違いしたツイートも見かけた。
そもそも、ジョナサン・リッチマンって誰? ジョナサンについて、みんなの基礎知識っていまはどのくらいなんだろう?
オリジナル・パンク、へなへなの愛すべきロックンローラー、踊る哲学者、現代の吟遊詩人、元祖オルタナ、元祖アノラック、元祖なんとか、元祖なんとか……。
レコード・デビューからは45年。これまでに出したオリジナル・アルバムは、最初のモダン・ラヴァーズのアルバムも加えればたしか24枚?(数え方によって違いもあるかも)彼のファンだと公言するミュージシャンはいまなお世界中に多い。古くは、結成直後のクラッシュがモダン・ラヴァーズの名曲「Roadrunner」を練習曲にしていたという話もあるし、80年代以降もピクシーズ、ティーンエイジ・ファンクラブ、ヨ・ラ・テンゴ、そしてマック・デマルコ、エンジェル・オルソン、日本にもたくさん。リスペクトは時代も世代も国境も越えてる。だけど、彼が今年で69歳になっていることは、あんまり知られてないかも。FUJI ROCK FESTIVALで3ステージ(苗場食堂、FIELD OF HEAVEN、THE PALACE OF WONDER)に出演した2007年を最後に来日は実現していない。若いファンにとって、「ジョナサン・リッチマンを見たことある」は、もはや都市伝説の部類にすらなっているだろう。年配の人でも、『I, Jonathan』のジャケットに写る28年前の姿で、記憶のなかのジョナサンが止まってしまっている人は少なくないと思う。
21世紀に入ってもリリースは比較的コンスタントにしていたし、相棒のドラマー、トミー・ラーキンスとのツアーはアメリカ中がコロナ禍に見舞われるまで精力的にやっていた(トミーとのコンビは20年を超え、モダン・ラヴァーズ時代を含めて断トツに長い)。現時点で最後のツアーは、今年の3月上旬に行われたボニー・プリンス・ビリーとのジョイントだった。見られた人がひたすらうらやましい組み合わせ……。
ただし、精力的なツアーやリリースとは逆に、メディアに登場する機会は21世紀に入ってあからさまに激減した。これは事実なので書いてもいいと思うけど、ジョナサンはもう十数年以上、プリント/ネット・メディアのインタビューを受けていない。90年代後半の一時期にはNBCのナイトショー番組『Late Night with Conan O’brien』にもよく出演していて、全米のお茶の間に彼のトークや歌が流れていたし、ファレリー兄弟の作品としては日本でも異例の大ヒットを記録した映画『メリーに首ったけ』(1998年)への出演もあったりしたわけだけど、メディアでの自然なふるまいや発言が本人が予想もしないかたちでひとり歩きしてしまうことが、ジョナサンを過敏にしてしまったのかもしれない。
21世紀に入って、70年代のアルバムが何度も再発されたり、90年代以前は画質の超悪いブートレッグビデオでしか見ることのできなかった過去の貴重な映像もYouTubeでどんどん発掘された。ストリーミングでの配信も一部のカタログで行われるようになり、音源やキャラクターに接する機会は増えたように思う。とはいえ、過去も現在も未整理のまま提示されたそうした情報は、ジョナサンに興味を持ったばかりのリスナーにとっては逆に混乱を与えるものになっているのは否めない。
今回、ジョナサン・リッチマンについて書く機会を与えていただいたので、このタイミングで21世紀のジョナサン・リッチマンの歩みを作品とともに振り返ってみることにした。ぼくらが『リズム&ペンシル』という雑誌でジョナサンの特集号を出したのが1999年なので、その後のリリース情報の補完という意味もある。多少駆け足ではあるけど、お店やネットでときどき見かける(あまり知られていない)ジョナサンの作品のリスニング・ガイドになればいい。
ニール・ヤングと妻ペギー・ヤング(当時)が主宰したヴェイパー・レコードにジョナサンが移籍したのは96年。『Surrender To Jonathan』(1996年)、『I’m So Confused』(98年)を経て、前述の『メリーに首ったけ』の大ヒットもあり、上げ潮状態でリリースされたオリジナル・アルバムが、2001年の『Her Mystery Not of High Heels and Eye Shadow』だった。プロデューサーのニコ・ボラスはニール・ヤングに見出された職人で、前2作のカラフルさや同時代性を多少意識したプロダクション(とりわけリック・オケイセックがプロデュースした後者はその傾向が強かった)とは違い、ジョナサンとトミーが作り出すグルーヴを基本に置いたシンプルな音作りを主導した。また、ジョナサンの地元サンフランシスコの友人たちがレコーディングに多く関与し、なかでも重要なポイントは、トム・ウェイツのバンドメンバーとして知られた奇才マルチ・ミュージシャン、ラルフ・カーネイの参加(2017年に亡くなったのが残念!)。タイトル曲や「Springtime In New York」など、長くライブで歌われた曲も多い。全14曲中、4曲はスペイン語。アナログ盤ではA面10曲、B面4曲(スペイン語)という極端なカッティングが行われていた。まさにアナログのAB面でしかできない表現!
