Back

追悼
坂本龍一と言葉

03 April 2023 | By Shino Okamura

かねてより癌との闘いが伝えられていた坂本龍一が死去した。3月28日に息を引き取ったことを4月2日にマネジメントが公表。71歳だった。

彼についての文章を公の場に寄稿したことは数えるほどしかない私でも、こうみえて実はかなり熱心なリスナーなので、今ここで坂本の作品について、これまでに観てきたライヴ・パフォーマンスについて、振り返りながら綴ることはもちろんできる。でも、それはまた何かの機会とさせていただき、ここでは文章書きの端くれとしてどうしても書いておきたいことをまず残しておこうと思う。

それは彼の言葉について。厳密に言うと、発言、いや、話ぶりと言ってもいいだろうか。私は坂本龍一の音楽作品と同じくらい話し言葉が好きだ。特に対談やインタビュー本などはおそらくほとんどを所有していて、生きることが窮屈になったり、日々の暮らし自体に息苦しさを感じたら、それらの本を開くようにしてきた。世界的栄誉を受けてきた音楽家に対して、話し言葉が好きというのはあまりにも失礼なことであることは承知の上で、それでも彼の言葉に対する姿勢に大きな影響を受けたということを告白しておきたい。

当然ながら、坂本の言葉の多く……特に脱原発、反戦をはじめとする一人の人間としての行動と意思表明を伴う発言は、非常に示唆的であり、警鐘的であり、そしてたぶんに政権、社会批判そのものであり、しかしながら、ある側面では当たり前のことをとてもわかりやすく伝えるものであってきた。そこに坂本のヒューマニズムたる哲学が確かにある。

けれど、坂本の発言は、それ自体が金言・名言のように教説、あるいは教義にだけなりうるものではない。結果としてそうなるにせよ、またそれが政権批判となったとしても、彼はある種の親和性、気取りのなさを重んじ、誰もがスッと心身に入ってくるような言い方を選んでいる。例えば、去る3月15日の《東京新聞》朝刊の一面に掲載された脱原発のメッセージ。ここでは“なぜこの国を運営する人たちはこれほどまでに原発に固執するのだろう。(原文ママ)”と、「国を運営する」という表現を用いることで、松下幸之助ではないが国家的視野の欠如を嘆いているわけだが、最終的には、放射線廃棄物を埋める場所もないとした上で、“それなのに何かいいことがあるのだろうか。(原文ママ)”と極めてシンプルな表現をこのメッセージのクライマックスとしている。一般紙のトップという条件を考慮したのだとしても、この素朴な言い回しは実に力強い。「何かいいこと」なんてそんなものは何もない、という、と誰もが想像できる単純な反語表現でズバっと核心をつく。カッコいいボキャブラリーで気の利いたことを言おうとするのではなく、誰もがすんなり理解できる表現を好む坂本の姿勢は、もちろん彼が基本的には言葉の人ではないこともあるのだろうが、ある種の言葉の解放を逆説的に伝えるものでもあった。

坂本の対談本でとりわけ好きなのは高橋悠治との『長電話』(本本堂)だ。これは1984年5月……つまりYMOが散開した半年後に発刊された、両者がまさに電話でした様々な話をまとめたもの。コンテンツには無数のタイトルが載っているが、中身はテーマに応じて真剣に会話をかわしたものというより、ダラダラと雑談をする中に一瞬そのテーマがノンブルのように挿入されるというレベルで、一般有意義な話が満載といった書籍ではない。それどころか、「ヘエー」とか「ウーン」とか「ヘッヘッヘ」といった相槌や生返事まで文字にしてあり、下段に注釈はあるものの、横になったり何かを食べたり飲んだりしながらそれぞれのテンポで二人がただただ会話を続けている、そんなありのままの良さがある。

だが、そこにはドキッとするような発言も多い。例えば序盤、かつて手塚治虫のSF漫画などで出てきたテレビ電話のようなものが、(この時点で)技術的にはすぐにでもできそうなのになかなか普及しない理由について、坂本はこのように話している。“やっぱり顔が見えない方がいいのかしらね。ハハッ。(原文ママ)”。一見すると適当に流しているようだが、本来リアルタイムで知覚できないものを瞬間に伝える電話という便利な道具に対して、やんわりと「見えない豊かさ」もあるとアイロニカルに評している。今やスマホやPCで顔を見ながら話すことはすっかり日常になったが、その出現の何十年も前に「目に見えればいいというものではない」とも読み取れるような重要なテーゼを、“見えない方がいいのかしら”と軽く発言しているのはとても興味深い。「いい」って何がいいんだろう? とシンプルな言葉によって読み手に想像させる隙間、余地が大いにある。

