映画『アメリカン・ユートピア』
〜より良い社会のためのチアフルな肉体と知性
この作品のハイライトの一つは間違いなくジャネール・モネイの「Hell You Talmbout」をとりあげた終盤の、登場する名前の連呼と共に激しくアフロビートが打ち鳴らされている瞬間だ。モネイが2015年に公開したこの曲は、人種的暴力により亡くなったアフリカ系アメリカ人の名前とともに、「その名前を言え!」と繰り返すある種のプロテスト・ソング(劇中、画面にはこのステージが行われた2019年時にはまだ存命していたジョージ・フロイドの名前も刻まれているが、こうした連鎖が依然続いているとして後から加えられたものだろう)。トーキング・ヘッズ時代からアフリカ音楽の持つ洗練された肉体性を追求し、90年代には自らレーベル《Luaka Bop》を立ち上げ、ザップ・ママやジュリ・ジュラといったアフリカ由来のアーティストも数多く紹介してきたデイヴィッド・バーンが、70代が見えてきた今、そんな「Hell You Talmbout」をとりあげることには大きな意味があると言っていい。
だが、ここにあるのは、攻撃的な権力批判でも厳粛な自省・贖罪でもない。ただただ全ての人類がフラットな横一線になるための解決案を提示しているかのような、言ってみれば健全な楽観主義に裏打ちされたピースフルな息吹だ。監督を黒人であるスパイク・リーに委ねたこと自体、あるいはこれまで文化的にも音楽的にも折衷を意識してきたバーンの狙いと捉える声があるかもしれないし、確かに《Luaka Bop》をやっていた頃の彼は“第三世界”の音楽を広めるための使命感を背負っていたとも言えるが、今の彼にはもうそんな大義名分は感じられない。劇中、無邪気に踊ったり、メンバーと同じ振り付けでリズムに合わせてみたりするバーンは、ひたすらフィジカルに我々に訴えかけてくる。この陽気でさえある歌と踊りこそが解決するための解答なのだ、と。
そういう意味でも、デイヴィッド・バーンのブロードウェイの舞台を映像化したこの『American Utopia』という映画に対し、面倒な考察をあれこれ並べる前に、とにかくカッコいい、ひたすらワクワクする躍動感に溢れた素晴らしいエンターテインメント作品と評することへ、私は一切躊躇しない。ステージの最後にメンバーたちとマーチング・バンドさながらに場内を練り歩き、しまいにはカジュアルなダウン・ジャケット姿で自転車に乗ってニューヨークの町を駆け抜けていくエンディング・シーンを観て、素直に楽しい気分にならない人などおそらくいないだろう。少なくとも私は試写でいち早く鑑賞したあと、似たようなグレーの三つボタンのジャケットを探して思わず買ってしまった。そして思った。ニューヨークはやっぱり魅力的な町だと。これはニューヨークに暮らすデイヴィッド・バーンと、そしてスパイク・リーによるニューヨーク讃歌にも似た作品ではないかと。
尤も、バーン(と、あるいはリー)はただいたずらにここでオプティミスティックなニューヨーク讃歌を描いているわけではない。デイヴィッド・バーンはスコットランド生まれで、スパイク・リーはアトランタ出身というそれぞれのルーツを鑑みても……もちろん、バーンとリーの生まれ育った環境には大きな隔たりがあったことを承知の上で、それでも、二人が“移民”という目線を自覚しているだろうことは想像がつく。加えて重要なのは、バーンは“今となってはそれなりに裕福で知性のある白人の中年男性”という立場にもあるということだ。この映画の発端となったバーンのソロ・アルバム『American Utopia』(2018年)に女性アーティストが一人も参加していないことを指摘されたバーンは、自身のインスタグラムでこのように答えている。
「女性の不在は問題だと思う。これは僕たちの業界でも蔓延していることだ。このアルバムのために女性を起用したり、コラボレーションしなかったことを後悔している。馬鹿げているし、僕らしくない。これは間違いなく僕のこれまでの活動に沿ったものではない。このことが話題になるような時代に生きていることを嬉しく思うよ。自分が最適だと思う方向に進んで欲しいと憤っていても、時に自分もその問題に加担してまっているということには、なかなか気がつけない。僕は自分自身を“そういう奴らの一人”だと思ったことはないけど、もしかするとある程度はそうなのかもしれない。みんなからの反響はいい教訓になったよ。ありがとう」
