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「《Kranky Records》に影響されて作ったアルバムなんです」
ニューヨーク拠点のマリ・モーリスによるソロ・プロジェクト=モア・イーズが語るクレア・ラウジーとの共演アルバム『no floor』

21 March 2025 | By Shino Okamura

昨年秋、最新作『sentiment』をひっさげて初来日公演を行ったクレア・ラウジーは、その後現在に至るまで、全く休むことなく次々と多様な作品を制作し、すぐさまリリースし、今も世界中のあちこちでパフォーマンスを披露している。2024年4月に《Thrill Jockey》から『sentiment』をリリースした後も、来日公演終了後の11月には『sentiment』のリミックス・アルバム『sentiment remix』を発売(CDは日本でのみリリース)。同じく11月には、スロバキアの漫画家、アニメーター、映像クリエイターのヴィクトル・クバル(Viktor Kubal 1997年没)が手がけた昔のアニメ作品『Krvavá pani(The Bloody Lady)』のスコアをラウジーが新たに再構築する『The Bloody Lady』も発表。これはフィールド録音したものにシンセ、ピアノ、ヴァイオリンなどを加えたアンビエント~ドローン作品で、マスタリングをステファン・マチューが担当している。また、大晦日には2024年を振り返るように12ヶ月の月名をそのままタイトルにした実験的なプライヴェート作品『2024』もBandcampで発表した。

そんなクレアが関わる目下の最新作が『no floor』というアルバムだ。尤も、これは『sentiment』にも参加するなどクレアとこれまで再三に渡って共演、共作アルバムもリリースしてきた、同じクィアとしての“同志”でもあるモア・イーズと組んだコラボレート・アルバム。そもそも、モア・イーズ自身、この10年ほどの間にクレアに負けず劣らず多くの作品をリリースしてきた多作家で、ヴァイオリンが演奏の原点の一つであることも含めて、単なるアンビエント、ドローン、エレクトロの領域を超えた非常に多面的なクリエイターだ。そんな2人による最新作『no floor』は5曲31分強の作品ながら大きな存在感と意味を持っている。既にご承知の方も多いだろう、モア・イーズは現在ニューヨークはブルックリンに、クレアはロサンジェルスにそれぞれ暮らしているが、かつては同じテキサス州サンアントニオを拠点としていた。2010年代、テキサスから、即興、アンビエント、ドローン、電子音楽の新しい動きが伝わってきていたのは、この二人の積極的な活躍に拠るところが大きかったと言っていい。これまでの二人の共演作はいずれもユニークなものだが、今作『no floor』がとりわけ重要と言えるのは、2人が拠点を別々にしてから初めてとなる正式な共演アルバムだからである。

2人だけではない。その周辺には彼女たちの作品に制作で貢献してきているエンジニアのアンドリュー・ウェザース、アートワークやデザインも手がけるグレッチェン・コァスモー(クレアのリミックス・アルバム『sentiment remix』にも参加しているこの両者はWind Tideというユニットでも活動している)、あるいは音楽性は異なるがモア・イーズがサポートで参加もしているLomeldaやAlexaloneといったバンドがテキサス周辺に新風を送り込んでいた。中でもクレア・ラウジーとモア・イーズが他の土地の同系のシーンとは少し違う、エモーショナルでラフで、時にはフォーキーですらあるオーガニックな感触を放っているのは、ルーツ音楽やインディー・ロックの聖地でもある南部テキサスで基礎を固めていたということも大きいはずだ。そんな2人が拠点を別々にした今、こうして再び手を組んだのは何がきっかけだったのか?

というわけで、現在はテキサスを離れ、大陸の両サイドで暮らす2人の共同名義によるニュー・アルバム『no floor』(“more eaze & claire rousay”名義になっていて、モア・イーズの名前の方が先に表記されている)について、今回はモア・イーズに登場願って話してもらおう。『no floor』もクレアの『sentiment』同様《Thrill Jockey》からリリースされるとあって(日本では《HEADZ》から)、それならば……ということで取材が実現した。ちなみに、モア・イーズはマリ・モーリスというアーティストのソロ・プロジェクトの名前である。日本時間の深夜0時にスタートし、実に2時間ほど本当によく話してくれた。せっかくなのでほぼ全文掲載をさせていただく。長いのでじっくりゆっくり、心して読んでほしいと願う。
(インタヴュー・文/岡村詩野 通訳/竹澤彩子)



Interview with more eaze(mari maurice)

──今日はあなたのキャリアをおさらいするような質問も多くさせてもらえればと思っています。

more eaze(以下m):クレアからも良い話をたくさん聞いてます。今回、日本の『TURN』の取材をやるんだよってことを報告したら、よろしくねって言ってました。

──嬉しいですね。クレアには去年秋に日本でも取材をしました。さて、早速ですが、クレアが今テキサスを離れてロサンジェルスに暮らしているように、あなたはあなたで2023年秋ニューヨークに移っています。これはなぜだったのでしょうか。

m:はい、そうなんです。元々ライヴでちょいちょいニューヨークに呼んでもらってて、その度に素晴らしい時間を過ごさせてもらって。ライヴも大盛況だったりオンラインでやりとりしてたアーティストとも直接繋がることができて。こっちに移る前に最後に行ったショウが2023年で、当時住んでたテキサスに向かう帰りの飛行機で泣き出してしまう始末で(笑)。そのときニューヨークに移り住むことを決意しました。ちょうど人生にちょっとした変化を求めてた時期でもあったんですけど、一番の理由は一緒に音楽を作りたいと思える人達や自分のためのオーディエンスがこっちにいると思ったので……それで決意しました。あるいはテキサスを離れるきっかけが欲しかったのもあると思います。現在、テキサスではクィアやトランスジェンダーへの規制や風当たりが厳しくなっていることもあり、今のアメリカで政治的な温度からも危機感を覚えるところもあって、もっと自分が安心して自由に暮らせるニューヨークに移り住むことを決意しました。

──あなたはテキサスのサンアントニオ出身です。どのような環境で育ち、最初の音楽体験はいつ、どういうものだったのでしょうか。

m:もともと生まれも育ちもクレアと同じテキサスのサンアントニオで、人生のほとんどをサンアントニオで過ごしてます。大学も地元のサンアントニオでしたし……当時はポップ・バンドを中心に音楽シーンもすごくエキサイティングで勢いがあって、地元を離れようという気にはなりませんでしたね。当時は本当にすごくいい感じだったんですよ。ただ、地方の小さなシーンにありがちなことに徐々に廃れていってしまいましたけど。一応、バンドとして存続はしてるものの音楽以外の方向に活動をシフトチェンジしていくみたいな人達が多くて……そこから自分も大学院に進学するためにロサンゼルスに移って、2年くらい向こうで暮らしてました。当時のパートナーもテキサス出身だったんですけど、2人してホームシックになってテキサスに戻り、その後、10年近くテキサスに住むことになりました。音楽的バックグラウンドとしては、元々はフォークやカントリーをずっとやっていました。主にフィドルを演奏する人達に囲まれながらギターを弾いたり、自作の曲を歌ったりしていました。10代の頃はずっとそんな感じで地元を中心に活動をしていましたね……サンアントニオやオースティン、とくにサンアントニオにはフォークやカントリーの大規模なコミュニティがあって、そちらの音楽シーンの方は今でも活気に溢れています。かなり早いうちからそういった場に出入りして、年上のミュージシャンに囲まれて演奏してたのが最初です。両親がここなら安心して子供を通わせられると思ったんでしょうね。だから、それが自分の音楽的なバックグラウンドのかなり大きな一部を占めています。年配のカントリーやフォークのミュージシャン達と一緒に演奏したことが、今の自分の音楽の重要な基盤の一部となっています。その後、ロサンジェルスからテキサスに戻って、オースティンで最後の10年間を過ごしました。オースティンがまた特徴的な街で、何しろロック一色って感じなんですよ! 音楽が演奏できる場所もバーに併設されている形式が中心で、自分が普段やっているような実験的な音楽や静かな音楽を演奏には向かなくて、オースティンで演奏するときにはいつもよりヴォリュームを大きくしたり、大きな音量にしたり、アクティヴな展開にしたりして工夫してました。そうでないとテキサスのバーの騒音に太刀打ちできないので(笑)。今こうして振り返ってみても、自分の音楽的バックグラウンドは地元テキサスに深く根ざしているんだなあってことを実感しますね。例えば、年配のミュージシャンに囲まれて演奏するのが最初のルーツだったり……ただ、それだけテキサスに根ざしてるのにも関わらず、オースティンの音楽シーンの中ではどこにも属していないような、異端児みたいに感じていましたね……それもこれもロックじゃないという、ただ一点において(笑)。というか、ロック自体は大好きで、ロック・バンドともずっと共演してきたんですけど、自分がやりたい音楽はロックじゃなかったんですよね。なのでオースティン時代は、ある程度の妥協を受け入れたり、ロック中心の音楽シーンの中で自分なりの居場所を模索する必要がありました(笑)。

