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終幕を食い止めるための市井の鼓動
〜アーケイド・ファイア オリジナル・アルバム・ガイド〜

グラミー賞、ブリット・アワードそれぞれ2部門での受賞歴を誇るだけではなく、『The Suburbs』『Reflector』『Everything Now』が全米と全英チャート1位を獲得(最新作『We』は全英は1位、全米は最高位6位)するなど、カナダ出身のロック・バンドとしては2000年代以降最も成功を収めているアーケイド・ファイア。影響力を持ちうるようになればなるほど、彼らは社会の歪みや不条理と真っ向から対峙し歯向かっていく。記憶に新しいところでは『Everything Now』のリリース前にフェイクニュースのような広告を打ち出し、ネット社会の闇をアイロニカルに指摘してみせた。そして、今回約5年ぶりとなる新作『We』を5月6日にリリースするや、ニューオリンズとNYでライヴを行い、売り上げの全てをウクライナのために寄付した。ニューヨークのライヴでは“WE”と前面に大きくプリントされたTシャツを着たオーディエンスたちに取り囲まれ、最後は会場の外にまで繰り出したという。映像で見る限りはおおよそデモ行進のような熱気で、まるでウィン・バトラーたちメンバーが市井の人々のパワーを引き出しているようだった。チェンバー・ポップ、エレクトロ、ダンス・ミュージック、ニュー・ウェイヴ……様々なリファレンスを大きな枠組の中で捉えていくおおらかな視点を宿した彼らは、現代社会のための、いや、地球のためのフォークロア音楽と言ってもいい。そんなアーケイド・ファイアのこれまでのオリジナル・アルバムを振り返る。(編集部)

(ディスク・ガイド原稿/井草七海、市川タツキ、岡村詩野、尾野泰幸、高久大輝、髙橋翔哉)


『Funeral』
2004年 / Merge

メンバーの身内の死が続いたことが理由とはいえ、デビュー作に“葬式(Funeral)”とはいささか不穏ではあるが、実際それ以外の名前が考えられない。歌詞は内省と孤独とを反復、エリオット・スミスからデヴィッド・バーンまでもが憑依したようなウィン・バトラーの剥き出しの歌声とバンドのコーラスが内なる感情をさらけ出しながらも、気づけば大地を踏み鳴らすようなビートを伴って高揚感を加速させていく……なんとも奇妙な感触の作品ではある。が、「Neighborhood」という組曲が象徴するように、仲間と集い偽らぬ感情を吐露し合うことで不思議と高揚感が沸き起るあの感じ……と考えれば思いあたる節もあるし、なるほど、縁のあった故人の葬式などはぴったりの場かもしれない。

フォーク、パンク、ニュー・ウェイヴといったジャンルを横断しつつ、クラシカルな生楽器を有機的に取り入れ、2000年代後半にかけてのDIYによる実験的なチェンバー・ポップのムーヴメントの嚆矢となった点も重要だが、なによりそうした楽器が決して綺麗に整えられておらず、エフェクトのようなゆらぎとともに脆く正直なバトラーの歌唱に寄り添うデリケートさが絶妙に胸を打つ。ローファイでクラフト的な温かみを包容しながら、実にエレガントでもある。テロや「悪の枢軸」との戦争に突入した恐怖の時代にあって、人間にとってかけがえのない感情が迸る今作が、批評的にも商業的にも、伝説と言えるほどの支持を得たのは必然だったのだろう。(井草七海)


『Neon Bible』
2007年 / Merge

2007年のアーケイド・ファイアはケベック州の教会で音を響かせながら、リアルタイムのアメリカ社会と、あまりにもラディカルな接続を試みた。前作『Funeral』が、郊外の町の風景を青春映画的に広げる作品であったとすれば、教会の中でほとんどの曲がレコーディングされたというセカンド・アルバム『Neon Bible』には、鮮明で厄介なディストピアの景色が広がっている。

