歌たちに手をのばせ!
『SONGS』というタイトルから、全てのポップミュージック愛好家が思い起こすのはシュガーベイブが1975年に発表した名盤のことだろう。ゆえにスカート4枚目のフルアルバムも、きっと相当の自信作なのだろうと解釈することができる一方で、そのタイトルが録音環境などに満足していなかった山下達郎が「せめて曲と歌を聴いてほしい」という思いを託したものである、というよく知られたエピソードも思い出す。
果たしてスカート澤部渡がどういう思いでこのタイトルをつけたのかは知る由もないが、楽曲に対する揺るぎない愛と共に、収録曲のほとんどが既発曲というアルバムの成り立ちに対する、長編小説家としてのシャイネスがあったのではないかと勝手に推察した。実際のところ私も、多くの曲にいわゆるタイアップがついているという点も踏まえて、今作はある時間によって区切られた楽曲集的なものになっているのだろうと思っていた。
ところがまったく意外なことに、アルバムを一周したところで感じたのは、今までで最も濃厚なアルバムとしてのストーリーである。ある一人のミュージシャン(と彼のスモールサークル・オブ・フレンズ)が、全13曲をかけて描き出す大きな景色と光陰があるように思えたのである。これはいったいどうしたことか。
自主制作時代の作品を再録した前作『アナザー・ストーリー』の歌詞カードを読めばわかるように、かつての澤部渡が紡ぐ歌詞は、開かれたメロディとは対照的に、他者の安易な共感を入り込ませないほど繊細な心象、あるいは現実と隔絶したイマジナリーな世界が描かれてきた。それこそがリスナーとの共感を一義としたJ-POPとスカートを隔てる境界線でもあったように思う。しかし、今作はそんな彼の王国のドアが少しだけ開き、我々を招き入れてくれているようなニュアンスがある。例えば“大きいサイズの店 フォーエル”とのコラボレーションとして発表された「この夜に向け」。“弾かれてみてわかることがあるんだ”、“抱え込んだ不自由をここで手放そうよ”といったフレーズからは、ままならない現実に立ち尽くす聴き手に対する控えめなシンパシーとメッセージが感じ取れる。アルバムのために書き下ろされた「Aを弾け」「私が夢からさめたら」といった楽曲でも、事象と心情の関係がより立体的に描かれ、聴き手それぞれの心情を託すスペースが広く取られているように感じる。
一方、今作においても変わらないのは、その対象が自己であれ他者であれ、彼の視点が常に、中心から外れてしまうもの、日々の中でこぼれ落ちていくものに向けられているというところだろう。奇しくもCDが収められた外袋に「悲喜こもごもとその周縁に手を伸ばす」というコピーが書かれたシールが貼られているが、まさに言い得て妙である。真ん中から押しやられてしまった何かに向けて、時に苛立ちやユーモアもにじませながら書かれたポップソングたち。そこから伸びた矢印のすべてが、アルバムの最後に収められた「海外線再訪」の軽快なイントロに続く、“足りないピースが多すぎやしないか 元には戻りそうもないけど続けようか”という、薄陽のようにささやかな肯定感へ帰結していくように感じたのである。この変わったことと変わらないことの組み合わせが、『SONGS』という珠玉のソングブックに、完成したジグソーパズルのような一体感をもたらしているのではないかと思っている。
アルバムのブックレットによると、この13曲は9ヶ所ものスタジオで録音されている。シングル「駆ける」がリリースされたのはもう3年近くも前のことである。その長い間、彼が新しい曲が書けずに苦労していたことも、何度もライヴが中止になったことも、毎週欠かさず彼のラジオ番組を聞き、自宅からの配信ライヴに胸を焦がしてきた私のようなファンならばよく知るところである。そしてもちろんその裏側には、コロナ禍というどうしようもなく実際的な理由があった。よって2022年にこの作品を手にした私たちがある種のドキュメント性を見出してしまうのも止むを得ないところである。
しかしもし30年後、この作品に初めて触れるリスナーがいたとして、彼や彼女が見出すものは何かと想像してみる。それは間違いなく、完成までの労苦ではなく、弾むリズムと心を打つメロディー、そして彼ならではの「周縁への眼差し」だけだろう。まさに私たちがシュガーベイブの作品に、ルサンチマンではなくポップソングの喜びを見出したのと同じように。
時が経つほどに本質だけがあらわになっていく歌が詰まったアルバムを『SONGS』と呼ぶのならば、このアルバムこそがそれに最もふさわしい。そう言い切ってしまいたくなる作品だ。(ドリーミー刑事)