──エクスペリメンタル音楽、環境音楽、アンビエント音楽などに興味を持ったのは、いつ、何がきっかけでしたか。その時に、あなたはすぐに自作の曲を作ること、音を出すことに向けて行動したのでしょうか。それともリスナーとしての体験をひたすら積み重ねていったのでしょうか。

m:私にとっていわゆる“ビッグバン”が訪れた瞬間は(笑)、16歳か17歳の頃にギタリストのアラン・リクトのパフォーマンスを生で観たときのことです。それ以前から実験音楽には興味がありましたが、どちらかというと一見さん的な、変わった音楽をやってるバンドを通じてその延長線上で聴くみたいな感じの距離感でした。でも、サンアントニオのアートギャラリーでアラン・リクトのパフォーマンスがあることを知って、10代の頃思いきって会場に足を運んでみたところから、まさに自分の人生が一気に変わってしまいました。ひたすら延々と続くドローン・ミュージックから切り刻まれたようなノイズのコラージュに移行していくようなパフォーマンスで脳味噌が吹き飛ぶくらいの衝撃を受けました。しかも、秋山徹次さんとの共演でもあったんですよ! 秋山さんの演奏も最高に素晴らしかったんです。ただ、ものすごくミニマルで、まだ10代だった自分には若干強烈すぎるとそのときは感じました(笑)。でも、後になって振り返ってみると、あのときアラン・リクトと秋山徹次さんのセットを両方同時に観たことがまさに象徴的というか、自分の人生を変えた運命の瞬間だったと思います(笑)。もっとずっと後になってから、なんと秋山さんとも共演する機会に恵まれて! まさに一周して振り出しに戻るみたいな感慨深い瞬間でした。しかもニューヨークに移り住んでからアランとも知り合うことができて! 17歳のときにあなたのパフォーマンスを見て実験音楽の道に進むようになったんです」って直接本人に伝えることができたんですよ(笑)! もうホントに、あの地元のギャラリーで初めて観たあのパフォーマンスが……何しろ自分がそれまで聴いたことのない音楽で衝撃を受けましたね。それが自分の人生を変えるほど大きなインパクトを受けています。さらにアランのやっているブログがまた素晴らしくて、彼のお気に入りのミニマリストのレコードがリストアップされてるんですけど、それが自分にとってはお気に入りの音楽の宝庫に出会うための地図みたいになっていきました。さらにミニマリズムについての文章が多く綴ってあるのもまたものすごく参考になって響いて……最初はスティーヴ・ライヒのような比較的メジャーどころから徐々にアルヴィン・ルシエやシャルルマーニュ・パレスタインみたいな、より奇異で一定の方向性に特化したものに出会っていきました。まさにアランのブログで取り上げられていたアーティスト達です。そこからよりマイナーで派生的なノー・ウェイヴ関連に流れていきました……とにかく彼が勧めていた音楽は片っ端からすべてチェックして、そこからまた「この人は何を聴いているんだろう?」「この音楽の元はどこからは?」と糸を辿るように探っていきました。それも今の自分の音楽にとっての大きな土台になっていると思います。それと当時、というか今も活動していますけど、サンアントニオにThe Grasshopper Lies Heavyっていう、すごくヘヴィで不穏な音楽をやってるバンドがいて。地元で積極的にライヴ活動を行ってるのを知り「わー、こんな近所にも自分が聴いているのと似たような音楽をやってる人がいるんだ!」って、そこにもすごく刺激を受けましたね。The Grasshopper Lies Heavyのメンバーのうちの2人からすごく影響を受けていて、色んな音楽を勧めてもらったりして、そこからまた新たな音楽との出会いがたくさんありました。何かしらのアーティストに興味を持つと《All Music》だの《Rate Your Music》だのでさらに、他の作品や共演したアーティストをもれなく調べ上げてチェックするみたいな、そんな17歳、18歳の子でした(笑)。

──とても興味深いですね。私はあなたのことは、実験音楽、前衛音楽のミュージシャンだとはあまり思っていません。非常に革新的でラディカルなアーティストだとは思いますが、形式としての実験音楽、ドローン音楽、コラージュ手法などからは距離をとろうとしているようにも感じます。

m:ありがとうございます。単純に色んなことに興味があって、それがどんどんどんどん広がっていってしまうところから来てるんだと思います。同じことを二度繰り返すことにはあまり興味がないという……それが一番の理由だと思います。その時々の自分の興味に従って、自分のミューズに導かれるままにフラフラついていってる感じです。とにかく色んなものから影響を受けてて、それが自分の音楽にもダダ洩れになっているだけで、中にはアルバムから次のアルバムに引き継がれる要素もあるんですけど、それでも毎回違うことをしたいし、何かしらちょっと捻りや変化を加えずにはいられない性質なんですよ……これもう完全に個人的な趣味の領域ですね(笑)。というのも、かなり年齢の早いうちからさんざん色んなロック・バンドなどで演奏してきてて、毎回同じセットリストを何度も演奏するわけじゃないですか。それが自分にはどうもそそられないし、正直言って退屈なわけです。いつも「なんでもっと冒険しないんだろう?」とか、「これを解体してみたら面白いんじゃない?」って一人悶々としたものを抱えながら(笑)……その沸々と湧き起こるものがまさに自分がこれまで作ってきたすべての音楽の源にあると思います。モア・イーズとして音楽を作るようになったことで、その傾向がさらに色濃くなってますね。モア・イーズを始めたそもそもの目的は、ソロ・アーティストとして何にも縛られたくなかったからなんです。「ああ、クラシック寄りの音楽でしょ?」だとか、「基本インストゥルメンタルでときどき歌う人だよね」みたいな枠組みに縛られたくなくて、それよりもいろんな要素を混在させたことをやりたいというのが、このプロジェクトを始めた一つの大きな理由でもあります。

ここに至るまでに影響を与えた作曲家が2人いて、一人がジュリアス・イーストマンで、もう一人がアーサー・ラッセルです。2013年か2014年頃、ちょうどモア・イーズを起ち上げようとしていた時期にジュリアス・イーストマンの伝記を読んで……もともと彼の音楽の大ファンだったんですが、伝記の中で彼が語っていたことがすごく自分に響いて。彼の理論や文章の多くは残念なことに失われてしまってるんですが、彼がその伝記で語っていたこととして、曲の1つのセクションが全く異なる形式のセクションやムーヴメントに移行する際にも、そこに必ず1つの糸が通ってて、それがサウンドであれリズムであれ、たった1音符であれ、次のパートへ緩やに移行するための緩衝材の役割を果たす要素が存在しているということをしきりに言っていて、それが自分が音楽を作る上での思考にものすごく影響を与えています。つまり、AからBに飛ぶことができる、ただ、その2つの点を繋ぐ役目を果たす何かしらの要素なり糸なりが存在しているという考え方で、それは自分の音楽作りにとってすごく重要な柱になっています。

──そういえば、あなたはASMR(聴覚、視覚への刺激によって感じる快感)の影響も受けているそうですね。サウンドデザインとしての面白さは間違いなくありますが、あなたが興味を持っているASMRは具体的にどのようなものですか。そして、それが今のあなたの作品にどのように影響を与えていると思いますか。ASMRは人によっては非常に不快な感覚をもたらす作用もありますが。

m:ハハハハハハ、たしかに(笑)!