抽象性を増したコンセプト・アルバムである本作でウィン・バトラーが歌うのは、信仰の堕落、デジタル・メディア時代への批評、9.11のトラウマが癒えないアメリカ社会のテーマ。アメリカで生まれ、カナダに移住した出自を持つバトラーの距離感は確かに独特だが、彼がいささか観察的に向けるその視線は、実に悲観的でムーディなものでもある。一方で、バンドの眩さを放つサウンドは、光るネオンのように、闇の中でこそ際立つ。「Intervention」のオルガンの響きは神聖さを皮肉な形で強調し、終盤の「No Cars Go」は、よりアップビートに展開しながら、光へと脱出を試みる。個人と社会に向き合うバトラーのヴォーカルは、時にくぐもり、時に躍動しながら、闇の中を走り抜け、作品に緩急をつけている。

絶望からの脱出。彼らの作品の中でも、一際巨大なプロジェクトである本作は、メランコリックなムードを充満させながら、まさしく時代にリアクションしたアルバムである。現実社会を相手にする彼らの音楽の主題とスケールが、より強く迫ってくるダークな1作と言えるだろう。(市川タツキ)


『The Suburbs』
2010年 / Merge

弾け、煌めくシンセサイザーと、体を揺らす無機質なドラムマシンのビートに導かれレジーヌ・シャサーニュはまるで助けを呼ぶように、もしくはそこで生きる自分自身の存在を誰かに知らせるように高い声でこう歌う。「自惚れるのはやめて、タイムカードを押すんだ/最近思うの/私の人生に目的なんかないんじゃないかって」、「スプロールの中では/活気のないショピングモールが山脈のようにそびえ立つ/終わりが見えない」(「Sprawl II (Mountains Beyond Mountains)」)。その“Sprawl”という曲名が示すのは大都市周縁部を無秩序に広がっていく労働者居住区たる空虚で無機質な郊外地域。そこで無限に続くように思われる退屈で単調な生活のリアリティを、ただ吐き捨てるように批判するのではなく、その生活の中に堆積していくかけがえのない記憶や経験を拾い上げながら本作は描く。本作の特徴ともなっているニュー・ウェイヴのヒリつきや、チェンバー・ポップのおおらかさとふくよかさ、ハートランド・ロックの憂いと逞しさを折衷させつつ構築した振り切れたようにポップなサウンドは、上述したようにシリアスかつダークな本作のリリックと時に重なり、時に対比されることで“郊外”という場所における光と影の姿を本作が描くことを可能としている。

各国批評メディアからの絶賛とグラミー年間最優秀アルバム賞獲得という実績を伴い名実ともに2010年代インディー・ロックにおけるマスター・ピースとなった本作と、同時期に東京郊外の生活世界の中で形成されていたたcero『world record』(2010年)やシャムキャッツ『AFTER HOURS』(2014年)といった国内インディー・バンドの作品を重ね合わせると、“郊外”という場所と問題系が(地域的/概念的差異はさておき)いかに重要でリアルな表現の土台だったのかということにも気づかされる。(尾野泰幸)


『Reflektor』
2013年 / Merge

ファーストに「Haiti」という曲があるように、前作までも、レジーヌの両親がハイチで育っていることを主な理由として、バンドにとってその地は世界、あるいはアメリカへと想いを巡らせる上で重要な存在であったのだろうが、いよいよ本作では、前作リリース後、実際にハイチを訪れて得た、ハイチ発祥のRARAを始めとする音楽的刺激がサウンドへと顕著に還元されている。反復の多いビートやエレクトロニクス、レゲエやダブの影響を感じるグルーヴ……ジャマイカでレコーディングしたことや馴染みのマーカス・ドラヴスの他にLCDサウンドシステムからジェームス・マーフィーが共同プロデューサーとして参加していることも手伝っていよう、本作はバンド史において初めてダンス・ミュージックへと接近したレコードとなった。とはいえ、リリックは相変わらずシリアスかつ批評的。デラックス・エディションに収録された「Women Of A Certain Age」のような現在でも力強く響くフェミニズム・ソングもある。つまり、少し俯瞰してみると当時でもそうした、いわゆる非西洋的な音を取り込んでいくバンド自体は珍しくなかったし、そして時を経た今となってはより一層新しさを感じるものではない中で、本作が強くリスナーの引き留め続ける理由は、サウンドの変化という事実だけではないのだ。変化しているからこそ、変わらない魅力の映える一作。(高久大輝)


