気配は生々しく、実体は遠くに
最新トリビュート作に思うニック・ドレイクの“生きた音”
ニック・ドレイクは、3枚の優れたアルバムを世に放ったものの芳しい成功は得られず、抗うつ薬の過剰摂取により26歳で夭逝した繊細で気高い孤高のシンガー・ソングライターである。彼の作品に触れるよりも先に、そうしたイメージが強く印象付けられていたため、その作品に生半可な気持ちで対峙してはいけないような気がして、心の準備ができるのを待っていたら、聴かないまま随分と時間が経ってしまっていた。
才能に恵まれたミュージシャンが若くして非業の死を遂げ、伝説的な存在と化した例をいくつか知っている。ことロックにおいては27歳という年齢が鬼門とされている。いわゆる27クラブだ。ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、ブライアン・ジョーンズ、カート・コバーン、エイミー・ワインハウスといったミュージシャンは27歳でこの世を去った。
彼らとドレイクの大きな違いは、パフォーマーの手から離れてリスナーの間を独り歩きをするような楽曲を生前に残していたかどうかという点にあるように思われる。ドレイクは、評論家筋からは評価されたものの、一般的な成功を収めずに亡くなってしまった。ドレイクのパーソナルな部分が彼の音楽よりもしばしば強調されがちなのは、こうした要因が考えられるかもしれない。
心の準備が整わず、いつまでたっても強張ったままの耳をほぐしてくれたのは、ウェス・アンダーソン監督の『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』(2001年)だった。劇中でドレイクの「Fly」が使用されていたのだ。「Fly」のほかには、ニコの「These Days」や「The Fairest of the Seasons」、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Stephanie Says」、ジョン・レノンの「Look At Me」、エリオット・スミスの「Needle In The Hay」といった楽曲が使用され、サウンドトラックにも収録されている。
ウェス・アンダーソンといえば、ローリング・ストーンズやザ・フー、キンクスなど、既に評価が定まってしまったように思われるバンドの音楽を劇中で取り上げ、それらの楽曲にフレッシュでチャーミングな色彩を与えることで鑑賞者を驚かせている。「若年寄」といったレッテルを貼られがちな若きオールド・ロックのファンの中にはアンダーソンのおかげで、「いや自分はフレッシュな音楽に触れているのだ」と胸を張っていられたという人もいたことだろう。少なくとも私はそうだった。いずれにせよ、ドレイクの音楽が一度ウェス・アンダーソンというフィルターを通過したことで、悲運に見舞われたSSWのようなある種常套句と化した記述とはまた別のコンテクストが付与されたわけである。
ドレイクの音楽は、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』で取り上げられた曲の多くと同様に、センチメンタルでアンニュイだが優美で人懐っこいところがある。たとえばドレイクの『Five Leaves Left』(1969年)というアルバムは、コリン・ブランストーンの『One Year』(1971年)、あるいは毛色が異なるものの、ヴィンス・ガラルディの『A Charlie Brown Christmas』(1965年)やペンギン・カフェ・オーケストラ『Music from the Penguin Cafe』(1976年)といった作品に対峙したときと同じような態度で愛でたい誘惑にかられる。これらのアルバムを聴いているときと同様に、『Five Leaves Left』を聴いて、うっとりしたり和んだりしみじみしたりしたいのだ。
先に挙げたアルバムは、ジャズっぽくもあり、バロックっぽくもあり、フォークっぽくもあり、トラッドっぽくもあるという点で共通している、と無理矢理言えないこともない。しかし、もっとも大きな共通点はどれも軽妙洒脱だという点である。たしかにドレイクの音楽には感傷的で寂寞としており、倦怠感もあるのだが、かといって陰惨というわけでもない。お洒落なカフェで流れていたとしても場違いという印象は与えないと思われる。とは言ってみたものの、存在感に満ちた声は到底聴き流せるものではない。