──かたや、アンビエント音楽などは快楽性を追求する音楽という側面もあります。あなたの作品には、そのどちらもあるように思えるのですが、不快と快楽のバランス、共存をどのように考えていますか。

m:ASMRに興味を持ち始めたのは2012年か2013年頃で、わりと早くから関心がありました。ただ、それを音楽に取り入れるまでにはだいぶ間が開いてしまうんですけど。大学院生時代に友達がASMRを使ってるのを見て一気に開眼したんです。自分が好きな実験音楽の中でよく耳にしている要素がたくさん含まれているんですけど“音楽”とはみなされていないぶん、より身近に感じられたんです。作曲のもとに作られた音としてじゃなくて、あくまでも純粋に音として楽しめる感覚というか。とくに至近距離でマイクに向かって囁いたり、引っ掻き音や、クシャクシャっていう感じの音の動画にハマってて、その音響から心理的精神的効果が生み出されたりして、一気にASMRの世界に引き込まれていきました。中でも人生ベスト級に好きな作品がロバート・アシュリーの『Automatic Writing』で、そのタトゥーを腕に入れているくらい(笑)。ASMRと『Automatic Writing』が自分の中でパパッと一気に繋がっていって。『Automatic Writing』には、囁き声やわずかに聞こえるか聞こえないかの些細な音がふんだんに織り込まれてるんですけど、それを繋ぐものとして至近距離のマイクで録ったような……おそらくシンセサイザーを使ってる音だと思うんですけど、耳元でグラスをカチカチやってるような音が後ろのほうでずっと鳴ってるんですけど、そのへんに完全に魅了されちゃったんですよ。そこから作曲をしていく中で、自分の人生や日常生活における重要な要素を自分の作品に取り込む方法について考えるようになって、そこからASMRを始めとする録音手法を最初は心理的効果を生み出す目的から取り入れるようになっていきました。音響効果によって精神に働きかけるという手法ですね。

そこで思い浮かんだのがアルヴィン・ルシエの音の使い方で、そこからどういう相互作用を生み出すことができるのかを考えるようになりました。それとヴラディスラフ・ディレイやヤン・イェルネックなんかの初期の2000年代のグリッチにもASMR的なものを感じるんですよね。あのパチパチいう音やレコード盤のノイズやサンプル使いが、自分が声や小さな音を扱いたいと思うイメージにすごく近いんですよね。自分の中では良質なASMR動画と同じような効果をもたらしてくれる音楽なんです。だから純粋な音としての部分と、その音がもたらす効果の両方を使って何か面白いことをやってみたかったんですよね。その音を他の楽器や電子音に重ねることで、どこか奇妙で歪な音響効果によってもたらされるある種の精神世界みたいなものを生み出していきたかったんです。あるいは、単純に好きなのもあります。最初にASMRを最初に使い始めた頃はネット上の動画から拾ってきた音を切り取ってそのまま使ってたんですよ。もうこれはかなり前の話で、おそらく2015年から2017年くらいの話で……ちょうどあなたが初めて私達の音楽を聴いてくれた頃あたりだと思います。当時カセットでリリースした作品の中に、ASMRの動画から短いサンプルを拾ってきて使った音が残ってたりします。そのときよくハマっていたのが、サンプルの元ネタでとは真逆のコンテキストに落とし込むという手法で、リラックスした感じから夢の世界に迷い込んだような若干不気味ですらある感じに変化させるのが好きでした……今ではもう完全に別のところに興味が移っていますけど(笑)。そこから作曲用に使う自ASMR的な音を自分で作るようになったら「うわ、これが自分で作れたらもう、何だってできてしまえるじゃない⁉」って一気に世界観が広がって、独自のテクスチャーを生み出すために自分がASMRに関して好きな要素を取り入れつつも、それを音楽に還元する手法を開拓するようになったんです。それこそ、今名前の挙がった私の大好きなアーティスト達がやってるのと同じように。

──あなたは非常に多くのミュージシャンとコラボレートしたり、Lomelda、Alexaloneといったバンドでも活動をしてきています。中でもクレア・ラウジーとは今回のアルバム『no floor』以前に、過去にもアルバム『An Afternoon Whine』や『Never Stop Texting Me』などの共演作をリリースしています。そもそもあなた方が最初に出会ったのは何がきっかけだったのでしょうか。

m:最初にクレアと知り合ったのは、LAからテキサスに戻ってきたばかりの頃で、そのとき一緒にプレイしてくれるドラマーを探していました。そこから以前一緒にバンドをやっていた友達に声をかけてみたんですけど、最初は「いいよ」って言ってくれたものの断られてしまって。しかも理由が「自分は今ドラムセットを持っていなくて友達に借りなきゃいけないから」ってこと(笑)、その友達というのがクレアで。しかも、「正直、自分よりもはるかに優秀なドラマーだから、彼女に直接頼んでみたら?」ってことで(笑)、それで実際に会ってみることになるんですけど、当時はまだクレアが相当若かったときで……自分がたしか24歳くらいだったので、クレアが18歳ぐらいの計算になると思います。それもあって「えー、こんな高校生みたいな子に任せちゃって大丈夫?」って最初は少し疑ってかかってたんです(笑)。でも、彼女が私の家に来て2、3曲か一緒にリハーサルした時点で、すぐに「ああ、一生のバンドメイトに巡り会えた!」と本能レベルで実感しましたね。それくらい圧倒的かつ自分のツボに共鳴し合うドラムだったんです。それから自分のバンドに参加してもらう形で何本か一緒にツアーをいくつか一緒にしたんですけど、モア・イーズを始める前のことで、当時やってた別のプロジェクト用のツアーです。その後、モア・イーズとして音楽を作り始めたとき、またいくつかのツアーを一緒にやって、彼女が自分のサポート・メンバーで参加してくれることもあれば、ジョイント的な形でやることもありました。ただ、当時はまだ実際に一緒に何か作ることはそんなに多くなくて、たまに自分が彼女用に書いた曲を演奏してもらうくらいでした。ただ、2019年、クレアのドラム・プレイがさらに進化し続けて、「これはもう一緒に何かやるべきでしょ」ってところから即興演奏を始めて、2人で何本か即興のライヴをやるんですけど、それがとんでもなく濃くて激しいもので……即興という観点からいってもかなり攻めてる内容でした。それを叩き台にして、クレアから送られてきたほぼ完成形に近い曲に自分がオーバーダブを重ねる形で、早速、曲作りと編集作業に取りかかりました。それがデュオとしてのデビュー・アルバム『If I Don’t Let Myself Be Happy Now, Then When?』になりました。このアルバムが完成するまでの経緯がまた変わってるんですけど、当初のアイデアでは、当時自分がデジタルな音にハマっていたこともあり、完全にオートチューンのヴォーカルと暴走するドラムだけでプロジェクトをやろう!ってアイディアから始まってるんですよ(笑)。結局、実際にそういうセットをやることは一度もないまま作品が完成しちゃいましたけど、というか、お互いに他にもいろんなところに興味がどんどん移ってしまって……その頃、クレアもドラム・キットから離れ始めていて、いわゆるテーブルトップ方式でパーカッションや機材を並べて演奏するスタイルに移行しつつある時期でした。とはいえ、いつかもしかしてクレイジーなオートチューンとドラム・キットだけのアルバムを作るかもしれません(笑)。ただ、元々のアイデアの種としてあったのはそういうもので、そこから一緒に作品を作る過程を通して今の形に辿り着いています。

──あなた自身、最初に手にした楽器、自ら興味をもって演奏しようと思った楽器は何だったのでしょうか。エフェクターを多数使ってヴァイオリン演奏をする動画を観てあなたを知ったので、今でもあなたにはヴァイオリンのイメージがあります。

m:最初に手にした楽器はギターなんですね。フィドルを始める前に数年間ギターを弾いていました。でも、ほぼ同時期に始めたようなものです。最初にギターのレッスンを受けたのが12歳くらいで、実際に何か弾けるようになったのは13歳になってからでした(笑)。とはいえ、その先生がすごく良い先生で、コードの作りや弦楽器上で音階を取る方法なんかの基本的な音楽理論を最初にしっかりと自分に叩き込んでくれました。後になって自分が弦楽器ならほぼ一通りこなせるくらいの感覚になれたのもそのおかげだと思います。その先生の教え方が自分にはすごく合っていたみたいで、音楽の基本構造がすんなり理解できたんです。そのおかげでいったんギターがある程度弾けるようになってから、他の楽器にも取り組みやすくなりました。ちょうどその頃……だから2000年代の初期ですね。インターネットで安価で低品質のフォーク楽器が簡単に手に入る時代だったこともあり、早速インターネットでマンドリンを購入したんです(笑)。マンドリンは今でも演奏しています。マンドリンとヴァイオリンは調弦がまったく同じなんですよ。ただし、演奏方法は誰が見ても明らかなように完全に違っています。その後、2年間ほどはマンドリンに夢中になっていました。

それもあってマンドリンがだいぶこなれてきた頃に、ヴァイオリンを弾いてみたいという思いが湧いてきて、そこから本格的にヴァイオリンを始めたんです。とはいえ指使いに関してはさほど苦労することなく……基本的に同じ音程の取り方やチューニングも共通しているので。ただ、これまでにない弓使いという新たな課題を前にして、しかもフレットに頼ることもできないという(笑)、そこは最初はかなり苦戦しました。そこから2、3年間はヴァイオリンに打ち込む日々で、高校でもトップレベルのオーケストラに参加したり何だりして、一時期本気でプロのヴァイオリニストを目指してた時期もあったんですよ。とはいえ、自分は何もプロのヴァイオリニストになりたいわけじゃないってことに後になってから気づくんですけど(笑)。自分が本当に興味があったのは、あくまでも実験音楽や即興演奏だったので。高校生くらいになって、ある程度自由に楽器を弾きこなせるようになったと同時にすぐにバンドで演奏を始めました。半年くらい練習した後で、普通に色んなセッションの場に顔を出すようになってましたね。どこに行っても、即興である程度その場を乗りきれるくらいの状態にはなっていたと思います。とはいえ、まだ速弾きだの多くのテクニックを扱えたわけではなかったんですけど、それでも目の前で行われている音楽に即興で返せる程度にはなっていたので、その場でシンプルなフォーク・ソングを弾いてみたりして……その経験が今の自分にも本当に役に立っていますね。その間もずっとギターを弾いたり練習したりしていました。

