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5lack: この景色も越へて

2020 / 高田音楽制作事務所
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なぜ5lackは「揺れろ」と煽るのか

13 May 2020 | By Daiki Takaku

⑴はじめに

断言しておこう。もしあなたが何を信じていいかわからなくなってしまったら、もしあなたが何のために生きているかわからなくなってしまったら、5lackのラップを聴くといい。誰よりこの世界を悟っているかような、誰よりこの世界に怯えているかような、強く繊細に音の上を揺れる彼の言葉に、あなたはあなた自身を、思い出すことができるはずだから。

「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」とは、初代ドイツ帝国宰相のオットー・フォン・ビスマルクの言葉だと伝え聞く。様々な受け取り方がある中でも原文を直訳し、「初めから間違いを犯さぬために他者の経験に学ぶ」という意が最も有力に思える。無粋な引用かもしれないが、持たざる者の歌、路上の哲学……ヒップホップと呼ばれる愚者による経験の音楽を聴く者は他者の経験を学んでいることになるはずだ。先日、河出書房新社から出版されたムック本『 ケンドリック・ラマー(文藝別冊/KAWADEムック)』に掲載されたインタビューの中で仙人掌は、5lackがいち早くケンドリックを評価していたことを語っており、彼が優れたディガーでもあったと窺い知ることもできるだろう。そう、5lackは冒頭で引用した言葉を地でいくように早熟な音楽家であった。本作『この景色も越へて』はそんな彼に近年起きていた変化が顕著に表れた作品となっており、ひとつ本質的な意味でのヒップホップをついに体現した作品である。

⑵ヒップホップと5lack

5lackの音楽は、常に「ヒップホップ」という概念との対峙だ。ともあれ、これは文脈に依存するこの音楽の特性と、ある種のメタ的な視点、つまりは「輸入品」であるヒップホップに対しての憧れと探求ゆえに「ホンモノになりたいと願えば願うほどホンモノではないことを突きつけられる」という、国内における彼の同世代やその上の世代のラッパーやビートメイカーの多くが共通して抱えているジレンマによるところが大きいだろう(そういった意味では彼らは永遠に“持たざる者”であり続けるのだが)。だからこそ、ある者はサグ・ライフへ、ある者はNYへ……文脈を内面化せんと、リアルなヒップホップを体現せんと、それぞれがオリジナルを求め道を選んでいった。その中で5lackが特異だったのは、このジレンマに対して、自分の物差しを「ヒップホップ」という概念に委ねながら、それでも自分自身の物差しを持つのだというさらに大きな矛盾を繰り返しライムし続けた点である。それも、非常に軽やかなカタチで。キャリアの前半で彼が頻繁に用いた「テキトー」という言葉は、その天邪鬼にも思えるスタンスやフリーキーなフロウ、ハードさとソフトさを兼ね備えた(どこか気の抜けたような、とも言える)ビートを評すために適切であった。そして同時に、憂鬱な日々を生きる我々リスナーを、何より彼自身を解き放つための言葉でもあった、という考察も現在であれば可能であろう。当時そこに生まれたフレッシュさは十二分にポピュラリティーを獲得したが、オーセンティックさの追求と個人主義的な側面を両立させようという彼の姿勢は、誤解を恐れずにいえば強欲にも映る。それはすなわち、全てを欲しがったということに他ならないからだ。

言うまでもなく、5lackにはそれを成し得るスキルと度量があり、彼が手にしてきたもの以上に、リスナーは彼の存在を媒介に様々な音楽と繋がっていくことができたということも忘れずに書いておきたい。

⑶変化

地元である東京の他に福岡にも生活の拠点を置きはじめたことも大きかったのであろう。多分に偏見を含んでいることを自覚した上で書くと、東京という土地で生まれ育った音楽家たちは若くして洗練されているケースが少なくない。しかし、そこは止まることを許さない街であり、悲しみまでも飲み込んで夢に変えてしまう場所でもある。Quick Japan vol.147で実兄PUNPEEの口から語られている『My Space』(2009年)リリース後、高田家に初めて訪れた増田岳哉氏(当時《File Records》所属、現《SUMMIT》A&R)を「屁こき虫」と呼んだエピソードからもわかりやすいように、5lackもまた表面的な消費のされ方について警戒していた。あるいは前々作『夢から覚め』(2016年)に収録された「都合いいやつら」を聴いても彼の置かれていた状況が垣間見えるだろう。

