そこに表れたのは身体性を求めないダンス・ミュージック
ジョン・キャロル・カービー来日公演評
公演の終盤に披露されたのは、YMO「Rydeen」のカヴァーだった。ソロ・ピアノで演奏されたこのカヴァー曲に、5月30日のビルボードライヴ東京でジョン・キャロル・カービーのセカンド・ショーを観ていた観客からは、特別な驚きやざわめきといったものは起きていなかった気がした。私だけがそう感じただけか、それは気のせいで実際に会場は沸いていたのか。けれど、なぜそう感じたんだろう。例えば、来日直前の5月23日にカービーのインスタグラムに投稿されたこの曲の演奏動画を先に見てしまっていたから? それを見ていなくても5月28日にカービーが出演したフェス《FFKT》でこの曲が披露されたことを居合わせた観客のSNSを通して知っていたから? と一旦は思ってみたものの、違う。ネタバレがあったからとかじゃない。この曲が演奏された終盤へと連なる道筋が、マシン・ビートと共に聞こえ立ち現れた気がしたからだ。
冒頭と終盤のグランド・ピアノによる演奏を除いて、この公演のほとんどは電子楽器によって演奏されていた。右手には、ウーリッツァー社のエレクトリック・ピアノとその上に置かれたローランド社のキーボードを。左手には、エレクトロン社のサンプラーや、ローランド社のリズム・マシンやベリンガー社のセミモジュラー・シンセサイザーのModel Dなどを。時には、右側だけに移動して両手で鍵盤のみを演奏することもあれば、左側に移ってビートを操ったり、シンセサイザーやサンプラーのつまみを回しながら音色を変化させることもあった。カービーは、その全ての演奏と作業を1人でこなしながら、会場全体を黙々と刺激していた。
最新作『Dance Ancestral』(2022年)は、カービーの特徴とも言えるニューエイジ・サウンドが基調になっている。過去、フランク・オーシャンや特にソランジュなどの作品に貢献した際の演奏や、カービー自身の作品の『My Garden』(2020年)くらいまでとも地続きで、ララージが参加していることも含め、そんなカービーの作家性をはっきりと示す作品だ。加えて、Bandcampのページ等に掲載されている本人の発言を引けば、アルバム・タイトルにこそダンスという言葉はあるが、それは実際のダンスを指さず、私たちが人生で行う生来のダンスを主題にしたという。たしかに人生における繰り返しの日々は、その反復ゆえにダンスと捉えることもできる。けれど、これまでの作品とはどう違って、どんな風にダンスのニュアンスが「音」として取り入れられたか。その痕跡がカービー自身の言葉によって伝えられた思想や哲学以外の、とりわけ音からは掴みにくいと私自身は感じていた。
その掴めなかった部分は、ライヴを見ている最中に、立ち上がってくる。リズム・マシンのステップに組み込まれたビートはクオンタイズされ、等間隔のリズムを生み出す。そこへ強烈に低音を強調した、しかし同じく等間隔に鳴らされるマシンのベースが交わって、淡々としたビートを作り出していく。直近のカービーの作品と言えば、2021年の『Septet』がフュージョン色の強い作品であったり、前述の最新作でも演奏者を招集して制作していたり、彼自身が鍵盤奏者でもある。そこでは、ほぼ常に人間による生身の揺らぎのあるビートとグルーヴが楽曲を先導していたことを思い出すことができる。例えば「Rainmaker」の原曲は、その印象的な生身のベースによって聴く人の体を揺らすもの。けれど、今回のライヴで演奏された同曲も最新作からの複数の曲も、原曲とは真逆とも言える、非生身のマシン・ビートの上で演奏され、まるで私たちをスタンディングさせずにその淡々としたビートの上で踊らせようとするような、一見矛盾をはらんだ表現と感じたのだ。しかし、それは矛盾ではない。無機質に反復するビートの上にカービーのシンセサイザーの演奏が重なることで陶酔感は一層強調され、身体性を伴わない精神世界の中でダンスすることへの誘いになっていった。
今回のライヴで強調されたカービーの電子音楽家的な側面を通して、もう一つ立ち上がってくるものがある。それは、カービーと共に『Dance Ancestal』のプロデュースを行った、中国出身でカナダはバンクーバー拠点のYu Suの存在だ。バンクーバーのエレクトロニック・シーンから登場したトラック・メーカー/電子音楽家で、ハウス・ミュージックを中心に選曲するDJでもある。そんなSuのこれまでの作品には、黄河をモチーフにした『Yellow River Blue』(2021年)やEP『Roll With The Punches』(2019年)があって、エレクトリックなサウンドの中に中国琴などの音を配置し、Su自身のルーツである中国を映している。しかし、2020年のインタビューでSuは、こんな発言をしている。それは、文化的アイデンティティと自身の音楽が結び付けられることを望まず、中国の伝統的な音楽をかすかに仄めかすことによって東洋の概念を覆したいと話しながら「細野晴臣が音楽を観光するという考えについて語っていて、私にとっては興味深いです」という内容の発言だった。これは、ヨーロッパの人間が命名した音楽ジャンルや音楽用語の枠組みからくる決めつけを批判することで、1人の音楽家としてその存在を浮かび上がらせようとするSuの姿勢を表している(発言引用元:https://www.ableton.com/ja/blog/inspiration-information-channeling-influences-yu-su/)。
細野晴臣が、電子音楽と様々な国のルーツ音楽とを組み合わせて、自身の興味の赴くままに各地を観光しようと試みた『Omni Sight Seeing』(1989年)は、他者に決められた枠組みを飛び越えてしまう作品として、Suの耳に届いたのだろう。そんなSuが共同プロデュースしたカービーの『Dance Ancestal』は、体を揺らすダンスではなく、精神世界のダンスである。そして、Suが興味を持って見つめる『Omni Sight Seeing』も実際の観光ではなく、音によって誘われる精神世界の中で旅する音楽集である。身体性を要求しないダンス・ミュージック。これらの作品に共通する自由度の高さ、かつ枠組みすら必要としない精神世界的な発想同士が、過去から現在の音楽作品を通して共振し、発展し、繋がっていく。そんなことを今回の公演を通して感じながら、ジョン・キャロル・カービーという音楽家の姿を改めて捉え直すことになった。マシンと生楽器の折衷は、例えば細野晴臣が、例えば坂本龍一が、例えば高橋幸宏が、YMOの時から実践してきたことである。カービーが「Rydeen」をカヴァーした際に特別な驚きがなかったのは、前述の通り彼らと共通する発想があり、セットリストに組み込まれていることが自然に感じられたからなのかもしれない。この原稿を書きながら、そんな風に振り返ってみている。(加藤孔紀)
All Photo by Masanori Naruse
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Yu Su『Yellow River Blue』
中国出身バンクーバー拠点の気鋭の女性によるデビュー作
http://turntokyo.com/reviews/yu-su-yellow-river-blue/
Text By Koki Kato