この年には、初の(そして唯一の)DVD作品『Take Me To The Plaza』がリリースされている。ライブが収録されたサンフランシスコのグレート・アメリカン・ミュージック・ホールは、去年、坂本慎太郎がアメリカ・ツアーで訪れた伝統のあるライヴ・ハウスだ。次作に収録される重要曲「My Baby Love Love Loves Me」などがすでに披露されているし、この作品でしか聴けないタイトル曲も人気が高い。さらに貴重なのは、ボーナスカットとしてスタジオでジョナサンが受けたインタビューで、これはファンは必見の濃い内容。これだけのまとまった分量でジョナサンの公式な発言が残されたのは、おそらくこれが最後だ。
2004年にリリースされた『Not So Much to Be Loved as to Love』は、事実上ジョナサンのセルフ・プロデュース(ノンクレジット)。前作の方法論をさらに推し進めた超シンプルなプロダクションで、ヴォーカルもギターもはるかにオンマイク。空気のふるえも伝わってくるような、素のままの音像。ラルフ・カーネイ、ニコル・モンタルバーノ、実娘ジェニー・レイ・リッチマンらごく親しい友人や家族との間だからこそ実現したのだろう親密さがすごくて、他に似たような作品が思い浮かばないほど。感動的なラブソング「My Baby Love Love Loves Me」もようやく収録された。80年代のレパートリーだった「Vincent Van Goch」が再演され、さらに新曲として「Salvador Dali」も収録。本当にこのアルバムはアートワークも魅力的だし、内容面でも21世紀のジョナサンを代表する名作。それ以降のジョナサンの作品の基盤を作ったアルバムとも言えるだろう。
2007年には、ジョナサンにとって唯一のサントラ・アルバム『Revolution Summer』がリリースされた。ニコルのきょうだいで、ベーシスト/映像作家でもあるマイルス・モンタルバーノが監督した作品(アメリカではアマゾンプライムで視聴可能)。全曲インストで、トミー、ラルフ・カーネイらがサポートしている。ひさびさにひりひりとしたエレクトリックギターを弾く“ヴェルヴェット”なジョナサンの片鱗が感じられる。一度は見てみたい映画なのだけど。
『Because Her Beauty Is Raw and Wild』(2008年)は、良い意味で『Revolution Summer』を引き継いだようなヒリヒリ感が下敷きにある作品。サウンド面では若干のゲスト参加曲を除けば、ほぼ全編ジョナサンとトミーだけの演奏。マイルス・モンタルバーノの写真のジャケットが伝えるのは、朗らかで陽気なジョナサンではなく、孤独の影を持つジョナサンなのかも。「No One Like Vermeer」はオランダの画家フェルメールへの敬意を歌にした曲で、ピカソ、ゴッホ、ダリに次ぐ画家シリーズ。2ヴァージョン収録された「When We Refused To Suffer」では、エレキ炸裂のセカンド・ヴァージョンがすごい。そこから、レナード・コーエンのカヴァー「Here It Is」、そして、実母の死を歌った「As My Mother Lay Lying」へ至る終幕には、アメリカ文学の中篇を読んでいるかのような趣があり、胸をえぐられる。ちなみに、LP発売時には7インチが封入されていて、そのシングルのタイトル「You Can Have A Cell Phone That’s OK But Not Me(きみが携帯持つのは構わないけど、ぼくはいらないよ)」には笑った。カップリングは「When We Refused To Suffer」のサード・ヴァージョン!