当時はギターで曲を書くことが多かったので……ただ、面白いなと思うんですけど、現在に至るまでまわりから見て自分はどうやらギタリストっていうイメージがそんなにないらしくて(笑)。ただ、実際には多くの曲をギターで作り始めて、それをヴァイオリンなり他の楽器に変換するパターンで作っていることが多いんですよ。さらにギターの基礎のおかげで、他の楽器の役にも立っているし、2、3年前からペダルスティール・ギターも始めてるんですけど、そのときもギターで身につけたことがすごく役に立ちました。というか、基本的にどの弦楽器でも自分の中ではわりと身近で敷居が低い感覚ではあるんですが……それは音楽理論やギターで身につけてきたことのおかげです。あるいは後に音楽学校に通って、より本格的に音楽について学んだことが知識や演奏や、目の前にある楽器の音をどう扱うべきかを瞬時に理解するための手助けになっています。とはいえ、ヴァイオリンは長年に渡って自分がかなり真剣に向き合ってきた楽器の一つではありますね。ただ、多くのヴァイオリニストがこの壁に直面してると思うんですけど、ヴァイオリンという楽器に付随する複雑かつ膨大な背景に押し潰されてしまうというか……自分もそれで一時期ヴァイオリンとの仲がこじれてた時期もありました。クラシックの世界になると、そもそもの大前提として毎日の厳しい練習が不可欠ですし、さらに的確かつ高度な技術を求められるという、簡単に心がへし折れてしまいそうな膨大なものを背負うことになりますから……このまま行くとそもそも自分がなんでヴァイオリンを弾きたいと思った動機すら見失くなりそうで……自分の場合、元々のヴァイオリンへの入り口がフォークやフィドルのスタイルだったこともあり、クラシックのいわゆる王道のヴァイオリンの在り方について学べば学ぶほどに、それが余計に自分の中で足かせに感じられるようになってしまって……それでも自分なりにヴァイオリンを弾き続ける中で、この楽器が持つ魅力であり可能性をどれだけ多くものが引き出せるかに興味を持つようになりました。そこからヴァイオリンの音に若干の「下処理を加える」じゃないですけど、処理や加工やその他のテクニックを施してヴァイオリンの音を利用することに興味を持つようになりました。それもあって他の人の作品やパフォーマンスで、ヴァイオリンに限らず弦楽器全般で何かそうしたテクニックや加工を施してあるのを耳にすると、早速家に帰ってコピーして分析せずにはいられないんです(笑)。それが自分の音作りにおける大切なインスピレーション源となっていますね。大学院にいた頃、一時期ヴァイオリニストの道を手放しかけた時期もありました……とはいえ、それが自分もヴァイオリンと仲直りするきっかけをもたらしてくれた時期でもあるんです。というのも当時、わりと長めのドローン音楽でヴァイオリンを弾いてくれないか?というオファーがあって……パフォーマンス専攻のクラシック科の技術的に優れたヴァイオリニスト達はそういう風なのにそそられないわけです(笑)。おそらく、実験音楽的なものを下に見る傾向もそうした界隈ではあったんだと思います。ただ、自分はそのへん節操がないというか「どんな注文も引き受けます」みたいな姿勢だったゆえに(笑)、最初のプロジェクトを引き受けたところから次々とロサンゼルス界隈の大学や作曲家達からヴァイオリニストとして呼ばれる機会が増えていき、再びヴァイオリニストとして活動するようになっていきました。そこでの経験が、特に静かで長いトーンのドローン作品に参加することで、再び自分の中でのヴァイオリン熱に火がつきました。面白いことに、テキサスではフォークやロック界隈からフィドルの注文で呼ばれることが大半なんですけど、ニューヨークに移ってからはそれがほぼヴァイオリンになってます(笑)。しかも、そのほとんどがものすごく奇怪で変わった音楽で、かなり極端な演奏の注文が多いです(笑)。まさに自分にとっては素晴らしい理想的な環境です。サンアントニオでリードギターおよびヴァイオリン担当として呼ばれることが多かったんですけど、ニューヨークに来てからは「ヴァイオリンとペダルスティールだけお願い」っていう注文がほぼ中心です(笑)。

それともう一つ、この楽器と自分との関係において大事なことの一つとして……ああ、ごめんなさい(笑)、話が長くなっちゃって。でも、自分はアレンジメントを作るのが大好きで、これに関してはもう憑りつかれてるんですよ。それこそ自分の音楽活動において大事な一部分を占めているもので。10代の頃から自作の曲を録音しつつアレンジも自分で担当しつつってことを自然にしてきてたんですよ。サンアントニオ時代に、Joe Reyesという自分よりもだいぶ年上のメンター的存在の人がいて、その人が録音に力を貸してくれたり、あるいは自分の作品作りに呼んでくれたりしてくれて、彼の横で作業させてもらいながらレコーディングのイロハや、即興でアレンジを作っていく方法を教えて考える方法を学ばせてもらいましたね……そのときストリングスのアレンジメントについて教わって、そこでもう取り込まれてしまったというか、それ以来ずっと執拗に探求し続けている分野です。今現在、自分が本格的にプロとして関わっているプロジェクトや単純に個人的な趣味としてやってることの多くがストリングス・アレンジに関わる内容が中心になっています。例えば依頼者から送られてきた曲にストリングスやヴァイオリンのアレンジをつけて返す、みたいな感じで……それが自分の今の音楽活動にとって重要な基盤の一つになっていますね。クラシックのヴァイオリニストを目指した理由の一つの自分が耳で拾った音を自在にアレンジして演奏できる技術を身につけたいという気持ちからでした。

でも、だんだんと経験を積んでいく中で、それは自分なりの独自のスタイルでやっていけばいいという結論に至るようになりました。何も正統なクラシックの作曲方法や演奏スタイルに縛られる必要はないという柔軟な考え方に変化していきました。自分とヴァイオリンとの関係性のストーリーの中で、その気づきはすごく重要でしたね。高校生の頃から、ジャンルとか一切関係なしに、同時に4つのバンドのためにストリングス・アレンジを担当したりしてましたね(笑)。地元のサンアントニオ以外で初めて大きなストリングス・アレンジの仕事をしたのは、2000年代初期に《Bar/None Records》から作品を出してたOppenheimerというバンドで……当時18歳くらいのときに彼らのラスト・アルバムの曲でヴァイオリンを弾かせてもらったのと、かなり派手なストリングス・アレンジを手掛けさせてもらいましたね……あれは今思い返してもかなり強烈な経験でしたね。「えー、こんな大きな仕事を自分にまかせてもらえるなんて‼」って、すごく感動でした(笑)。でも、それが今では自分がこれまでの音楽キャリアを通して一貫してやり続けていることになっているどころか、最近になって増々そっち方面でお声をかけていただける機会が増えていて、主にインディー・ロック系のアーティストの作品を中心に関わらせてもらってますね。自分自身、そういったバンドの中で演奏してきたり、アレンジを担当させてもらってきた背景があるので……その一方で、実験音楽を始めとしたその他のジャンルの作品にも関わっています。本当にあっちこっちで演奏させてもらってます。

──今あなたが暮らしているニューヨークには、ローリー・アンダーソンからロブ・ムースまで、非常にユニークなヴァイオリン奏者が多くいますよね。

m:ええ、直接の面識はありませんけど、2人ともよく知っています(笑)。ローリーはもちろんのこと、10代の頃に自分の好きな作品で演奏しているヴァイオリニストは徹底的に調べ上げてたので、その一貫でロブ・ムースの名前に辿り着いたと記憶しています。当時、自分のMySpaceのページにも名前を登録していたはず……17歳か18歳くらいの頃ですかね? とにかく目についたヴァイオリニストやらストリング・プレイヤーは片っ端からチェックして、その人が他にどんな作品を手掛けたのか、これまでどういうストーリーを歩んできたのかを徹底的に調べてましたので(笑)。だから、ロブ・ムースのことも直接は知りませんが、彼の手掛けた作品についてはよく知っていますし、一時期すごくファンでした。しかもヴァイオリンだけでなく、名アレンジャーでもありますよね。たしかアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズの作品がきっかけで彼の名前に辿り着いたんだと思います。あと、スフィアン・スティーブンスの『illinoise』にも参加していましたよね? まあ、先ほどからお話ししている通り、少しでも自分のアンテナに引っかかった作品はすべてのクレジットに目を通して、関連アーティストや共通点をくまなく探すことをしていました。そこから何度も自分のお気に入りの作品の中に彼の名前を発見するようになって、「えー、この作品も彼なの⁉」って(笑)。

