反復・ノイズ・複雑さ
繰り返すこと。『Conduit』は“繰り返す”レコードだ。1曲目の「Etym」では、「Marking the past」(過去をしるし付ける)という言葉が冒頭に4回唱えられる。それはどれも同じ言葉だが、繰り返されるごとに少しずつ異なる響きを持つ。宣言するように。つぶやくように。煽るように。そして一拍おいて、噛みしめるように。「過去をしるし付ける」「触れ合おう/しびれ(numbness)を振り払おう」「いま生きている/いま生きている/意識はクリアだ/たしかにここにいる」と、このサウス・イースト・ロンドン、ルイシャム出身のラッパーは何度も繰り返す。3曲目の「Permeated Secrets」では「真実を聴いてほしければ何度も繰り返す勇気を持て」と歌われ、その後に続く「Till the facts are out(真実が露わになるまで)」という言葉は、かつてキング・タビーが生み出し、デニス・ボーヴェルがインナー・シティで鳴らしたサウンドを模すように「out, out, out, out…」と人力でダブワイズされている。ジェフ・ミルズを連想させるつんのめったテクノ「Night Ride」では、「通り抜けろ」と何度も促され、フリー・ジャズ的なホーンがきしみを上げる「Response」では「active!」という言葉が、アルバム中で最も熱を帯びたトーンで叫ばれる。同じ言葉や動作を繰り返すなかで、曖昧なものがだんだん確かになっていく。地面を何度も踏みしめるなかで、少しずつ体に熱が戻ってくる。そんな、スピリチュアルの歌い手たちや、ブラック・パンサーたち、ダブ・ポエットたちからヒップホップへと流れ込んでいったループの力が『Conduit』を駆動している。そのなかでガーナ系移民3世のアイデンティティにかかわる歴史、たとえば右翼的な国民戦線と反差別団体が衝突した「ルイシャムの闘い」などについても歌われるのだが、どちらかといえば直接的な表現は避けられ、そのためリリックの意味以上にループそのものの「運動」が印象に残る。たとえば先述した1曲目「Etym」の中盤では言葉はノイズに覆い隠されてもはや聞き取れないが、そのなかでも歯擦音の欠片が幾度となく反復される、脈拍のようなリズムは最後まで消えずに残っているのだ。そして、ノイズで隠された詞が、乾いた土地、光、大地に恵みをもたらす雨について歌っていることを知ったとき、そのリズムがある種のチャントや祈りの動作とつながっていることも明らかになるだろう。
ノイズ。『Conduit』はノイズに満ちたレコードだ。Cobyのラップが抑えたトーンのまま淡々と持続していくのに対し、おなじく彼自身が手がけるトラックは聴き手の予想を裏切りながらどんどんと形を変え、ときに自らの声に干渉し、攻撃する。「Etym」で、トラックはサイレンのようなシンセ、反響する金属音など、都市の風景を直接的に連想させるようなサウンドから始まるが、そこにはすぐにグリッチ・ノイズによる切断が加えられ、グライム、あるいは“破壊された”グライム(Cobyの音楽はしばしば英メディアによって“ポスト・グライム”と称されている)を思わせるスウィングしたBPM130のリズムのなかで、音割れしたキックとサイン波が声を飲み込んでいく。そのノイズは次曲の「Mist Through The Bits」に引き継がれ、サイレンのようなシンセが鳴るなか2拍4拍でリズミカルにグリッチ・ノイズが爆発する。こうした“インダストリアル”という言葉を使いたくなるような過激なサウンドのほかにも、「Night Ride」で接触不良のようにジリジリと鳴り続ける雑音や、誰のものともしれないささやき声、遠くで反響するアナウンス、そしてアルバムの最後に置かれた「Eve(Anwummerɛ)」の雨の音まで、『Conduit』はさまざまなノイズに満たされている。こうしたサウンドは不穏さや怒り、フラストレーションを感じさせる一方で、粗削りな生々しさやパフォーマーとの“近さ”を感じさせる。インタビューでCobyはこの「ノイズ」の説明としてボム・スクワッドの手によるパブリック・エネミーのトラックや、エレクトリック・マイルス、グルーパー(リズ・ハリス)、ソニック・ユースなどの名前を挙げ、彼自身がその粗く耳障りなサウンドに生々しさやリアリティを感じ、親しみを覚えてきたことを語る。そういう意味で、彼にとってノイズは “ソウルフル”なのだと。そういった感覚を、彼はコレクティヴ、CURLの仲間であるMica Levi やKwes(Coby Seyの兄)の音楽を聴いたり、彼らと音楽について話したりするなかで身につけたという。
複雑さ。『Conduit』は異なる要素が複雑に同居するレコードだ。不安や怒りがある一方で、ポジティヴでタフなバイブスがあり、ルイシャムに生まれたこと、ガーナ系移民3世であること、ワーキング・クラスの家庭出身であること、一人のミュージシャンであることが同一平面上に表現される。Cobyは自らの音楽に対する姿勢について“ポジティヴさとネガティヴさのどちらかに寄るのではなく、その間にあるものを掬いとること”と語っているが、このレコード上に豊富に漂っている、楽音に回収されない余剰=ノイズは、そうした多重的な表現と直結している。そして、この反二項対立的/多重的な感覚は、CobyがヴォーカルとソングライティングでかかわっているTirzahの『Colourgrade』(2021年)や、Mica Leviの『Blue Alibi』(2021年)、TONE『So I Can See You』(2022年)といったCURLおよびその周辺のアーティストの作品にどこか通じている。彼らの作品の、不安定さやノイズをあえて残したような佇まい、感情をむやみに煽ることを避けるアンチドラマなトーン、確固とした構造から逃れるような不定形さ。それは初めて聴いたときは耳障りでとらえがたく、無表情・無機質にも感じられるが、特定の感情を刺激するようデザインされたものが世界を覆うなかで、複雑なものが複雑なままに、曖昧なものが曖昧なままに表現されていることを掬い上げたい。そこに聞こえるのは間違いなく、コミュニティ同士が軋み合うノイズに満ちたロンドンのサウンドなのだが、それ以上に、単一化できない曖昧さや重層性を抱えた個人のサウンドなのだ。CURLのミュージシャンたちのサウンドは一見奇抜でSF的だが、そこにはたしかに2022年における「日常性」の地平が提示されている。Coby Seyの『Conduit』では、強靭にループされる言葉を、ノイズに満ちたトラックが揺らす。また、そのサウンドは聴き手への分かりやすい鼓舞にもフラストレーションの暴発にも向かわず、その間の地点に漂う。それを中途半端に、あるいはカタルシス不足に感じる人もいるかもしれないが、少なくとも私――無数の二項対立に引き裂かれ、揺れ動く主体としての“私”――はその複雑に濁った色彩感や、“解決しなさ”に強く惹きつけられるのである。(吸い雲)