なお、この年には94年の『¡Jonathan, Te Vas a Emocionar! 』以来となる、スペイン語の曲を集めたアルバム『¿A qué venimos sino a caer?』もリリースされている。ただし、こちらは主に2000年代のスペイン語曲を集めた編集盤。
2010年のアルバム『O Moon, Queen of Night on Earth』は、ゴッホからの影響濃厚なジョナサンの自筆のイラスト・カヴァーから彼の世界に引き込まれてしまう。いつものようにトミーと二人で喜怒哀楽を泳いでゆくジョナサンだが、これまで以上に精霊的というか、スタジオにある音楽以外のアンビエンスの語るものを感じる。難解ではないけれど、ある意味、「奥の細道」的な味わいの作品。
そこから次のアルバム『Ishkode! Ishkode!』までは、アルバムのリリースが空く。その間をリリースとしてつないだのは、2013年の7インチ・シングル「La Fiesta Es Para Todos / La Guitarra Flamenca Negra」。スペインのマンスター・レコードとヴェイパーのダブルネーム・リリースで、これがヴェイパーでの最後の作品となった。「La Fiesta Es Para Todos」は2010年代のライブでは定番曲。
ヴェイパーがニール・ヤング夫妻の離婚によって幕を閉じたあと、ジョナサンを次に迎え入れたのは、オハイオ州クリーヴランドのレコード店ブルー・アロウが運営するインディー・レーベルだった。まず2015年に、新レーベルからの挨拶がわりとして2枚の7インチ・シングルが相次いでリリースされた。「Sun」。キース・リチャーズに捧げた曲として、ファンの間では噂になっていた「Keith」。そして2016年に、6年ぶりのアルバム『Ishkode! Ishkode!』が届く。2000年代の重要作が『Not So Much to Be Loved as to Love』なら、2010年代はこの『Ishkode! Ishkode!』で間違いない。うねりのあるバンド・サウンド。けだるい女性コーラスもかっこいい。近年のジョナサンはインドの精神世界にも傾倒していて、ラスト・ナンバーの「Mother I Give You My Soul Call」は20世紀インド音楽の大家パラマハンサ・ヨガナンダの楽曲(その影響は次作『SA』(2018年)で、さらに深掘りされる)。個人的には、このアルバムのアナログ盤の音質をエンジニアの中村宗一郎さんが絶賛していたことが記憶に残っている。
その後も「That’s All We Need At Our Party」(2016年)、「A Penchant For The Stagnant」(2018年)と、ジョナサンの7インチ・リリースは続いた。そして、2018年の暮れにリリースされた現在までの最新作が『SA』。プロデュースにオリジナル編成のモダン・ラヴァーズ時代(1970~73年)の盟友ジェリー・ハリスンが起用されたことは大きなサプライズだった。また、全体を通じてライブでの演奏とは一線を画したラーガなプロダクションが大胆に施されている。アルバム・タイトルの『SA』もインド音階で使われるコードのことで、500年前のインドの詩篇にコードをつけた曲があったり、タンブーラやハーモニウムが大きく導入されたサウンドには、ドローン/サイケデリックな展開すら感じる。自身の老いや死に言及したと受け取れる歌詞も少なくない。無限の生を享受するたくましいロックンローラーとして、ではなく、限りある人生について考え、変化をおそれずに受け入れ続けるジョナサンがここにいる。
以上、駆け足で21世紀のジョナサンをたどった。そうそう、ファレリー兄弟の『2番目のキス(Fever Pitch)』(2005年)のサントラに提供した「As We Walk To Fenway Park In Boston Town」もめちゃめちゃいい曲なので、もし中古盤で見かけたらチェックしてほしい。
