「私」とは何かを問うヒューマン・ルネサンス
このロスト・ガールズは、作家としても活動するノルウェーのジェニー・ヴァルと、同郷の音楽家、ホーヴァル・ウォルデンによる新しいユニット。アルバムとしては《Smalltown Supersound》からになる本作がファーストとなるが、この作品に踏み込む前に、2012年に発表された『Nude On Sand』に触れないわけにはいかないだろう。10年以上のつきあいという2人が共同名義でリリースした初めてのアルバムだ。
尤も、その『Nude On Sand』はホーヴァルによるアコースティック・ギターと、ジェニーによる軽やかなヴォーカルで構成された、おそらくは宅録をメインにした極めてオーガニックなもので、今回ロスト・ガールズ名義でリリースされた本作とは音もプロダクションもかなり違う。むしろ、まったく別物と捉えた方がいいし、あるいは時間をかけてこのロスト・ガールズの軸になるスタイルを模索したということなのかもしれない。その間、ジェニーは『Apocalypse, girl』(2015年)や『Blood Bitch』(2016年)など都度都度で話題を集めた作品を含め多くのソロ・アルバムを発表し、2017年には初来日も果たしている。もちろん、ホーヴァルの方もかなり実験的なソロ作を残してきた。
さておき、ジェニーのその初来日ライヴを観て、当時気づいた点があった。一つは、彼女のこれまでの作品に共通するアングルの一つである、女性というキーワード。もう一つは、思いのほか、ポップなパフォーマンスをする人だということだ。筆者はその時の京都公演で幕間のDJをつとめさせてもらったのだが、直前のリハを観て、意外にダンサブルな側面があることに気づき、慌てて用意していた曲を少し変えてみた。すると、なるほど、寡黙でインテリジェント、でも髪型からファッションまでとてもヴィヴィッドで洒落たジェニーが、クラウト・ロックやヨーロッパ周辺のエレクトロより、アフリカのディスコや70年代のニューソウルの方に興味を示し、ブースまでやってきてはそれらのレコードを手にして「こういうの大好き」と喜んだのである。多少のお世辞やノリもあったのだろうが、後から「選曲リストがほしい」とまで言ってくれたのにはさらに驚いた。
だから、その2年後、2019年に発表されたジェニーの目下の最新ソロ名義作『The Plactice Of Love』が、それまでになくトランシーな仕上がりだったのは至極自然な気がしたし、しかもローラ・ジーン、フェリシア・アトキンソンら多くの女性アーティストをフィーチュアしていたのも納得だった。それ自体はもやは機能的とさえ言えるダンス・ミュージック作品だったわけだが、しかしながら、それをもってしても、このロスト・ガールズのアルバムのフィジカルさにはかなわない。そう、こんなに肉体的な表現がジェニーから出てくることがとにかく嬉しい、そんな1枚だ。《Rune Grammofon》から2011年に出たジェニーの最初のアルバム『Viscera』を聴いた時には、まさか10年後にこんなスタイルの音楽に彼女が身を投じることになるとは全く想像していなかった。
というのも、本作の4曲目「Love, Lovers」などはアフロビートとハウスをかけ合わせたような、静かな熱気を孕んだ曲だし、ポリリズミックな5曲目「Real Life」に至ってはトゥアレグ族のギター・プレイを思わせるホーヴァルによるリフがそこかしこから聞こえるから。2018年に発表されたロスト・ガールズ名義としては初の作品であるEP『Feeling』に伏線があったとはいえ、10分以上の長尺曲2曲を含めた本作は、清涼感ある電子音が敷き詰められたニュー・オーダーのような曲もあるとはいえ決して今時のシンセ・ポップの文脈には吸収されない、10年以上をかけて培ってきた2人の見事なリレーションシップが昇華された大傑作だ。これはもう2020年代におけるエレクトロ・ファンクの最高峰の一つと言っていい。ジェニーの呟くような、漂うようなヴォーカルと、バウンシーなパーカッションのよるアクセントの中に潜む、ホーヴァルのギター・プレイは決して派手ではないがこれまでになく挑発的な響きを聴かせている。
加えて、4年前のジェニーの初来日公演で実感したもう一つのフック、彼女の作品において最初から共通したキーワードである「女性」という目線にも変化が生じている。ジェニーは昔から「女性」であることに対し、どうしようもなくセクシュアリティを意識しつつも、最終的には「個人」「自分」「私」であることを主張してきた。例えば映画『地獄の黙示録(Apocalypse, now)』のオマージュのようなタイトルのアルバム『Apocalypse, girl』(2015年)では、冒頭曲「Kingsize」でかなりエロティックな表現に踏み込みながら、女性に家庭的な暮らしを求めるような論調に異議を唱えている。『Blood Bitch』(2016年)というアルバムのタイトルが歌詞にも登場する「Conceptual Romance」では、性への欲望とそこに塗れてしまう自分との間で揺れるアブストラクトな心情を綴っている。ジェニーの歌詞は、いつだって女性の本能とヒューマニズムとの間で引き裂かれるアンビバレントな本音が、赤裸々に、でも徹底して理性へと姿を変えて姿を現してきた。
だが、ジェニーのポエトリー・リーディングのような本作の1曲目(タイトル曲)の「Menneskekollektivet」では、エホバの証人を引き合いに出し、人間とは何か? 「私」とは何か?と自問自答している。あくまで歌詞を書いているのはホーヴァルではなく歌っているジェニーの方だということを前提とした解釈ではあるが、ドアをノックするのはドアという概念を信じているから──そんなくだりが登場するに至っては、(女性としての)肉体と脳を切り離そうとしても無理な相談だ、とでもいう達観した見地に立ったようにも思えたりするほどだ。だがたとえそうであったとしても、それは歌詞や言葉、概念や思想によって解決できないことへの一定の諦念や、修行僧のような無の境地などではなく、もはやそれこそが人間の所業であるとする、ジェニーなりのヒューマン・ルネサンスなのではないだろうか。
アルバム・タイトルはノルウェー語でHuman Collective=“人間の集団”を意味する。一方で、このユニット名が“失われた少女たち”であることを照らし合わせてみればみるほど、女性であることの極端な自我に歌詞の上で少し距離を置いたことと、「私」であることの無為を肯定することが、サウンド面においてストイシズムを纏ったエレクトリック・ファンクを今作で展開したことと全く無縁とは思えない。少なくとも筆者には、「Menneskekollektivet」の中盤……具体的には3分15秒付近からパーカッションのトライバルなビートが挿入され、ポエトリー・スタイルからメロディ歌唱へと切り替わっていくゆるやかなグラデーションが、そうした意識のシフト・チェンジのプロセスのように聞こえる。
複数の女性らしき後ろ姿(頭)のモノクロ写真をあしらった、文字の一切ないジャケットのアートワークはこう物語る。歌詞も言葉も、肉体も口も耳も、顔さえも要らない。それが「私」と「あなた」……人間が本来奏でる音楽なのだと。(岡村詩野)
※フィジカルはアナログ・レコードのみ