『Everything Now』
2017年 / Columbia

2017年といえば、2010年代前半から加速したジャンル、クロスオーヴァーの円熟期。また、セールス・チャートを見ても批評筋のチャートを見てもポップ作品が乱立する、ポップ全盛の年でもあった。それは、メインストリームとオルタナティヴ/インディーという二項対立が、全く意味をなさなくなったことを意味する。

90~00年代よりロック~オルタナティヴ系譜で活動してきた作家たちが、2017年にリリースした作品を挙げてみる。ベック『Colors』、スプーン『Hot Thoughts』、セイント・ヴィンセント『Masseduction』、パラモア『After Laughter』。ここにアーケイド・ファイア『Everything Now』を並べれば、本作がまぎれもない「2017年の音」であったことに気づくだろう。要するに、ダンス・ビートに、思いきりコンプレッサーのかかったギターや電子音。ポップ・チャートに並んでも遜色ないよう味付けされたこれらのアルバムは、垣根が溶解した時代の空気をキャプチャーしている(ザ・ナショナルやダーティ・プロジェクターズの、それらと全く別角度からジャンル・ブレンディングを試みた良作が同年にあったことも記しておく)。

だからこそ、本作にイマイチ個性や魅力を見いだせなかった従来からのリスナーがいても不思議ではない。前年にザ・ウィークエンドも手がけたダフト・パンクのトーマ・バンガルテルを招いたことからも察せられるように、『Everything Now』は失敗をおそれぬポップへの大胆な挑戦である。プロモーションのために《Stereogum》に似せたフェイク記事を作ったのも含めて、この時代にポップであるとはどういうことか? 大衆に向けた表現とは何か? という命題に対し、彼らがストラグルした記録なのだ。(髙橋翔哉)


『We』
2022年 / Columbia

ハイライトは「The Lightning Ⅰ」から「The Lightning Ⅱ」へと続く中終盤の流れだろう。実際にメドレーのように繋がるこの2曲で彼らは“僕を諦めないで、僕も君を諦めない”と繰り返し、さらには“稲妻を待っている”と叫ぶ。彼らの大陸的でさえあるロック・サウンドが今なおエネルギーを持ち続けているのは、現代社会に光明が差し込んでくるまで意地でも食らいついていこうとする人間本来の強さを表現しているからだ。この最新作にかつてアパルトヘイト抵抗運動活動家スティーヴ・ビコのことを歌ったピーター・ガブリエルが参加しているのは象徴的でもある。

バンド史上最長の制作期間を費やしたという本作はバンド史上最短の僅か40分程度。コロナ~ロックダウン~BLM~米大統領選…と続いてきた近年の激動のシーズンのさなか、それでも輝く生命力のほどを共同プロデューサーのナイジェル・ゴドリッチとともに簡潔に40分に凝縮させた。結成来の主要メンバーであるウィル・バトラーは本作を最後に脱退したが、“葬儀(Funeral)”からスタートし、約20年をかけて6作目となる今作で“私たち(We)”に着地したこのバンドは、一人の人生を終幕から誕生に向けて行ったり来たりしながら逆回転させようとしているのかもしれない。様々な事象によって地球が終焉に向かいつつあることをどうにか食い止めようとするバンド、アーケイド・ファイア。ロシアからの一方的な侵攻に立ちはだかるウクライナの人々の映像を見るたび、最近の私の脳内には本作の「The Lightning Ⅰ」〜「The Lightning Ⅱ」が流れている。(岡村詩野)

Text By Shoya TakahashiTatsuki IchikawaShino OkamuraNami IgusaDaiki TakakuYasuyuki Ono

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