【From My Bookshelf】
Vol.9
『Hマートで泣きながら』
ミシェル・ザウナー(著)雨海 弘美 (訳)
ミシェル・ザウナーの回顧録、その決意を追って
『Hマートで泣きながら』を読むと、愛しい誰かの顔が浮かんでくるはずだ。母と娘の関係を赤裸々に綴ったジャパニーズ・ブレックファストことミシェル・ザウナーの回顧録は、生きていくなかで経験する普遍的なテーマを取り上げている。家族、親戚、故郷の料理、愛する人の喪失……。読み進めて気づいたのは、ザウナーの目線が母親から憧れの人へと移り変わり、自分の夢へ向かったことだ。そして彼女を救ったのは韓国料理と音楽だった。
厳しすぎる母のもとで幼少期を過ごしたザウナーの体験は、今なら毒親と言われかねないエピソードも登場する。怪我をして血を流し、泣き叫ぶ我が子。それを怒鳴る(叱るではない)だなんてと、最初は読むのをしんどく感じる描写もあった。しかしこれは、少なからず私も似たような家庭で育ったからだろう。こうした人に言いにくい母と娘の関係を包み隠さず綴ったことも、人種を超えて共感されるテーマだと思う。
そんな幼少期から母の顔色を伺っていたザウナーが、はじめて自分の意思で夢中になったものが音楽だ。この選択が救いになる。この本のなかで、“5 ワインはどこかな”の箇所をとくに読んでほしい。音楽ジャーナリストを一度は志したという彼女が、好きな音楽について語る章なのだ。たとえばフー・ファイターズの「Everlong」はアコースティック・バージョンのほうが上か否かなどの議論に始まり、バンド仲間と眩しい笑顔でライヴの感想を話す。さらにはヘアスタイルからアクセサリーまでつぶさに観察し説明してみせる。10代の頃あなたもしたであろう、できる限りの工夫を施したファッション。それは大切な自己表現だった。ほかにもペンキで家具をカスタマイズするなど、甘酸っぱい記録が印象的だ。そして憧れのアーティスト、カレン・Oへの想いを素直に綴る。音楽のことになると、つい饒舌になってしまうファンゆえの流暢な文章に頷くばかりだ。ヤー・ヤー・ヤーズのライヴDVDを観たときに、同じアジア系の女性アーティストが求められる従順なステレオタイプに染まることなく、自由にパフォーマンスをしている。その勇姿を見て、ザウナーは音楽の道を追った。今ではザウナーが《Fuji Rock Festival》や韓国ソウルでの凱旋公演を行う。パフォーマンスをする姿を目撃して、そしてこの本を通して、繋がるように共感は広がるのだろう。若くして親を亡くした人や親の介護をしている人は、自分だけじゃないと束の間でも安堵するかもしれない。きっと音楽への道を選択する人だっているはずだ。
そして彼女を何度も救ったのが韓国料理なのは間違いない。『Hマートで泣きながら』を読んで不思議に思うのは、ザウナーが鬱になったときも、母を失い喪失のなかにいるときも、親戚のおばさんと集まるときも、必ず食事を尊重していること。涙を流しながら食べるなんて、御法度なのだと感じた。たまに「涙を流しながら食べたご飯の味は……」と人生の辛さを比喩したりするけれど、そんな我慢はザウナーの辞書にはない。母からの教えである言葉を継承しながら故郷の味に向かう、食事の記録が詰まっていた。ついには母のために作っていた料理を、自分のために時間をかけて準備する。彼女の目線が自分に向いたころ、不思議なものでブレイクのきっかけとなるデビュー・アルバム『Pychopomp』(2016年)が注目を集めはじめていた。クリアなギターのフィードバックが瑞々しく降り注ぐ『Pychopomp』のジャケット写真には、ザウナーの母が手を伸ばして写っている。母と娘の関係を一度は音楽が断ち切ったが、母と娘を再び結んだのも音楽なのだ。なんとも爽快な気分になる。と同時に、ミシェル・ザウナーの強い決意を感じてやまない。(吉澤奈々)
Text By Nana Yoshizawa
『Hマートで泣きながら』
著者 : ミシェル・ザウナー
翻訳者 : 雨海 弘美
出版社 : 集英社クリエイティブ
発売日 : 2022年10月26日
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