ニック・ドレイクは煙草の煙を肺からゆっくりと吐き出すかのように歌う。気配は生々しく感じられるのだが、その実体は遠くにあるように思える歌声だ。近いようで遠い、あるいは遠いようで近いといった微妙な距離感がドレイクの音楽に凄みを与えている。「孤高の天才」といったイメージは、単に生前のエピソードから生じたものではなく、その特異な声に起因する。そして、この歌声をロンリネスでもアイソレーションでもなくソリテュードだと形容したい。単に洗練された音楽として扱おうとしたときに、それを真っ向から拒否するのはこの歌声にほかならない。
ニック・ドレイクが残した3枚のアルバムはおおむねどれも人口密度が低いサウンドだと言って差し支えないだろう。セカンド・アルバムの『Bryter Layter』(1970年)は多少にぎやかではあるが、それでも慎ましやかな体裁を保っている。サード・アルバムの『Pink Moon』(1970年)に至っては、ドレイク一人による弾き語りのアルバムである。
正直に打ち明けると、昔から弾き語りのアルバムがあまり得意ではないのだが、『Pink Moon』を退屈に感じたことは一秒たりともなかった。それはおそらく、ドレイクのギターが躍動感に満ちていると同時に、ある種のミクロコスモスを生み出しているからだろう。
ドレイクのバッキングはミニマルなパターンの反復で構成されている。ファンクやアフロビート、あるいはクラウトロックにも似た高揚感をもたらすものだ。たとえば『Pink Moon』の「Free Ride」を聴くと、CANを連想せずにはいられない。CANの演奏を抽象化し、ギター一本で再現しているかのように聴こえるのだ。当然、ドレイクがCANを愛好していたという話は聞いたことがないから、これは単なる連想にすぎない。同アルバム収録の「Know」なんかは、単音のギターリフをギター一本でひたすら繰り返すというアレンジで、ミニマルの極みというほかない。
ギターの躍動を示す例としては『Five Leaves Left』収録の「Cello Song」を挙げたい。アフリカのカリンバを思わせるフィンガーピッキングだ。ダニー・トンプソンによるダブルベースもJB流のファンクに似たベースラインを反復している。
ニック・ドレイクは美しい声で美しい歌を歌うだけではない。彼はバッキングにより歌を踊らせる術を心得ているといえる。元REMのピーター・バックはニック・ドレイクを聴くとロバート・ジョンソンを思い出すと言っている。やや大げさにいえば、ドレイクもジョンソンも、ギターと歌のみでミクロコスモスを生み出すことのできる特異なミュージシャンである。そこが聴く人のクリエイティビティを刺激する部分であるような気がする。
先頃、『The Endless Coloured Ways: The Songs Of Nick Drake』と名付けられたドレイクのトリビュートアルバムがリリースされた。フォンテインズD.C.、スカルクラッシャーとジア・マーガレットといった若手から、ファイストやボンベイ・バイシクル・クラブのような中堅、そしてジョン・グラント、リズ・フェア、ベン・ハーパー、ジョー・ヘンリーとミシェル・ンデゲオチェロ、フィリップ・セルウェイ(レディオヘッド)といったベテランまで総勢25組が参加している。楽曲は生前に発表された3枚のアルバムに加え、デモ、アウトテイク集からも数曲取り上げられている。
お気に入りをひとつ挙げるのならば、ジョン・パリッシュとオルダス・ハーディングによる「Three Hours」のカバーである。クラウト・ロックのようなフレーズの反復と機械仕掛けのビート、そしてエフェクトによる陶酔が3時間のトリップを見事に描いている。相変わらずサウンドプロダクションも素晴らしい。
たしかにドレイクの歌は彼の非常に魅力的な声と分かちがたく結びついている。とはいえ、今回のトリビュートのように、楽曲に宿る別の可能性を引き出してみるという試みは積極的に行われるのが好ましいと思う。音楽は人々の間で聴かれてなんぼ、歌われてなんぼのものだと考えるからだ。ニック・ドレイクの音楽を慎重な手付きで扱うのではなく、その作品にしみじみしたり、和んだり、ひらめきを授かったりするなど、生きた音楽として対峙していこうと思う。(鳥居真道)
Text By Masamichi Torii
VA
『The Endless Coloured Ways: The Songs Of Nick Drake』
LABEL : Chrysalis
RELEASE DATE : 2023.07.07
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