バラバラになった何かをつなぐ最後の希望
ROTH BART BARON三船雅也が綴る『i, i』に向けられたどうしようもなく美しい物語
ボン・イヴェール『i, i』に寄せて——
“これは1人のアメリカ人の男が絶望と孤独の淵から回復し、戻ってくる物語だった”
美しい自然と、黒く清んだ川がある。ウィスコンシン、オークレア。ジョン・プラインを聞いて育ち音楽を作り始めた彼は、成長しすぐ、友人たちとバンドを組んだ。
進学しノースカロライナに移った、DeYarmond Edisonというバンドを組んだ、良くある地方都市の1バンドだ、たいして売れなかった。恋人と別れ、今まで組んでいたバンドは解散し、打ちのめされた。
すっかりやせ細ってしまった愛と、人間関係、そのすべてのロープを切って故郷ウィスコンシンに戻ってきた、彼は病気にかかって3か月間のほとんどをベッドで過ごした、そして両親の持っていた小屋でポツリポツリと音楽を作りはじめた。
90年代CBSで放映されたTVドラマ『たどりつけばアラスカ』のセリフから彼は新しいプロジェクトの名前をとった、フランス語の“美しい冬、良い冬を!”を意味する“bon hiver”という言葉ををもじってBon iverと名前をつけた。ウィスコンシンも雪がだいぶ多い地域だ、日本で言うと北海道に例えられる。他人のことを想い祝祭の音葉を掛け合うこのエピソードのラストシーンはアメリカ・ドラマ王道展開かもしれないが、優しいムードと祝祭がそこには映し出されている。彼がこの名前に込めたヴィジョンがこの短い映像に集約されている。
『For Emma, Forever Ago』とつけられたこのアルバムは《Jagjaguwar》からリリースされ、その音楽にアメリカの皆が静かに共感しひとつの大きな流れになった、言ったら僕もその大きな流れに巻き込まれてしまったのだ。
そう、彼は瞬く間に広がっていった、多くのミュージシャンが反応し、彼を絶賛した。それと同時にこの時代には音楽メディア《pitchfork》を中心としたインディー・ミュージック・コミュニティがアメリカで同時多発的に発生し、メインストリームのチャート・ミュージックとは全く違うロジックで音楽が、新しい才能が大爆発しつつあった。このほとんど宣伝費もかかっていない田舎のシンガー・ソングライターの一挙手一投足にウェブ・ニュースは毎度大騒ぎした。
彼の声にカニエ・ウエストが惚れ込みカニエのアルバムに大々的にサンプリング、フックアップされて一躍表舞台に顔を表した。
満を持して2012年にリリースされたセルフ・タイトル・アルバムで彼はついにグラミー賞を受賞した。
これがよくあるイギリスのバンドだったらヒットしてメジャーに行き、モデルと結婚して芸能人ぽくなってフェアトレードみたいなところに手を出したりして、いつの間にか皆が求められる音楽ばかりを作ってつまらなくなっていき、ミュージシャンと言うよりタレントになってしまい、がっかりされてしまう事が稀に起きるが、彼はそんなことにならなかった。
彼の音楽には真実味がある。音楽以外の名声や富といった野心が彼の音楽には存在しない、感じることができないのだ。実際彼はコマーシャリズム、ベタな形骸化したエンターテイメントである、グラミー恒例のコラボレーション・パフォーマンスを辞退している。
同時代の活躍していたミュージシャンの多くがニューヨークや都市に移り住む中、かれはウィスコンシンに留まった(地元オークレアの若い子に聞いてみたら、今でもホンダの車でご両親を送る姿を良く目撃するそうだ)。音楽で出来たお金で、家の近くの動物病院だった建物を兄弟と購入、居住スペース、撮影用のスタジオ、レコーディング・スタジオを備えた《April base》を作り上げた(ちなみにこのスタジオも日本で大ヒットした90年代のドラマ Xファイルから名前が取られている、ドラマ野郎である)。
彼の名前はジャスティン・ディヤーモンド・エジソン・ヴァーノン Justin DeYarmond Edison Vernon という。
“復活した一人の青年は次は神と数字を相手にアルバムを作った”
『22, A Million』
過去2作が成功をおさめ、グラミー賞を受賞した、はたから見れば順風満帆だ。しかし、ウィスコンシンで過ごしていた回復の時代は終わり、彼を取り巻く環境はガラッと変わり、終わりが見えないような数年のツアー、演奏し疲弊していく日々。また彼は心身ともに疲れ果て、ボン・イヴェールはもう続けるかわからないとまで発言する。