デイヴィッド・バーンのインスタグラムより
バーンのこうした素直な謝罪は、「世の中が自分が最適だと思う方向に進んで欲しい」という願いに自ら泥を塗ってしまったことへの個人の戒めであると同時に、誰にでもこうした間違いは起こるし、誰もが“そういう奴らの一人”になりうると言うことを警告したものでもある(なので、この映画の演奏メンバーにアジア系がいないことは特段問題にしたくない)。
1982年、トーキング・ヘッズとして来日したデイヴィッド・バーンはある日本の雑誌の取材に対し、「我々のコンサート自体は、近代/現代の儀式だと思ってる、色々なダンスを見ていると音楽自体を、別の方法で受けとることが出来るのに気がついた」(『PELICAN CLUB』1982年6月号掲載 原文ママ)と答えているが、今のバーンならこうした解釈はおそらくしないはずだ。ダンスを含めたコンサートが一定の宗教や信仰に基づく儀式であるという受け止め方は、少なくとも映画『American Utopia』の陽気でさえある開かれた場からは一切感じられない。大きめのスーツに身を包んだその出で立ちこそ1984年の『Stop Making Sense』(1984年)の延長線上にあるように思えるが、この『American Utopia』は、「トワイラ・サープ(そう、バーンの実質的ファースト・ソロ『The Catherine Wheel』(1981年)はサープの作品のサントラだ)とトニー・バジェット、エレクトリック・ブーガルーやバリ、インドの踊り、果ては原宿の竹の子族など様々なダンスから影響を受けている」(同記事から要約)とされる『Stop Making Sense』にはない、「今ここにある躍動と歓びは世の中をきっと良くするもの」とでも言うようなテーゼに満ちているからだ。
デイヴィッド・バーンのこうした健全な楽観主義の背後にあるのは、ただ社会の歪みを指摘、批判するのではなく、少しでも地球(社会)が良い状況になる兆しだけを伝えていこうとする謙虚とも思える姿勢に他ならない。それを裏付けるのが、近年のバーンの活動で重要な位置を占めている、彼自身が始めたメディア《reasons to be cheerful》の運営だ。これはもともと《Arbutus Foundation》というこちらもバーンが立ち上げた非営利財団のプロジェクトの一環としてスタートしたもので、バーン含めて複数の編集者、ライターが関わった読み物サイト。音楽などのカルチャーはあまり取り扱わず、かといって政治ネタにもそこまで強く言及もせず、社会的なテーマを前向きな観点からとりあげる、しかも気軽に読めるようなルポルタージュ的な記事が多い。例えば、今年3月1日に公開された記事の一つは、今や2000人程度になってしまったネイティヴ・アメリカンの一部族であるチェロキー族の言語を守るためにチェロキー語を学ぶプログラムを紹介するものだ。チェロキー族の存在が危ぶまれている厳しさを伝えるものではなく、少しでも残すために行われている暖かな活動をとりあげる……そのポジティヴな姿勢が《reasons to be cheerful》の根底にある。
つまり、“変える”のではなく“より良くする”ことを目的とする活動。現在のデイヴィッド・バーンの意識下には、大胆な改革を目指したものではない、そうしたある種小さな働きかけがある。そして、その僅かばかりの活動によって世の中が少しでも良くなっていけば……。『American Utopia』という映画を通じてバーンが描こうとしたものは、そうした小さな活動の積み重ねの上に出来上がる“より良い明日”だったのではないだろうか。それが、(西側からの)搾取、盗用などと揶揄もされたトーキング・ヘッズ時代、第三世界の音楽を積極的にキュレートしてきた90年代、ファットボーイ・スリム、セイント・ヴィンセント、ダーティー・プロジェクターズといった後輩世代たちとの交流も重ねた2000年代〜2010年代を経て辿り着いたバーンの境地であり、ほぼ同じ時代のニューヨークに生きてきたスパイク・リーにメガホンを預けた理由ではないかと思う。ブロードウェイのショウを映像化したこの『American Utopia』が、バーンの考えるより良い社会のための一助となるには、2018年に黒人警官とクー・クラックス・クランの戦いをユーモラスに描いた『BlacKkKlansman』が高い評価を得たスパイク・リーの力はどうしても必要だった、と。