最後に21世紀に見たジョナサン・リッチマンの思い出をいくつか。何年か前の、サンフランシスコでのライブでのこと。
満員の観客を相手に気持ちよく歌い踊っていたジョナサンが、不意に動きを止め、前方にいた若者に語りかけた。彼はジョナサンを熱心にスマホで撮影していたのだ。
「ねえきみ。ぼくはきみのためにプレイしてるんであって、その小さな箱のためにやってるんじゃないよ」
若者を問い詰めるのではなく、諭すように言って、すぐにまた歌に戻った軽やかさがよかった。
それから、ピッツバーグにあるアンディ・ウォーホル美術館でのインストア・ライブで、ウォーホルとの思い出を語るジョナサンを目撃したこともあった。ジョナサンがヴェルヴェット・アンダーグラウンドを追いかけていた60年代のニューヨーク。その匂いと記憶を彼がずっと忘れずにいて、いまもつながっていると思っていることがうれしかった。
その日の記憶を、自分のブログに書き留めていたので、引用する。
「ザット・サマー・フィーリング、ザット・サマー・フィーリング、ザット・サマー・フィーリング」と歌い出したジョナサンは、歌を続けるかと思いきや、「ここはアンディ・ウォーホル美術館。ぼくがアンディ・ウォーホールに会ったのは5回か6回。はじめて会ったのは1967年のニューヨーク。ぼくは16歳だった。そのときのことを正直にしゃべるよ」と語り出した。
「ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに夢中だったぼくは、彼らを通じてアンディに会った。まだ16歳で、何も知らなかったぼくに、アンディはそれまでに会ったどんな人よりもきちんと対応してくれた。“ハイ、アンディ、ぼくはヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファンです”。ぼくは怖いもの知らずに続けて言った。“でもアンディ、正直にいうと、ぼくはあなたのアートがよくわからないんです”。まだ16歳だったからね(笑)。そしたら、アンディは言った。“きみはわかっているさ(Yes you do)”。アンディの言った意味をぼくは考え続けた。ある日、スーパーマーケットに行ったとき、缶詰スープの前で立ち止まった。キャンベル・スープの缶が並んでいた。それを眺めていたら、突然思ったんだ。“この色とかたち! ぼくも色とかたちを表現したい”と。そしてぼくはギターを弾いた。今もギターを弾き続けてる。16歳のぼくはルー・リードにもこんなことを聞いた。“曲の最初の一音にはどういう意味がある?”ルーは答えた。“いろいろだよ、坊や(My son)”。このちょっとスプーキーな場所は、ぼくにいろんな昔のことを思い出させてくれた。ありがとう、アンディ」といって、ジョナサンは「ザット・サマー・フィーリング、ザット・サマー・フィーリング、ザット・サマー・フィーリング」ともう一度3回口ずさんで、曲を終えた。それがこの夜のジョナサンが歌った「ザット・サマー・フィーリング」だった。(引用終わり)
ジョナサンは歴史の生き証人でも都市伝説でもない。いつかまたぼくらの前に現れたら、目の前にいるぼくらのためにプレイするだろう。過去も現在も関係なく、そのときの自分のすべてを隠さずに。ぼくらはそれを楽しみ、笑い、泣き、翻弄されながらも、もうしばらくはジョナサンと付き合っていたい。
そういえば、今回bandcampで「Jonathan Richman」と検索して、気がついたことがある。世界中に「Jonathan Richman」ってタイトルのオリジナル曲を作ってるミュージシャンが結構いる! ジョナサンが「Pablo Picasso」って曲を作ったみたいにね。それって最高な伝染だ。すべてのミュージシャンが「Jonathan Richman」って曲を作ってみたらいいのに。(松永良平)
※ジョナサンの比較的最近の動画。今年4月に公開されたアンドリュー・バードがジョナサンを迎え約1時間に渡って共演した自宅ライヴ
Text By Ryohei Matsunaga