ツアーが一区切りし、自分探しのためにギリシャを旅行したが何も見つからず、一週間ほど海に囲まれた島をうろうろしていたら退屈で退屈でパニックになり、「It might be over soon」”それはもうすぐ終わかもしれない”と気がついたらなんども口ずさんでいた、とりあえず持ってきたスウェーデン製の小型シンセサイザーOP-1に自分の声を適当に吹き込んだ、部屋に帰ってきてプレイバックしてみる『トゥー、トゥー、2,2』数字をつぶやいているように聞こえた。そこで新しいアイデアが生まれた、次は数字のアルバムを作ろうと。
それは今までのシンガー・ソングライター的な手法を完全に無視したサウンド・コラージュ、サンプリング、BJバートンのカットアップされたドラム・サウンド、有機的なものと無機的なものが組み合わされた、フランシスのヴォーカル・エフェクト、なまめかしいデジタル・サウンド、恐ろしく強調された低音。執拗なまでに数字にこだわった構成、歌詞、キリスト的な神への信仰と、失望。二面性と、 “A”という個と Millionという圧倒的大多数、他人、その他大勢の対比。
そして今までの自分を否定するかのような歪められ、隠された顔のアートワーク
かれは今作でまた違った方法で自己への回復と癒し、そして祈りも込めて、かれの心の中にある嵐のような感情を、狂気を閉じ込めた。この作品は破壊だ、全てのロープを切ってしまった個人的な損失、孤独の一枚目とはまた違った、全てを嵐で引き千切ってしまうような暴力的な音楽の集合体だ、しかし彼は綺麗に破壊して行く、ステージで他人に唾を吐いたりしない、下品にはなれないのだ、他人にリスペクトを持ちながら、上品に丁寧に今まで積み上げたものを壊しながら自分の癒しのためにこの作品を作った。
この前後の時期にザ・ナショナルのアーロン・デスナー、ブライス・デスナーと 地元であるオークレアで《Eaux Claires》フェスティバル主催することになる、彼らがリスペクトするミュージシャン、ローカル・アーティストを召喚しコミュニティを作り上げることに注力し始める。そして後にその集団は《PEOPLE》と名乗り始める。そのエネルギーはドイツ、ベルリンでの《Michelberger Music》でさらにヨーロッパにまで羽ばたいてゆく。
“神と数字を超えて彼は新しい自分たちの場所を作り、 “Million”ではなく“i”を歌う・破壊の後の創造”
『i, i』
アメリカで大統領が変わった、そこからムードが変わった。大統領は文字通り壁を作った。
みんな明るい歌は聞きたくなくなった、あるものは現政権に強烈に反発し、あるものはメロウな逃避に走り、あるものはマイノリティーの権利に、あるものは昔日本が景気の良い時代に持っていたノスタルジアにシティ・ポップ、AORという形で逃げるように浸る。無責任な明るい歌なんて聞きたくなくなった、アヘンに埋め尽くされた上海租界のようにテロテロな夢の中に浸る。ナショナリズムと民族同士の分断、ヨーロッパのバランスは崩れようとしている、あのドイツですら移民反対のポピュリズム政党が頭角をあらわす世界になった。世界中で若い子たちのどことなく諦め感を持って、不安がある(ちなみに僕らの住む国には、“移民”と“難民”は存在しないのはご存知だろうか? 彼ら、彼女らは“海外研修生”などというとても耳障りの良い言葉で日本にお勉強のためにきていて、“いつかはこの国から出てゆく存在”なのだそうだ)。
属する国や人種、性別、言語、そういったものでまた人々が線引きを始め、分断し、多様性の尊重を高らかに歌う裏側で、戦後人々がなんとかバランスを取ってきた信頼関係は簡単に崩壊しそうになる、自分がリスクを背負うことのない同調圧力に風見鶏のように乗っかり、正義を振りかざす。次の日にはわすれてしまう中身のないドーナッツのようなの怒りと、憎しみ、諦めと、落胆が、当たり前に通奏低音のよう鳴っている世界になった。自分の本当の感情はどんどん置き去りにされて、コントロールできない社会の意思に無意識に振り回されてしまうのだ。