坂本の生前最後に届けられた対談本は、おそらく3月24日に発売されたばかりの『音楽と生命』(集英社)だろう。これは生物学者である福岡伸一との対話をまとめたもので、NHKのEテレで2017年に放送された『SWITCHインタビュー 達人達』を未放送分を含めて収録、さらに大幅に加筆修正した内容になっている。世界的高評価に加え、発言力ある行動で知られるようになっていた坂本は、研究者である福岡といくつものテーマを共有しながら生物学的、音響学的なクロスを求め、またはその差異を認識しながら論を展開していく。それこそ視覚的に“見え”、また映像的な編集も加わったテレビでの対談をベースにしたものなので、いくらかのエディットがあったにせよ基本は書き起こしそのままに野放しだった先の『長電話』とは正反対の本と言えるし、放送時に観ていた時とは違い、書籍として読むにあたってはとりわけ福岡による専門用語や固有名詞を調べたりしながらの作業になるのでいくらか学びの側面が強い。もちろん、福岡も坂本もわかりやすく話しているので難解な対話を読まされている実感はなく、それどころか途中何度か対談の時期と場所を変えていることもあり両者の距離が縮まったり温まったりする空気の変化も楽しめる本だが、時はバブル真っ盛り、YMO散開後のある種の開放感に包まれていた坂本と旧知の高橋悠治との40年前の会話のようなライトなノリはなく、一定の緊張感の上に二人の充実した会話が成立している。この時点で最初の癌罹患を発表(2014年)していた坂本にとっては生命現象を動的平衡という言葉で紐解く福岡との会話は、もしかすると一種のセラピーのような側面を持っていたのかもしれない。

とはいえ、40年前と変わらないな、一貫しているなと気付かされる箇所も非常に多い。“何かいいことがあるのだろうか”とか、“顔が見えないほうがいい”というような想像の余地を残した表現こそ少ないが、この本での坂本の発言では、その代わりに時折使われている、一つのわかりやすい言葉に目が止まる。「面白い」という表現だ。日常、我々はこの「面白い」という言い方を特に狙いや意図を気にせず気軽に様々なシチュエーションで使うが、坂本は曖昧な「見えない方がいい」「何かいいこと」という言葉にしにくい想像力を求められるニュアンスを、「面白い」「興味深い」という平易な表現に置き換え、それこそが科学では知見しえない未知の領域の豊かさであるとしている。あえて簡便でどのようにも使えて変貌可能な、ある種の汎用性ある言葉として「いい」同様のカジュアルな言葉「面白い」を用いることで、言葉そのものも自由にさせているようにさえ思える。これは、彼の音楽作品が晩年になればなるほど、あらゆるマナーや形式の束縛はもとより、自身のそれまでの歩みからも解放させようとしていたことと似ているかもしれない。

この対談本ではその対極にあるキーワードとして“ロゴス”という言葉が頻繁に登場する。人間のロゴス化、言語のロゴス化を脅威とし、記号や言葉で合理的に処理しようとする人間社会の対岸にあるものを求める二人。本来人工物を一切まとわない生身の肉体であるはずの人間と、その人間の無作為な開発から免れている残された自然や生物の間に線引きをしないことによって生命の循環、ひいては音の循環となりうることを自身で立証するためには……? その逡巡が緩やかに語られる。だがしかし、そこにはいくらかの矛盾も生じるということを坂本は理解した上で、“ピュシスとしての脳を持ち、非線形的で、時間軸がなく、順序が管理されていない音楽というものを作れないかと、ずっと考え続けています。(原文ママ)”と終盤に話している。『async』という、この対談時点(2017年)での最新アルバムはそうした思考に極めて自覚的になって制作した作品とされているが、そこに付随する言い方をするなら、「見えない方がいい」とか「何かいいこと」、あるいは「面白い」という子供でもわかる感覚的で平易な言葉が、実は言葉のロゴス化への最大の抵抗になりうるということを坂本は理解したうえで使っていたのかもしれない。坂本の発言、話しぶりの中に時折出てくるそうした、一見わかりやすくチャーミング、でも実は様々なニュアンスを包括できるおおらかな表現は、反射的に出てきたものではなく、意識的な動作によるものだったのではないだろうか。

坂本龍一は発言に矛盾があるとよく言われる(先の『長電話』でも“すぐ矛盾するね。言うことが。(原文ママ)”と自嘲している)。もしかするとそれは、ピュシスとしての脳を持ちながらも、何か人工的に手を加えていくという音楽生成の行為に長くジレンマを感じていただろうことの表れの一つかもしれない。しかしながら、例えば、物質社会・資本主義社会への疑念と対峙する姿勢は、実はバブル真っ最中の頃の発言にも明確に表れていた。そして、いくらでも難解な表現ができるだろうところ、やはり平易で親しみやすい、人によっては軽いとも思える言葉を使うことで、意識の中枢をしっかり炙り出している。少なくとも私はそこに言葉のロゴス化からの脱却のヒントを感じずにはいられない。高橋悠治との対談書『長電話』の中に残された、厳しくものらりくらりとしたその一節を最後に引用してこの原稿を終わろうと思う。

 “もう埋めつくされてる物への、物質への、なんかこう、なんとなしの反感というのかなあ、そういうものもあるね、確かに、ぼくなんかは。それ全部嘘っぽいというような感じはいつもあるなあ”。

「嘘っぽい」社会に別れを告げた坂本龍一さん、ありがとうございました。私はあなたの言葉から「本当の何かいいこと」をきっと受け取っているのだと信じています。(岡村詩野)

Text By Shino Okamura

1 2 3 62