──わかります。私も昔からそうやってディグするのが趣味です(笑)。ロブ・ムースは最近ではテイラー・スウィフトの作品にも参加していますね。ザ・ナショナル経由ですね。

m:そうそう(笑)! ひと昔前だったら、あり得ないですよね(笑)! かつてインディー・ロックや即興音楽や実験音楽の世界にいた人達がメインストリームの大物アーティストの作品に呼ばれるなんて!

more eaze(photos by Luke Ivanovich)

──今回の『no floor』の話に入る前に、2022年にリリースされた2人のコラボ作『Never Stop Texting Me』についても聞かせてください。あれはまるでポップ・ミュージックの形式やロック・バンドのフォルムを楽しんでいるようにも思えましたし、ハイパーポップやエモラップの要素もありました。何よりヴォーカルやハーモニーがあったのがとても新鮮でした。あのアルバムはどのようなヴィジョンで作られたものなのですか。

m:クレアも私もジャンルを問わずありとあらゆる音楽を大量に聴きまくっているので、好きな音楽の重なる共通項の一つにポップ・ミュージックもあるんです。それであのような作品に至りました。クレアが最初にいくつか曲のアイディアをスケッチ的に準備してくれていて「こういう形で、プロダクションはこんな感じで、こういう風な感じのポップ・ミュージックを作りたい」ってうのを最初に提案してくれました。そこからさらに音源をやり取りし出して、自分がほぼ完全に仕上げた曲をクレアに渡してヴォーカルだけ付け足してもらったり、2人で隣り合わせになって作業しながら一緒に作り出していった曲もあります。ただ動機は純粋にポップ・ミュージックを作ることを目指してました。2人とも大好きなんだけど、普段自分達が音楽を作るときにはなかなか手を出さないスタイルの音楽を作ってみようと思いました。ある種のジャンルの音楽を揶揄したり斜に構えたりするような姿勢は一切なく真剣に「この手の音楽から自分達は何を感じたいのか? どこを切り取って自分達の音楽に取り入れて独自の形に変換できるのか?」ということを真剣に考えていました。当時、2人ともプライベートで色々と困難を迎えていたこともあり、この音楽にある種の逃避を求めていたのもあるかと思います。この音楽の世界の中だけでは色とりどりの華やかで明るい楽しい世界が広がっているように……これまで2人で一緒に作ってきたどちらかというとストイックなイメージの音楽とは対照的に。もう本当にポップ・ミュージックへのラヴレターであり、お互いへのラヴレターであり、自分達が作ってる音楽への純粋なラヴレターですよね。ただ、面白いのは多くの人から私達が冷やかしでこういう音楽をやってると思われたことです(笑)。これまで作った作品の中で最も真摯な気持ちで作ったにもかかわらず(笑)! もう本当にストレートに愛情を示した形なんですけどね。それに関連して興味深いことに、最近になってあのときの自分達と同じようにそれまでとまったく違う路線の作品を出しているアーティストの例がチラホラ出てきているような……ただ、他の人達はなぜか私達ほどそのへんを突っ込まれていない気がするんですよね(笑)。例えば、アラン・スパーホークの最新のソロ(『White Roses, My God』2024年)なんて、全編オートチューンの声を使ってて『Never Stop Texting Me』と同じノリを感じるんですよ。実際、あの作品が出たときメールボックスの中身が「アラン・スパーホークの最新作聴いた? 『Never Stop Texting Me』にそっくりなんだけど!」っていうメッセージで埋め尽くされてたくらい(笑)、自分でもそうだなって思いました。ただ、アラン・スパーホークのアルバムに関してはその点に関してはわりとスルーというか、とくに疑いの目で見られることもなく……そこがすごく興味深いとも思うんですけど、少なくともあのときの自分とクレアほどうがった見方はされてなかったはずです(笑)。ここでジェンダーの話題を持ち出すつもりは毛頭ないですけど。ただ、もしかしてそういうことも関係してるのかもしれませんね。ただ、『Never Stop Texting Me』は本当に自分達なりにポップ・ミュージックというものに真摯に向き合っていた作品で、たとえ自分達はその枠組の中の住人ではなくても、外側からその枠組みにぶつかって取り組んでみようという試みでした。それともう一つ個人的に《Lovely Music Limited》というレーベルへの愛もあります。1970年代に設立された素晴らしいレーベルで、アルヴィン・ルシエやロバート・アシュリー以外にも、ピーター・ゴードンみたいな偉大な作曲家や、他にも……ああ、ごめんなさい、頭が真っ白になっちゃって名前が浮かばずに申し訳ないんですけど、ニューヨークの実験音楽やミニマリズムのシーンに携わりながらも、ポップ・ミュージックを作っていた作曲家達です。ポップ・ミュージックを深く愛して誠実に向き合ってるんですけども、その型を少しだけ崩したり歪めたりっていうことをしていた人達です。アルバムを制作しながら彼らの作品が頭の片隅にあったように思います。例えばピーター・ゴードン『Star Jaws』だったり、ロベルト・カッチャパーリアの『The Ann Steel Album』なんかの作品を意識していました。もう本当に真摯な作曲家達がポップ・ミュージックを深く愛しつつ、普通とは別の視点からそこにアプローチしている姿勢というか……それを自分達がやったらどうなるんだろう?という視点から取り組んで見たような感じです。2人ともポップ・ミュージックが大好きですし、とくに2020年や2021年くらいは、よく2人で一緒にポップやラップのレコードを大量に聴きながら「わ、これいいね」、「いいね、すごいね」なんてやりとりをえんえんとやってたんです。そのときの経験があのアルバムの元になってると思います。

──そして、今回の『no floor』はまた全く異なる内容のインストゥルメンタル・アルバムです。いつ頃、どのようなアイデアからスタートした作品なのか、何にテーマを置いて作ったのか、詳しくおしえてください。

m:今回の作品に取りかかる前に、ちょうど《Kranky Records》についての本を読み終えたばっかりのタイミングだったんですよ。たしか『You’re With Stupid』というタイトルだったと思うんですけど、それもあって《Kranky》やその周辺の音楽を大量に聴いてたんですよ。読み終えるなりクレアにも「絶対にいいから読んで!」ってゴリ押しして、ほぼ同時期にその本に触発されてるんですけど、そこからあのレーベルの過去のカタログを始め90年代のシカゴのポストロックや実験音楽の世界にハマっていきました。だから《Kranky》からの影響を受けて作ったアルバムなんです。そのあと一緒に音楽を作る流れになるんですけど、そこで最初に作った曲のうちの1つで今のところ世に出す予定はない曲の中に前回の『Never Stop Texting Me』と今回の『no floor』のちょうど中間のような曲があるんですよね。ポップ・ソングでヴォーカル入りなんですけど、アレンジや全体の構成の部分は『no floor』に近くてあえて冗長かつ構築された形にしてあるんです。その曲を作った直後に「今、一番インスピレーションを感じる音楽に沿ったアルバムを作るのはどうだろう?」ということになって、レコーディング過程で何度も話題に上がったのが、スターズ・オブ・ザ・リッドでした。それで最初冗談で“スターズ・オブ・ザ・リッド(*瞼に浮かぶ星)”を文字って、このプロジェクトを“Dolls of the Lid(瞼に浮かぶお人形さん)”と銘打って曲のアイデアをすべて“Dolls of the Lid”名義のフォルダに放り込んでいったんですよ(笑)。

ただ、かなり早い段階からそこに自分達なりのルールを課していきました。「①すでにやったことや得意な分野に頼りすぎない、②2人のうちどちらが何をやっているのかの役割を曖昧にする」などなど。もちろん、楽器担当に関してはペダルスティール・ギターなら自分、ピアノだったらクレアだし、誰が見てもわかるような役割分担はされてるんですけど、それ以外の部分はどっちがどっちかわからないようにあえて境界線をぼかしていくようにしました。そこでさらに設けたルールの一つが「ヴォーカルなしで行こう」ということでした。というのも、これまで作品は何らかの形でヴォーカルが関わっていたこともあり……例えば最初の『If I Don’t Let Myself Be Happy Now, Then When?』は自分がヴォーカルを担当してるんですけど、その後の作品では2人とも何らかの形でヴォーカルに関わっていました。それこそ実際に歌っているケースにしろ、ASMRっぽい要素だったとしても。だから今回は「どちらも歌わないレコードを作ろう」ということになったんです。

