aus──人生に横たわる喪失や憂鬱、人々の中に普遍に続くもの
再会した。
あの静謐な伏流水の流れ、それがちいさくだがたしかに響かせる抒情の歌に。
ぼくは、とてもはずかしいいい方だけれど、しずかに感動していた。
いわゆる00年代、ぼくは新宿まで鉄道利用で一時間半という東京郊外に住んだ。心身ともおおきく損なっていたぼくは、電車に乗ることすら苦痛に感じていた時代。ポケットに無造作に入れたiPod nanoにレイ・ハラカミ、スケッチ・ショウ、スーパーカーやフリーテンポといったアーティストの傾向の異なる作品を入れ、流れてゆく風景に目をやりながら移動のつらい時間をたえていた。
そんな時間の中で特にヘヴィロテしていたのが、どんなアーティストなのかまったく予備知識なく購入した、aus『Lang』だった。
現在ではジャパニーズ・エレクトロニカの歴史的名盤として評価が定まった感のある『Lang』だが、そこにある音は当時の同じジャンル、あるいはクラブ・ミュージックの音たちとは、明らかにおおきく異なっていた。グリッチ、グラニューラー的変容、ブレイクビーツ。そうしたエレクトロニカ/クラブ・ミュージックの刻印としての音響はたしかにここにも存在している。だがぼくの心をとらえたのは身の回りの現実音をつかったオーガニックなグルーヴと、そして何よりも、旋律的曲線と構造、和声の響きが淡く浮かび上がらせる透明感のある抒情性だった。
そのような表現ができるアーティストは、今もって稀有な存在ではないだろうか。
ausの最新作『Fluctor』を聴く。軽い衝撃のあと、ふかい喜びにつつまれる。そこには、ぼくが敬愛してやまない彼の抒情の地下水脈が、まったくぶれずにしっかりと刻み込まれていたからだ。18年まえの、あの稀有な何ものにもかえがたい音の歓びが、ここには確かにあふれている。
『Fluctor』は、もともと実験的映像のために作ってきたデモをベースに再構成された作品。のちパフュームのMVなども手がけることになる映像作家・実兄、TAKCOMの存在により、ausは10代のころから実験的映像の音に取り組んできたという。そんな音の粒たちをていねいに拾い上げ、自身のピアノが描くなだらかな放物線と電子音響による空間へのペイント、それに高原久実のヴァイオリンを重心点に置いて現代の室内楽として新たに紡ぎだした音空間が、一枚のアルバムに結実したものだ。ネオ・クラシカル的外形、アンビエント的空間、エレクトロニカ的質感。そのいずれをも想起させ、だが最終的にそのいずれにも属さない「ausの音響」。ゲストには高原の他にもメグ・ベアード、ジュリアナ・バーウィック、Henning Schmiedt、Danny Norbury、Glim、横手ありさ、Eunice Chungら幅広い才能がクレジットされている。
前作『Everis』は10数年ぶりの新作ということもあってトラックひとつひとつの密度の高さと仕上がりの良さがあったが、「aus自身の内部への旅」がもたらす走馬灯的気配が、アルバム全体としての統一感をやや希薄にしていた。あえて言えば、ビートルズ『The Beatles』(ホワイト・アルバム)のようなありかただろうか。
しかしここにはそうした気配は一切ない。アルバム全体が音響のテクスチャーとしても音楽的内実としてもよく洗練され統一されており、全体の整合性自体がさらに各トラックの美感に還元され増強するという、理想的な構成内容となった。『Lang』のころから彼自身がサウンド自体で表明していたストリングスのロングトーンやつぶやくピアノの磨き抜かれた旋律線、こうしたものへの偏愛が、音像の淡くも豊かな色彩として滲みだし貫き描いてゆく。ときにトラックの境目や曲の開始も終わりもぼやけるほどに、しなやかな統一がなされているのである。
ausの突出した才能のひとつの端的な例として、1曲目と2曲目を聴いてみよう。ぼくは最初にこのアルバムの冒頭、すなわち「Another」のはじまりを耳にしたときから、非凡なアルバムが眼前に現れたことを直感した。難しい音で始まるのではない。ごくシンプルで、これ以上単純にはできないであろう「B♭」のロングトーン。誤解を恐れずにいえば、あまりに単純すぎて音楽的確信なしに提示できる導入ではない。へたをすれば失笑を買うような始まりだからだ。だがここではそれが成功していて、ぼくは驚いたのである。ausはここで「音楽の古層」へ、その純粋さへ触れようとしている。ぼくはスティーヴ・ライヒの発言を思い出しながら冒頭を聴くことになった。グレゴリオ聖歌がマショーやペロタンへと「進化して」移ろうことで、旋律の純粋な美質と洗練が喪失される、とライヒは語ったのだ。
