妖麗なシンガーが捉える愛の距離
再生するとすぐ、リスナーに聞こえるのは虫の音。あるいは1曲目のタイトルにある“庭“を飾りつけるような鳥の囁きや草木の音。つまりは地上の音である。“Red Moon In Venus”。アルバム・タイトルが想像させるのは、宇宙である以前に、自らから離れた、遠くに浮かぶ情熱的な色である。彼女の声の、ヴォーカルの反響は、彼女がある程度離れた、近い存在ではないことを表現しているように聞こえる。アルバムは開幕早々、地上と上空の位置関係を演出する。我々が夜空を見上げるとヴィーナスが、確かに浮かんでいる。
カリ・ウチスは、この時代に人々の距離を捉えた。2020年に「telepatía」で、遠く離れた愛する人と、精神的に、スピリチュアルに接続を試みたのは象徴的だ。その「違う場所と場所同士の愛の歌」は、パンデミック禍における人との対面が叶わないリアルタイムの状況や感情にもフィットし、テレパシーに多重的な普遍と意味をもたらした。一方で『Red Moon In Venus』におけるカリ・ウチスは常に愛する人にテレパシーを送っているわけでもなく、時に親密に相手と距離を詰めながらも、この時代のリレーションシップを、情熱と不吉の感情を纏って映し出す。
幻惑的だが生っぽく、近くにいるようで遠くにいるような、そんな音楽が『Red Moon In Venus』には充満している。抑制の効いたドラム、艶やかなストリングス、現代的な色を付与するシンセ。何よりも官能的、甘美なヴォーカルは反響し浮遊感を醸す。密着性、粘着性というより、手に取ろうとすると消えてしまいそうな何か。空気や香り、あるいは煙のような感覚である。意識はなくそこにはただ流れがあるだけ。それはある種の陶酔感覚の表現ともいうべきか。または快楽的な時間に身を委ねている姿とでもいうべきかもしれない。
そんな空間をサウンドにおいて作り上げる今作は、何よりもセルフラヴに溢れており、官能的な時間への逃避も、そこから目を覚ますことも肯定する。
官能とポジティヴネスの必要性は、パンデミックを経た近年さらに人々の間で高まっていると言えるだろう。同時代性を感じるものを挙げるとすれば、昨年のビヨンセによる『Renaissanse』、またはスティーヴン・ソダーバーグによる映画シリーズの新作『マジック・マイク ラストダンス』(2023年)。つまり、ビヨンセが改めてダンス・ミュージックとして、この時代にベッドルームで繰り広げられるロマンティックな時間を歌い、ソダーバーグが欲望を解放するマジック・マイクの物語を、リアルタイムの現在を舞台に再び描いたように、パンデミックにより人々に距離が生まれたことで孤独と抑圧に溢れ、親密な時間の尊さを人々が実感した後のこの時代に語られる、官能的な時間の肯定は大きな意味を持つ。ただその中で、カリ・ウチスの表現は、地に足がついているというか、現実主義的と言えるかもしれない。そう感じるのは彼女が、あくまでこの時代において現実的な意味をもたらす、あるいはリレーションシップの要になるであろう、その“距離”について意識的に描写しているからだろうか。
愛にとって“距離”が、自由と執着の両面をもたらすことを彼女は知っている。ある場面では誰かを切り離し、またある場面では誰かを求める。しかしその中でも誠実さの価値を最も重んじる。ドン・トリヴァーとの6曲目「Fantasy」は、そのタイトル通り、愛するもの同士の親密な時間の恍惚を写しながら、相手との対話を手放さない。その感覚的な時間に溺れながらも、お互いの尊重を大切にする。一方でサマー・ウォーカーとの13曲目「Deserve Me」は、お互いの有害な関係性に対して区切りをつけようとする姿が見える。
お互いを求める姿と別れる姿。その中で解放され自由を手にする彼女と、孤独の中で愛を求める彼女、その両面をアルバムは映す。人と距離を置くこと、または距離を縮めること。そのアクションは、自らに対して、愛に対して誠実に接していくために必要なものだろう。愛を信仰するために、赤い月を見上げるためには、その距離を意識せねばならないと、妖麗なシンガーは甘美に歌う。(市川タツキ)
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