もう一つの大きなルールは、フィールド録音の使用を極力抑えることでした。今回のレコーディングでフィールド録音を使ってる曲はおそらく数曲だと思うんですけど、例えば前作の『Never Stop Texting Me』のときには曲の半分にフィールド録音が使用されているくらい重要な要素を占めていました。そうやって色んな要素をコラージュして組み合わせていく手法が自分達の音楽作りのプロセスにおいて重要な要素を占めているからです。ただし、今回の意図としては曲のアレンジや構成の部分に焦点を絞って、より人工的なサウンドのテクスチャーにフォーカスした音楽を作ろうと思いました。時間という枠を超越したところに存在する音楽みたいなイメージを想像してたんですよね。例えば、スターズ・オブ・ザ・リッドの初期のレコードってどこか時間を超越した永遠を思わせるような、70年代の音楽かもしれないし、90年代の音楽かもしれないし、というかまあ、90年代の音楽なんですけど、あるいは昨日できたばかりの音楽にも感じられるという……そこから、ここにしか存在しない単独の時空間を作ろうと思ったわけです。特定の時代やスタイルとも、個々の自分達のカラーとも結びついていないながらも、自分達らしい作品を作れないかと考えました。実際にそれが実現できたと思います。というのも、他ではなかなか見ないアンビエント音楽を作ろうというという意志の元に色んな決定を下していったからです。ここまで歪で奇妙なグリッジ音を効かせまくった音楽をやってる人は錚なかなかないはずですし(笑)。ある特定のスタイルで曲作りすることに集中した結果であり、しかも2人が一緒に作業したからこそ生まれたもので、どこまでも強烈なまでに個である同時に、それすらも全体の一部に溶け込んでしまうような音楽を目指していたんです……これまで作品の多くは、どちらかというとお互いの色を重視して、自分とクレアの音が二項対立をあえて強調する見せ方をしましたが、今回はその反対なんです。これは2人して話し合った結果そうしたことで。ただ、今回のアルバムでは両者の境界線を曖昧にして、お互いの色が完全に溶け合った状態で一つの作品を作り上げるというコンセプトを核としているんです。

──《Kranky》は言わずと知れたシカゴの名レーベルですが、本作は同じく90年代以降のシカゴの重要レーベル《Thrill Jockey》からリリースされました。

m:もちろん、これは全然ダジャレのつもりじゃないですけど、《Thrill Jockey》から作品を出せるなんて、本当に大興奮(Thrilled)しています(笑)。もう本当に大好きなレーベルで、クレアの前作が《Thrill Jockey》から出ると知ったときも大興奮しました! ただ、まさか今回のアルバムまで出してもらえるとは想像もしてませんでした。本当に感激しています。チームも素晴らしくて、スタッフの皆さんも本当にびっくりするほど素晴らしいんです。もうガチの《Thrill Jockey》ファンですし、あのレーベルからリリースされた音楽の多くが自分が今作っている音楽の基盤になっているみたいなものです。90年代から長年に渡ってリリースされてきた数々の名作が自分にとっては大きな糧となってるし、いまだに大きな影響を受けています。それもあって作品を出させてもらえるなんてひたすら光栄でしかなく、本当に自分の音楽に大きな影響を与えてくれたレーベルです。中でも思い入れがあるのがマウス・オン・マーズの『Ideology』という作品で、他の多くの音楽への興味を広げるきっかけとなった自分が成長する過程においてすごく影響を受けた作品です。そんな特別な一枚と同じところから作品を出させてもらえるなんて、本当に自分でもしみじみ感慨深いです。それともう一人大ファンであるのが、竹村延和さんで『Scope』は私にとっておそらく人生ベスト10に入る一作で、彼のグリッチ音楽にすごく影響を受けていますし、自分自身の音楽に常に追い求めている要素が詰まっています。さらにほぼ室内楽に近いような要素もあって、そこにも自分の作品とすごく共鳴し合う部分を感じます。それから最近好きな作品で言えば、エレン・アークブロ&ヨハン・グレイデンが数年前にスリル・ジョッキーからリリースしたアルバムが大好きで、しょっちゅう聴いています。完璧に素晴らしい作曲と実験的の要素が見事なバランスを描いている作品だと思います。さらにザ・シー・アンド・ケイクやトータスなんて言わずもがな大好きなバンドだし、あるいはミクロストリアやオヴァルや、とくに2000年代のグリッジノイズ系の作品からは相当影響を受けていますね。

──『no floor』はインスト作品ですし、エレクトリックだったりグリッジノイズが使用されていたり、でもストリングスも使われているし、全体的にはドラマティックで非常に雄弁な、歌詞や歌はないけれど、とても抒情性のある作品になっていると思いました。昔のコクトー・ツインズやハロルド・バッドのような側面もあるし、坂本龍一やデヴィッド・シルヴィアンのような美しく荘厳な側面もあると思います。作品として、どこに着地点、帰結点を求めたのでしょうか。

m:そこも大きなポイントの一つです。というか、まず何よりも今のような方々の名前を挙げてくださり感謝です(笑)。アルバム制作中に2人の間でよく引き合いに出されてたのがハロルド・バッドで、全ディスコグラフィーの名前を出してました。それから個人的にはパズルの最後の1ピースになったのがフェネス+サカモトの作品で。まだ若かった頃はあの作品の偉大さをそこまで理解できなかったんですが、年齢を重ねて再び聴き直して「ああ、なんて素晴らしいんだろう」としみじみ感じるようになりました。全体を包み込んでくれるような美しさがありながら、その下にザラザラした質感というか、鋭い感覚や緊張感が潜んでいるんです。表面には出てこない神経をザワつかせる感じというか。それは今回私たちがやりたかったことです。私たちはアンビエント音楽が大好きで、その形式やテクスチャーに沿って作品作りを楽しんでいますが、そこから少しずつ形が進化して発展していくような感じにしたくて、アルバム全体を通して常に押し引きを繰り返しているような感じです。落ち着いた平穏な状態が安定してずっと続くのではなく、どこかから絶えず何かが割り込んでくるような、あるいは破綻を迎える瞬間を作りたいと考えたんです。そのため取った一つの方法としてOP–Zというシンセサイザーを使ってプログラムを組んで、アルペジオがランダムに、しかもゆっくりしたペースの中で毎回徐々に変化しながらサイクルのように循環していくシステムを構築しました。しかも、そのプロセスが行われている間に、シンセサイザーから情報をMIDI信号として送ることも可能です。だから、実際のオーディオを録音しながら、MIDI信号をAbletonに送信して、そのMIDIとオーディオを処理したり、ピッチシフターを使ったり、音が割れていくように設定したりして……そうするとまるでPCが誤作動を起こしてるような音が出たりして。まるでPCが拒絶反応を起こしてるみたいに(笑)。だから、アンビエント音楽をテンプレートにしながら、非常にゆったりとしたハーモニックな動きをしていくようにしたかったんです。

それと同時に常に少しずつ変化していく形にしたくて……例えば特定の楽器のテクスチャーが入ってきたり、特定のサウンドが割り込んできてドローン音を中断させたり、これが今回のアルバム全体を通じての一つの大きなコンセプトの一部となっています。そこでハーモニックな言語やコード進行を確立したうえで、それが絶えず形を変えて進化していくのを見守っていくような感じというか。それが今回のアルバムにドラマティックな展開をもたらしてるとは思わないんですけど、ただアルバム全体に弧を描くような役目を果たしていると思います。それからこれも2人でさんざん話し合ったことなんですけど、クライマックスや結論は必ずしも同一線上に順序立てて起こるわけではないってことです。唯一それに近いかなと思えるのはラストの「low country」ぐらいで……どんどん音を積み重ねていって押して押して、ようやくクライマックスの展開が訪れるだろうというタイミングで、ポンと弾け散ってしまうような……それ以上その先に進めないからそうなる、みたいな感じで。このへんのアプローチは編集やミキシングをする中ですごく意識していたことですね。アルバム全体の流れに関して一番意識したことの一つとして、着実に前には進んでるんですけどそれが予定調和のスピードでは起きないんです。時折、静止してるような瞬間が訪れて、そこから一瞬打ち上がったかなと思ったら、一気にしぼんでいくみたいな感じです。全体を通してそういった動きを意識してました。