2曲目がアパラチア地方の古いフォークソングである「Dear Companion」であるのは、まったくもって偶然ではない。ausはここで、「旋律の純粋な美質と洗練」を最大限浮上させようとこころみる。
なぜドリー・パートンやリンダ・ロンシュタットも録音したこの曲をあえてカヴァーしたのだろう。ausはいう。
「昔のフォークが好きなんです。安っぽい感傷とは違う人生に横たわる喪失や憂鬱、人々の中に普遍に続くものを歌うような。自分がCDを出し始めた2000年代に、新たな感性でこういったトラッド、フォークに向き合う人が出てきて、メグ・ベアードもそのひとり。彼女がリリースしていたこの同名曲のアカペラに勝手に伴奏をつけたんですが、彼女にそれを聴かせたら幸運にも気に入ってくれて、アルバムに収録できることになりました」
程度の差はあれ、ひとのこころは混濁した液体のなかに浮かんでいる。少なくともぼくはそうだ。透明度が低く、光が見通せないこともある。だが、ときにさまざまな「攪拌」の影響がちいさくなったとき、かすかな光を目にする。たぶん、音楽はその時間の中で芽生えてくるものだ。「混濁」のみでも、「透明」のみでもない、そのどちらでもありうる状態。そこから発芽した旋律は、さまざまな人間のからだとこころを通過しながら、「普遍」として熟成されてゆくのだろうとぼくはおもう。
ausはライヒがいうような旋律の美質と洗練を損なうことなく、染みわたる音の絵画を描きだして見せた。じつに充実した、ただ「美しい」以外の形容が出てこない名トラックである。
ここで1曲目が「B♭」で始まることも思い出してほしい。2曲目のキーもまた「B♭」なのだ。ふたつのトラックは音楽的に違和感なく接合され、ひとつの世界となってここにある。1曲目はアルバムの前奏であると同時に、2曲目の序奏ともなっているというわけだ。こうしたことに気づかなければ(また通常のリスニングでは気づく必要もないのだが)、テクスチャーの統一性もあいまって、まったくなんの違和感もなく流れて行ってしまうだろう。これはていねいに「設計」されているはずだ。
ausはリリカルな空間を「感性的に」描いてはいるのだが、「作品」としては「知的な」設計が支配している。そのどちらが欠けても、名品と呼ばれる音楽は誕生しえないのだ。
少々理屈っぽいことを書いたが、このアルバムの扉はすべての音楽ファンに向かって開かれている。ausの作品に初めて接するかたは、まず5曲目「Aida」を聴いてほしい。彼自身のノスタルジックなピアノの旋律はこざかしい理屈抜きに染みわたるだろう。そのままこの「Aida」=間奏曲は、6曲目「Circles (ft. Julianna Barwick)」に境目なく流れ出てゆく。ゆるやかに流れるやさしい音に包まれてみてほしい。ぼくはこのトラックの中間部でふかく心ゆさぶられた。率直にいえば、あやうく涙すら流すところだったのだ。また、このアルバムの収録曲のいくつかには、田島太雄撮影の自然を主題としたトレイラーがある。ausのインスタグラムと、彼が主催する《FLAU》のYouTubeチャンネルにはそのうちのいくつかが公開されている。もともと映像のための音楽として着想されたものでもあり、映像との親和性も高い。これらをまず見て、聴いて、入門してもいいのではないかとおもう。
また、最後の12曲目「Ancestor」は実際に映像作品に使用されたものだ。機会があればこちらも鑑賞してみてほしい。
ぼくは(おそらくおおくのひとびとも)いま、すこしうつむいた時間のなかで呼吸のしかたを考えあぐねている。そうしたすこし重苦しい時間のなかで、ぼくには(おそらくおおくのひとびとにも)音楽を必要とする瞬間が何度もめぐってくる。もがきながら呼吸を整えるときに必要なのは、「人生に横たわる喪失や憂鬱」を気の遠くなるほど何度も何度も繰り返し通過し、「人々の中に普遍に続くもの」に到達した、聴く者の傍らに立つ祈りの音楽である。
aus『Fluctor』は見事に統一された名品で、このことばを使うことを躊躇しないほどの「傑作」だ。ausはまさにそのような傍らにそっと立つ音楽を、ぼくに(そしておそらくおおくのひとびとにも)紡ぎだして見せたのである。(磯田健一郎)
Text By Kenichiro Isoda
aus
『Fluctor』
LABEL : FLAU
RELEASE DATE : 2024.11.27
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