『American Utipia』はまさに終始チアフルなムードに包まれている。人間の脳の模型をバーンが手にする場面から始まる本編、化粧をした白人男性、黒人女性と一人、また一人と増え、徐々にメンバーが入場してくる。気がつくと、そこには性別・世代・人種、出身地などが異なる12人が揃うが(中にはバーンのツアーではお馴染みのブラジル出身のパーカッショニスト、マウロ・レフォスコも)、メイン・ヴォーカルのバーンに対して他11人が伴奏をするという見え方は全くない。それどころか12人がステージ上を所狭しと演奏しながら移動することで、その都度中心が動いていく。横一列に整列しても動きは決して統一されていない。だが、ただ闇雲に各人が好き勝手な動きをしているのではなく、様々な角度からそれぞれの演者がどのように見えるかがとても丁寧に計算されている。ステージ真上のカメラアングルがその見事なシンメトリーを伝える場面も多い。マーチング・バンド形式であるがゆえに、パーカッショニストが多く、ヘッドセットをしたダンサーも編成の中で自然に溶け込めている点は見事だ。
セイント・ヴィンセントとのコラボ・アルバム『Love This Giant』(2012年)から選ばれた「I Should Watch TV」から、「Everybody’s Coming To My House」(『American Utopia』)の流れは前半のハイライトだろう。どうしてあなたは私の兄弟ではないのか、というメッセージと、私の家に来ることを歓迎する、というメッセージの接続が意味するものは、もちろん移民を受け入れようとする姿勢と、私はあなたであり、あなたは私なのだという、立場の同一意識だ。一歩外にでれば、そこには様々な光景があるが、そこは果たして本当に“外”なのだろうか? もしかすると、自分のいるこの部屋が“外”ではないのか。目の前のオーディエンスの誰かがデイヴィッド・バーンかもしれないし、私はオーディエンスの一人なのかもしれない……。この2曲を演奏する時のバーンの表情は、分け隔てを取っ払うことによって一瞬は生じただろう戸惑いを超過し、確信に満ちた清々しささえ讃えている。
「Everybody’s Coming To My House」は最後に再度流れる。今度はザ・デトロイト・スクール・オブ・アーツ・ヴォーカル・ジャズ・アンサンブルによるヴァージョン。バーンという圧倒的な個人が歌わないことによって、“私たちはこの人生で観光客に過ぎない”というリリックがまた違う意味を持つ。何かを変えるため、何かを示唆するために一方的に歌い、踊るのではなく、より良い世界のための活動としての歌とダンス。全員で演奏しながら場内を練り歩くエンディング・シーンを見ると、場内はそこそこ高い年齢層の白人男性が多いことに気づく。これが現実。だが、そこから場外に出る場面を挿入することによって、バーンは外には全然違う景色があるということを鮮やかに伝える。いや、会場であるマンハッタンの劇場の中こそが実は“外”だったのかもしれない。“私たちはこの人生で観光客に過ぎない”というリリックがここでヴィヴィッドに映える。
コムデギャルソンのデザイナー、川久保玲は、去年のコロナ禍に「Believe in a better tomorrow」というスローガンを掲げ、Tシャツなどにその文字を手書きで綴った。力づくで変えるのではなく、より良い明日を信じること。それがきっとユートピア(理想郷)。デイヴィッド・バーンの知性は今そんなある種ささやかな願いに宿っている。(岡村詩野)
デイヴィッド・バーンとスパイク・リー
映画『アメリカン・ユートピア』
5月28日から全国ロードショー
配給:パルコ
出演:デイヴィッド・バーン、ジャクリーン・アセヴェド、グスタヴォ・ディ・ダルヴァ、ダニエル・フリードマン、クリス・ジャルモ、ティム・ケイパー、テンダイ・クンバ、カール・マンスフィールド、マウロ・レフォスコ、ステファン・サンフアン、アンジー・スワン、ボビー・ウーテン・3世
監督:スパイク・リー
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Text By Shino Okamura