さらに、年齢も30歳を超え、彼のラップには大きな変化が訪れ始める。前作『KESHIKI』(2018年)の中で、時間の経過に対する焦燥感を露わにしながらも、時間の経過の中で得てきた経験から若い世代に向けて“お前次第だぜ”(「進針」)と言い放ったのである。そんな『KESHIKI』の続編として位置づけられたのがこの『この景色も越へて』であり、前作にあった「経験」という要素がさらに作品への影響を濃くしている。本作はこれまで見ていた景色があってこその作品であり、文字通りその先を眼差した作品でもあるのだ。

⑷その景色も越へて

本作『その景色も越へて』についてまずざっくり書いておくと、ハードなラップの光る前半、折り返しに当たる5曲目「あの丘の上で」は折衷的なアプローチ、内省に向かう後半はメロディアスなフロウを心地よく聴かせる構成となっており、サンプリングが中心のセルフメイドの不穏なビートがサウンドの基盤となっているが、打楽器の音色が散りばめられていることで重たくなり過ぎていない。また、相変わらずというべきか、フロウの多様さは圧巻でリリックを聴き取らずともサウンドそのものを楽しむこともできる。加えてリリックでも自らのクラシック「Weekend」からの引用やバクロニム的な言葉遊びなど意匠を凝らしている。本稿ではとりわけそのリリックの内容に着目して彼の変化を紐解いていきたい。

前半部分の主要な色はブーンバップ・サウンドの上に叩きつけられる勘ぐり、苛立ち、ボースティングによる逃避で、つまるところ自らが持つジレンマへの正対といえる。中でも注目したいのは「俺の成り立ち」の中で“HIP HOPそのものがキングなのだと知る”という服従の宣言だ。それは曲名の通り今までの自分の指針に対しての考察であり、今後もヒップホップという道を極めんとする不退転の覚悟とも、ひとつの葛藤に対しての幕引きとも取れる。その真意はわからないが、ここには確かに過去を省みて自らの歩むべき道を見出そうという意志を感じるだろう。

もうひとつ前半で指摘しておきたいのは、仙人掌を招いた冒頭曲「Who said it」の中では“もはやこれも人のもの”と自らのオリジナリティに対して懐疑的な視線を送っている点だ。過去には「HNGRI KILLIN‼︎」の中で“どこぞのRapperまた俺をパクリ 俺もパクリ”とスピットしているが、そこにあった不敵さは削がれており、聴き進めるにつれ(これは後半にもまたがるが)、そんな懐疑的な視線は「仕組み」、「歯車」、「システム」といった単語や、“彼がクールに見えるのすら本当は彼の力じゃないのかも”(「フレンズ」)というラインなどから、形成された社会の裏側にあるものへと向けられていく。社会的なメッセージとアクチュアルな響きを備えている点においては震災後にリリースされた『この島の上で』(2011年)を彷彿させもするだろう。そして仙人掌の声(MONJU「whats up Mr.manhole」からのサンプリング)も、高級車の脇をママチャリで走る私たちの日常に対する疑問符として「俺の成り立ち」のイントロで再生され、リスナーはおのずから人生を振り返り、そこにあった当たり前が揺れ動き始めていることに気がつくはずだ。

折り返しに当たる「あの丘の上で」の中で“GetしたぜNegativity / Positiveに変換!”(「あの丘の上で」)とスピットしてはいるものの、後半は孤独の檻の中で展開されていく。ハードな前半部分とは対照的に弾き語りの「ヒーローは日曜日に眠る」に象徴されるメロウな楽曲が多く、リリックは前作『KESHIKI』にあった焦燥感も残りながら、さらにシリアスなトーンを深く引き摺っている。ラストソング「透明少女」での”消えてしまいそう”と儚げな歌声は、全てを求めたことで支払った代償の大きさを想わせ、取り返しのつかない喪失と共に本作は幕を閉じてしまう。聴き終えたあとに残る苦い余韻はリリース時(コロナ禍を迎える前)から存在していた、じっとりと暗く果てのない閉塞感を反映してもいるだろう。