──ところで、昨年セス・グラハムとユニットを出しましたよね。—__–____という読めない表記の。

m:アハハハハ、アレ、ですね(笑)! 残念ながら発音はできないんですよ(笑)。あのバンド名に関しては、セスから記号が送られてきて「これをバンド名にするってどう?」って訊かれて、「ああ、いいんじゃない?」って(笑)、いつもそんな感じのやりとりです。2人とも実用性について深く考えていなかったためにこうなりました(笑)。もう何年も前に、セスが《South by South West(SXSW)》で当時テキサスの私の家に滞在してたときからの仲なんですよ。元々ネットで繋がってて、しかも彼がやってる《Orange Milk》レーベルの大ファンで購入者として自然と近くなりました。《Orange Milk》自体がすごく小さなレーベルで、配送なんかもほぼすべて一人でやりくりしてるような感じなので、注文したはずのテープが届かなかったりした件でしょっちゅう問い合わせをしてたところから自然に交流するようになって、そこから2015年にそれぞれ別に制作した作品があちこちの媒体で年間ベストとして並べて取り上げられたり、2人ともその年の《SXSW》に招待されたのがきっかけで、彼がテキサスの私の家に滞在したのがきっかけで、そこからずっと友達なんですよ。数年前に彼のソロ・アルバムで私が歌ったり、その前に彼のアルバム『Gasp』をミックスしたり、その他にもミックスを手伝ったりして、昔から色んな形でコラボレーション自体はしてたんですよ。そこからセスが後から私に歌わせたり、ストリングスのアレンジを足したりする前提で曲を書き始めて、それを実際に実現させたのがこのプロジェクトになります。

あのアルバムに関しては、今現在アメリカや特に彼が住んでるオハイオで起こっている非常にストレスフルな抑圧状態について扱ってるものです。彼は自身のルーツの奥深くに立ち返るように、思春期にハードコアに出会ってスクリーモを、しかもキリスト教的な文脈の中で捉えるということをしています。そこから制作過程で彼の作った曲に私が音を足していく中で、これまで2人で一緒にやってきたこととはまるで違うことをしたいという思いが強くなりました。以前の作品では美しい部分は美しいところ、激しいところは激しいところで分けてあったんですけど、自分達の表現を発展させるためにはその両者が完全に混じり合う形にしなければと思うようになりました。ものすごく激しいデジタル音によるノイズが展開していく中で、その下には美しいヴァイオリンがオーケストラ的なハーモニーを奏でているように。あるいは自分の歌い方にしても一貫してクリーンな歌い方を心がけるようにして、叫び声だの何だのそういった要素は全てGalen (・Tipton/ Recovery Girⅼ)にお任せするということを基本としていました。ノイズや混沌の中で美しさを見つけたり、それを組み合わせたりするという、このちょっと奇妙な世界を作り上げることが目標にして、そのアイデアについてはセスも乗ってくれて実現したのがあの作品になります。

──とにかく、あなたはクレア同様に非常に多作で、さまざまなレーベルから次々と異なる作品をリリースしています。今回の取材ではとうてい質問しきれないほど多くの作品を常に作っている印象ですが、なぜこれほど多作なのでしょうか。作った曲をすぐさま形にして公開するというスピードに対して、どのようなカタルシスがあると思っていますか。

m:いや、これがまた面白いんですけど、正直、完成してからすぐにリリースできるわけじゃないんですよね。もし自分ですべて決定できるなら、今よりももっと速攻でリリースしちゃうと思います(笑)、できるだけ早く出したいタイプなので……というか、昨日まさにこのことを考えていたんですよ。もちろん、作品と作品の間に時間があいてしまうのも全然いいと思うんですよ。ただ自分にとってミュージシャンをやったり、音楽をやってそこから学びや気づきを得たり、あるいは常に色んな人達とコラボレーションしてることも含めて、きっかけというか動機づけみたいな「今、なんで音楽を作ってないの? なんで?」っていう、日常的に自分自身にリマインドにするためのお尻を叩くような役目として機能しているというか(笑)。だってもう、本当に音楽を作るのが好きすぎて、これが自分の一番やりたいことなんです。たしかに自分の仕事ではありますけど、こうしてこれをやってることがすごく幸せでたまらないんです。たしかに、今のデジタル社会でPRサイクルが時間をかけてじっくり作品に取り組みたいアーティストやあくまでも自分のペースでやりたい人達にとってプレッシャーになったり、かえって足かせになってる部分もあると思いますけど、自分は必ずしもカタルシスのために多作のスタイルに落ち着いてるわけじゃないんですね。というよりも、単純に物作りが好きで、頼まれたら喜んで手伝いますし、単に自分が興味があるからやってるだけなんです。だから必ずしも毎回作品に結びつくことを期待しているわけでもないし、単純に面白そうだからやっているだけで、リリースのタイミングに関しては無頓着なんですよ。ちょうど今回の『no floor』と同じタイミングでリン・エイヴリーと作ったデュオ・アルバムがリリースされるのですが(Pink Must名義の『Pink Must』)、どちらも相当前に完成してて……『no floor』は1年以上前に完成してますし、考えてみたらリン・エイヴリーとのPink Mustはほぼ同じ時期に完成してますね。ただ、それをそのまま寝かして放置していたせいで……複数のレーベルから作品を出してると、当然ながらレーベル同士がお互いに連絡を取り合っているわけじゃないので、気がついたら1か月以内に2枚!という状況に陥り(笑)、今、両方のプレス対応の調整でてんやわんや状態(笑)。でも、自分にとってはそれがミュージシャンをやってることの一環って感じなんですね。そこで思い浮かべるのは、これまた大好きなミュージシャンのうちの一人のジム・オルークなんですけど、名門《Drag City》から大作を出してる一方で、複数の小規模なレーベルから即興やエレクトロ/アコースティック系のアルバムを数か月以内に次々とリリースするみたいなことをしてますよね。そのスタイルがミュージシャンとしてすごく誠実なあり方だなあと思っちゃうんですよね。私自身、まったく何も作っていない、何も考えていない時期がないといったら嘘になりますし……しかも、以前は一般職にもついてたんですが、今はこれが自分の仕事になっているわけで(笑)、普通に仕事をしている人と同じで「普通にそういうものじゃない?」っていう感覚です(笑)。だから、人から歌ってって言われてその曲を気に入ったら普通に歌いますし、ストリングス・アレンジが必要だってお声がかかれば手伝いにいきます。自分としては職業ミュージシャンの役目をこなして、作品を書いたり色々試みたりしてるだけなんですよ。正直、忙しすぎてもっと自分の作品に費やす時間があればいいのにと思うこともあります。個人的にやりたいことのアイデアがまだまだたくさんあって追いついていかないくらいなので! とはいえ、誰かとコラボレーションする方が気楽だし単純に楽しいので、ついそっちのほうに流れてしまいます(笑)。自分の働き方のスタイルとしては本当にそんな感じですね。

ただ、2015年にモア・イーズを始めてから最初の何作かをリリースした頃は鬼のように多作で、今思うとあり得ないほどのスピード・スパンで音楽を作っていました。ただ、それは不安や鬱に苛まれていたせいで自分自身に没頭できる唯一の方法が音楽を作ることだったことも関係しています。それで膨大な量の音楽を作り続けていました。当時はカセットテープをリリースしてる小さなレーベルがたくさんあったので狂ったような勢いで作品を作っては大量放出してという、今思うとかなり不健康なやり方をしていたと思います(笑)。ただ、2019年以降はそうした働き方に確実に変化が訪れて、それ以降はすべて意図して計画的にやっていますね……とはいえ、それでも他の人から見たら手当たり次第に大量に映るかもしれせんが(笑)。ただ、それはさっきも話にもあったように単に自分がミュージシャンであることの一環として、日々自分がやるべきことをやっているって感覚です。曲を書いてレコーディングして録音してリリースする。それだけなんです。

──話が横道にそれてばかりですみません! で、クレアとの新作の『no floor』というタイトルはとても興味深いですが、どのような意味をそこに与えたのでしょうか。

m:これは種明かしをすると、これまで出したアルバムすべてに「floor」という名前の曲が含まれています(笑)。現在「floor pt.3」まであります。今回も元々「floor pt.4」という曲に着手してるんですけど、完成されることなくボツになってしまいました。ただ、そこから今回のアルバムになって、このタイトルになりました。「floor」のタイトルを持つ曲はそれぞれテーマ的または音楽的に繋がってるんですけど、今回のアルバムでは初めて「floor」という名前のトラックが含まれていなくて、それがなんかいいなと思って(笑)。あと「floor」っていうタイトルの曲がないのと、「天井」や「敷居」がないとの二重の意味を持たせるところができるのもいいなって思いました。自分の中での今回のアルバムのイメージがまさにそうで、これまでのリリースに比べてオープンで解放感があって。これまでの私たちのリリースは閉じられた内向きな私たちの世界みたいな感じだったのが、このアルバムはより解放的で外に向かって開けているように感じられるので。実際、今回のアルバムのアートワークにもそれが反映されている気がします。自分達の閉じられた限定的で特異な音響的な世界を超えた、大きな広がりや解放感に通じるというか。