そんな中で彼は新作に『i, i』とタイトルをつけた。eye, eye、目と目、You and Iではなく i, i、私と私、君と僕、『モンチコン』がいうように誰かが泣いている絵文字にも見える、多くの人間と作品を作り上げた彼ならではの集団に対する感覚が更新され、前作で未知の存在であった大多数“Million”は実はたくさんの個“i”の集合体なのだ。
ここで歌われている君と僕という関係は新海誠の天気の子とは全然違う方法で歌われる。『i, i』では君と僕のために世界を犠牲にしてしまうことはないのだ。自分の理想のために他者を犠牲にしてもいいというのはトランプをキッカケに吹き出した僕らの妬みや嫉妬、他人への恐怖を理解できない他人に擦り付けて分断してもいいという考えと一緒になってしまうからだ。
君と僕は圧倒的に違うが、それでもどこかでつながっていて融和していて。自分のアイデンティティを考えること、自分を思うことの先には相手、もう一人の“i”があることを示している。そこに繋がりはあるが分断はない。
今回のレコーディングはスタジオ《April base》を離れ、メキシコ国境近くのTornillo、テキサスにある広大な農場の中にある《Sonic Ranch》でも行われた。少し行けば作り始めたはいいものの資金がなくなって途中までになった作りかけの”壁”がある、僕と君を隔てる壁だ。お金がなければ人は分断できないのかもしれない。そんな中でこの作品は作られた。
最初にアルバムの予感があったのは、コンテンポラリー・ダンスの集団=TU Dance とのコラボレーションだ。
そこでもう新曲のいくつかは演奏されていた。
彼のムードはかつてないほどとても落ち着いていて今までの損失感や疲労感はなく、穏やかで大きい海のような作品だ。むしろ疲れている人たちの哀れみの目線すらある。しかし満たされていて現状に満足して手放しでハッピーという訳では決してない、世界は不安の真っ只中にあるのだから。
前作から引き継がれたサウンドコラージュ、サンプリングの手法はさらに洗礼され、ファースト・アルバムからのシンプルなハーモニー、今まで培ったものを純度高く音楽にしている。前作と同様に薄桃色の花で顔は覆われてはいるが、その表情は穏やかだ。
以前一緒にDeYarmond Edisonを組んでいたMegafunのブラッド・クックがパートナーとして参加している。今までにないのが大勢のシンガーが参加している点だ、モーゼス・サムニー、ジェイムス・ブレイク、The Staves、ジャスティン以外の沢山の声を聞くことができる。
多くの人々の手を借りて声を借りて、たった一人の男が作った音楽が、破壊と再構築の過程にあるとすれば、このアルバムはバラバラになった現状への癒し“Heal”となるアルバムだ。無責任ではないしっかりとした優しさで自己を見つめ、その先にあるもうひとりの誰かを想う。この音楽はただパーティーのフロアのためにあるわけではないし、デートのディナーの時に気軽に聴ける音楽じゃない。しかし真摯に受け止めると必ずあなたの心に触れてくれるポップ・ミュージックの現代の最高峰だ。もしこのアルバムを通してその感動を誰かと分かち合える時、僕とあなたは友達になれる。そんなアルバムだ。
今や彼が出てきた10年前の《Pitchfork》を中心としたインディー・ミュージック・コミュニティはピークを迎え、飽和し、今聞こえるほとんどがラップトップで作られたトラック・ミュージックである。10年前元気だったバンドも止まってしまったり、変わったり、変わらなかったり、解散したり。バン・ドサウンド、フォーク・ミュージックは忘れ去られ、今年の《コーチェラ》のメインアクトは一つしかバンドはなかった。しかしそれもいいと思う。時代は移り変わる。おそらく次のトレンドは2000年代のガレージ・ロック・リバイバルのリバイバルだったりするのだろう。
そんな中で世の中の幻想に囚われず、自分の地元で音楽を模索し続ける、時に心を引き裂かれ、自分探しの旅に失敗し、孤独と仲間を行き来しながら、そのひとりの男の回復と復活のソングが、僕らの世界にある壁を壊しうる力になる。その力は僕らにもあるのだ、壁を壊したその先で、この美しい音楽を一緒に聞く未来を信じている。(三船雅也)
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Text By Masaya Mifune