タイトルから想像するものとは対照的に、本作の主題は過去にあるといえよう。言い換えれば、まさしく愚者の経験の音楽として届けられたわけだが、コロナ禍に直面する現在、本作が過去を見つめていることは実に示唆的だった。日々、様々な媒介を通して、その正誤に関わらず溢れている情報に加えて、そのレスポンスとして(大抵は議論を成していないが)大量の批判が濁流となって押し寄せてくる。中でも目についてしまうのは「どの口が言うのか」、「お前にそれを言う権利があるのか」という、どうしようもない言葉たちだ。本当にどうしようもない、が、こんな言葉にも私たちが精神的に削られてしまうのは、私たちはこの醜悪な世界に加担せずには生きてこられなかった、あるいは現在進行形で加担しているかもしれないからであろう。ならば未来は、どう描いたらいい? 本作はいうなれば、こうした現在と過去との矛盾を受け入れ、先に進むためにあった。かくして5lackは、この景色も越へて、未来へと向かう。

⑸全ての試練に立ち向かう同胞と全ての子供たちへ

コロナ禍を迎え緊急事態宣言が出されようとしていた4月6日、ドネーションソングとして突如リリースされた「きみのみらいのための」を本作の本当のラストソングと位置付けるのは都合が良すぎるだろうか。リリースに際して添えられたコメントは抽象的ではあったものの、リリックはまさにこのコロナ禍において(直接コロナに言及していないことも重要だ)明確に表面化したこの世界の歪み(主に経済的な格差)に対して歌われている。2016年のインタビュー(https://www.youtube.com/watch?v=XmBl5d7HwxU)を見れば、本作および「きみのみらいのための」における社会的な視点は『夢から覚め』リリース時から彼の実体験と思考の中にあったものが実を結んだ作品ともいえるだろう。なにより、切実な“笑っていたいね”というラインからは、名作『Whalabout』(2009年)のラスト「笑えれば」を思い出すとともに、喪失の重さは責任感へと姿を変え、未来へ繋ごうという決意として受け取ることができる。ちなみに、この曲の収益から各サービス手数料を差し引いた金額が子供や困難を強いられている人々への支援資金として贈られるとのこと。つまり自らが進んで矛盾を受け入れた先でどうするのか、という疑問に答えてみせたということであろう。「きみのみらいのための」をもって5lackはついに終わりなき矛盾の先にある未来に手を伸ばすのだ。

最後になるが、本作を聴いて改めて5lackは正直な音楽家なのだと思った。過去作を聴いてもその作品群に共通して言えるのは、決して過去にも背を向けることなく、未来へと歩みを進めるという矛盾を自らの言葉の中に共存させているということ。ときに言葉足らずではあるものの、強さも弱さも全てを音楽の中に込めているということ。いつだって彼は、そんな醜くも尊い葛藤のループの中で揺れている。その揺らぎは自身の過去と目の前の世界との狭間で起こり、彼は決してそれを止めようとはしない。それどころか、私たちに「揺れろ!」と煽り続けるのだ。まるで、人は日々変化しているからこそ、常に自らが何を求めているのか知る必要があり、揺れていることこそ、今揺るがない何かをあぶり出すことなのだと伝えているかのように。持たざる者である私たちは、きっとこの揺らぎを、矛盾を、受け入れてはじめて、希望のある未来を描くことができる。

⑹追記

4月24日にナタリーで公開された『5lack編 | 退屈な自粛タイムを楽しむプレイリスト Vol.13』において自身のプレイリストに音楽ファンへのメッセージとしてこんなコメントを寄せている。「自分を受け入れる事で、やっとスタートラインに立てるのではないでしょうか。しかし、人間にとってそのスタートラインはとても遠いのかもしれない」(一部抜粋)。5lackのラップはあなたを揺らし続けるだろう。スタートラインへと導くように。(高久大輝)

■5lack Official Web Site
https://5lack.com

■高田や
http://takadaya588.shop-pro.jp


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