──最後はナイーヴな質問です。今テキサスからニューヨークに移って2年目ですが、ニューヨークにはテキサスに比べてもっと自由で開かれたLGBTQのカルチャーがありますよね。実際にそうした新しいニューヨークでの暮らしがどのようにプラスに働いていますか。

m:テキサスって人々が思っている以上に実は多面的だったりするんです。もちろん、LGBTQの人々の自由をコントロールしようとする最悪な政治家や政治基盤が存在するのも事実としてはあるんですけど、私自身は、いくつかの例外を除いてテキサスでは比較的安全で暮らしやすい環境という印象です。まあ、傍から見ただけではトランスジェンダーかどうか見分けがつかないこともあるのかもしれませんけど。普通にセクシャリティについて問われることもなく、自分が自分としてそこにいられるなら「何か問題でも?」って話ですし、訊かれてもないのにわざわざ自分から宣言するようなことでもないですし(笑)。要するに日常生活でとくに困ってないなら、根本的に大した問題ではないってことです。

ただ、ニューヨークに移ってからテキサスに戻ってカルチャ―的に差を感じたこともありますね。昨夜も友人と話していたのですけど、トランスジェンダーの中でもとくにレズビアンやトランスフェミニン系のカルチャーの中では特定のタイプの女性らしさを強調する傾向がニューヨークよりも明らかに強いんです。ニューヨークではそのへんがもっと幅広くて、ただ、テキサスのトランスフェミニンだったりレズビアンの友人の多くは女性らしさを強調しているファッションを好む傾向にあるように思います。もちろん、私もときどき女性らしい恰好を楽しむこともありますが、普段はご覧の通りネルシャツとズボンの楽なスタイルばかりです(笑)。ただ、テキサス文化は外見や他人に自分がどうみられるのかってことに重きが置かれてる傾向にあるように感じます。それは自己防衛的なものかもしれないし、あるいは歴史的に綿々と受け継がれている封建的価値観からくるわかりやすく女性的なイメージに反応してるのかもしれません。例えばクラブに出かけるときなんかもテキサスのほうが非常にわかりやすくそれっぽい恰好で出ていくことが望まれる傾向にあると思います。それに対してニューヨークでは意外とそこに頓着しないところが面白いなあと思って。クィアなカルチャ―の中でもニューヨークのほうがもっと多様性があるように感じます。私と自分のパートナーは、普段の生活の中ではどちらかというとアンドロジナス的レズビアンに属するのかもしれません。もちろん、ときどきは女性らしく着飾ったりすることもありますが、自分が自分らしくあるために必須ではないんです。少なくともニューヨークではあんまり意識することはありませんね。もちろん、ニューヨークにもそれとは違う一面もありますけど……結局、自分がどこで居心地と良いと感じるかですよね。

もちろん、フェミニンな振舞いをするのが本人にとって一番心地良いならそれでいいんです。ただ、ニューヨークではクィアの形にも多様性があって、性別やセクシャリティについてより幅広く理解されて受け入れられているように感じます。そもそもそうしたクラブやコミュニティの数自体がテキサスに比べて絶対的に多いぶん、豊富に存在する場所だからこそ、そうした多様性という面でも開かれています。何しろ色んなバックグラウンドを持つ人々が一つの場所に集まっている場所でもありますし、当然、多様性に接する機会も増えます。その点、テキサスではもっと限られていて元々のカルチャーや政治基盤による圧によって、トランスジェンダーの安全が脅かされているという問題もあります。特にテキサスの小さな田舎町では出生とは違う性を名乗ることや見た目や態度がクィアであるだけでも身の危険に繋がりかねない深刻な状況ではあります。ニューヨークでは多種多様な人々がひしめきあって暮らしているため、お互いの違いをある程度容認する必要があるように思います。ただ、これはアメリカやニューヨークに限らず、世界中どこでも、日本でも同じだと思います。都会に暮らしている人ほど、お互いの違いを受け入れながら共存していこうという意識が強い気がします。実際、自分もトランス女性として様々な人々と関わることが多く、その結果、自然に身近な人間同士の繋がりからコミュニティとしての共存感覚が養われていると思います。それは単純に多種多様な人々に日常的に囲まれているところからくるものだと思います。

──今のあなたはもはや地域に限定しない存在です。かつてリリースしたこともある《Leaving Records》から出たカリフォルニアの山火事のチャリティ・アルバムにも参加していましたね。

m:そう、《Leaving Records》からも作品を出していますからね。カリフォルニアは自分にとって特別な愛情を抱いている場所でもあります。もし状況が違っていれば今でもずっとロサンゼルスにずっと住んでいたかもしれません。個人的には西海岸より東海岸のほうが肌に合っている気がしますが、とはいえ西海岸も今でも自分にとって特別な場所であることには変わりありません。家族や友人もたくさん住んでいますし、最初に山火事のニュースを知ったときは本当に胸が絞めつけられる思いでしたし、自分もただ遠くからその状況を見ることしかできないのが辛くて辛くて。自分の知っている場所が大きな被害を受けたことや、被害を受けたパサデナやアルタデナ地域に暮らしている友人達もいて、クレアも今回自宅から避難することを余儀なくされて、もう本当に胸が押し潰される思いでした……幸いなことに彼女は無事で、彼女の持ち物は無事だったようですが、大好きな友人に「大丈夫? 安全なの?」と確認するにも恐怖なくらい不安でたまりませんでした。個人的に特に胸が痛んだのが、マリブやパシフィック・コースト・ハイウェイの大部分が壊滅的な被害を受けたことで……実際、ロサンゼルスに暮らしていた頃、癒しを求めてしょっちゅう通ってた場所です。これは自分が魚座だからかもしれませんが、海やビーチが好きで水のそばにいると落ち着くんです。ロサンゼルス時代は大学のある場所の関係で砂漠の近くで暮らしてたんですけど、休日には車を走らせてマリブのポイント・デュームまで通ってました。長年自分にとってお気に入りの場所で、これからも変わらず残っていってくれることを願っています。もう本当に平穏で美しくて開かれた場所で、海の透明度も高くて、丘から見える景色も最高で、何度もそこでクジラやアザラシの姿を発見しました。本当に美しい特別な場所です。今回、《Leaving Records》から山火事のチャリティのためのコンピレーション盤の打診を受けたときに「絶対にやりたい」と思って、自分にとって特別な場所であり続ける場所をモチーフに「Point Dume」を制作しました。曲を制作するにあたってカリフォルニア時代に好きでよく聴いていた音楽をあの風景のことを思い出しながら、最近あまりやっていなかった若干グリッチだったりミュージック・コンクレート寄りの美しい曲に仕上げたいと思いした。カリフォルニアで暮らしていた頃は、それこそ先ほどから話にも上がってる竹村延和さんやミクロストリアなどの《Thrill Jockey》まわりのアーティストにどっぷりハマっていたんですよ。彼らの音楽を大音量で流しながらマリブや海岸線をドライヴしたときの経験が今でも美しい思い出として自分に焼きついています。だから、カリフォルニアへのトリビュートでもあるし、あの頃の自分へのささやかなトリビュートでもあるんです。しかもミュージシャンで生計を立ててる者として微力ながら、自分の作品を通じて友人やコミュニティに貢献できるのであれば、何よりも光栄で正しいことだと思って今回協力させていただきました。

──もっともっと伺いたいことがあるのですが、既にもう2時間経過してしまいました(笑)。

m:いえいえ、こちらこそ。もう何年も前から私の音楽を追いかけてもらってることに心から感謝しています。自分の作品についてここまで詳しい方とお話しできるなんて本当に滅多にない機会なので、嬉しくて色々話しちゃいました(笑)。私全然気にしていなかったんだけど、今、日本は深夜の時間帯なんですよね? どうか明日に支障が出ませんように。考えなしにインタヴューの希望時間を出して、取材時間が決まった後に初めて日本と時差があることを思い出して「ああああああ、なんてひどいことをしちゃったんだろう!」って(笑)。

──全然問題ないですよ。とても有意義な時間でした。ぜひ日本に来てほしいです。

m:はい、クレアと2人でそのことについても話し合ってるので実現することを祈っています。秋になるのか冬になるのかわかりませんが実現できればといいと思っています。もう本当に日本に行きたくて仕方がありません。この会話の中でもたびたび触れていますが、私のお気に入りのアーティストや多くは日本のアーティストなので、彼らの世界観をもっと深く理解するためにぜひ日本を経験してみたいです。

──クレアは去年《FESTIVAL de FRUE》に出演していますよ。去年はケイ・ロギンスのタイム・ワープも出演しました。

m:ああ、ケイは親しい友人です! 彼女もニューヨーク在住で、本当に素晴らしい人です。ていうか、彼女最高でしょ(笑)。いつも冗談ばっかり言ってて(笑)。以前、彼女がやったコメディ・プロジェクトにギターで参加したこともありますよ(笑)。周囲の人脈がめちゃくちゃ繋がってて面白いですね! 

<了>


Text By Shino Okamura


more eaze & claire rousay

『no floor』

RELEASE DATE : 2025.03.21
LABEL : Thrill Jockey / HEADZ
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