音楽映画の海 Vol.4
『エミリア・ペレス』
ミュージカル映画の常識を書き換える仏産クライム・サスペンス
アカデミー賞に13部門でノミネートされ、助演女優賞と歌曲賞の2部門の受賞作となった映画『エミリア・ペレス』。観てみたら、これが想像以上に面白いミュージカル映画の怪作だった。こんな挑戦的なミュージカル映画は、久しく観たことがなかった。だが、世の中ではそのミュージカル映画としての突出した面白さはあまり語られていないようだ。
友人は映画館に足を運んでから、初めてミュージカルだということに気づいたと言っていた。僕もミュージカル映画であるとは聞いていたものの、冒頭の数分で、え? ここまで純度の高いミュージカルなのだ! と驚いた。純度が高い、というのは、セリフが少なく、物語が歌で綴られていく形式を取っているということだ。予告編を見ただけでは、これは想像できなかった。
もっとも、そういうミュージカル映画であるということは、映画の宣伝的にはあまり言わない方が良いのかもしれない。状況やストーリーがいちいち歌で説明されるミュージカル映画は現代ではあまり好まれない。まどろっこしいからだ。実を言うと、僕もそういうミュージカル映画を苦手としてきた一人だった。
ミュージカル映画の歴史は長い。というより、1920年代に映画がサイレントから音声付きのトーキーになった時、最初に作られた長編映画がアル・ジョルソン主演の『ジャズ・シンガー』というミュージカル映画だった。以後、ミュージカル映画はアメリカのエンターテイメントの世界の中心的な存在になった。その太い潮流は数多くのスターを生み出し、数多くのスタンダード曲を生み出した。
だが、僕が音楽に興味を向けるようになった1970年代にはその最盛期は去っていたし、ロック・ファンは基本的にショービズの匂いを嫌った。だから、僕もミュージカル映画は敬遠気味だった。形式として、まどろっこしい。あるいは、劇中の音楽が好きになれない。音楽ファンであればあるほど、音楽的なクォリティーには敏感になり、ステレオタイプな歌やダンスを見せられても、うんざりするという傾向は強いはずだ。
そんな僕が初めて熱狂したミュージカル映画は『ロッキー・ホラー・ショー』である。『ロッキー・ホラー・ショー』の公開は1975年だが、僕が観たのは数年後だったと記憶する。友人に勧められて観たそれは文句なしに面白く、ヴィデオ・ソフトを購入して、何度も繰り返し観ることになった。
リチャード・オブライエン原作のミュージカルをジム・シャーマン監督が映画化した『ロッキー・ホラー・ショー』はホラーであり、コメディであり、現代から見れば、LGBTQ映画の先駆とも言える作品でもあった。低予算のインディー映画だったが、カルト的な人気を獲得した。ルー・アドラーがプロデューサーで、音楽面にもマニアを唸らせる趣向が随所に織り込まれていた。このロッキー・ホラー・ショー体験のお陰で、ようやく僕もミュージカル映画というフォーマットを楽しめるようになった。
ある意味、異端から入って、スタンダードなものにも遡っていったのが、僕のミュージカル映画体験だったと言ってもいい。
クライム・サスペンスであり、ミュージカルでもある『エミリア・ペレス』は、そんな僕にとって、まさしく『ロッキー・ホラー・ショー』以来の衝撃だった。こんなミュージカル映画が存在しうるとは想像もしていなかったからだ。『エミリア・ペレス』の舞台はメキシコ。言葉はスペイン語だが、制作はフランス。監督のジャック・オーディアールは1980年代からのキャリアを持つ大ベテランだが、過去にミュージカル映画を撮ったことはない。
先述のように、映画が始まってしばらくはセリフがほとんどない。ゾーイ・サルダナが女性弁護士の役で登場するのだが、法廷や記者会見や病院のシーンも歌で綴られていくのだ。サルダナはアカデミー賞の助演女優賞を受賞したが、ミュージカル映画として観た場合、主役は完全にサルダナである。サルダナはダンサー出身だが、音楽パフォーマンスの経験はなく、特訓を積んで、レコーディングに臨んだようだ。
ゾーイ・サルダナ演じる弁護士・リタ
観客が状況設定も何も分からない冒頭から、ここまでミュージカルであることに徹したミュージカル映画というのは多くはない。しかも、サルダナ演ずる弁護士・リタは突然、拉致されて、麻薬組織のボスと対面することになり、断れない依頼を受ける。彼が性別適合手術を受けて、別人としての人生を始めることと、彼の家族を安全にスイスに移住させることの手配だ。こんな緊迫感あるストーリーをミュージカル映画として成立させたのは『エミリア・ペレス』が初めてではないだろうか。
逆からいえば、ミュージカル映画のクリシェを徹底的に排除しながら作られたのがこの映画なのだろう。歌やダンスのシーンを前面化したミュージカル映画には幾つかのパターンがある。定番とも言えるのは学園ものや街角もの。現代のそれには全盛期のミュージカル映画へのオマージュが織り込まれていることも多い。僕も昔に比べれば、これはジャンルのお約束ごとだから、と割り切って、そういうミュージカル映画を楽しんで観るようになってはいる。
だが、まだ誰も踏み込んでいないミュージカル映画の未来はあったのだ。『エミリア・ペレス』はそれを強烈に見せつける。音楽性はヴァラエティに富み、こういう場面だから、こういう音楽を使うというような短絡性を感じさせない。全体としてはダークな色合いが強く、サウンドはプログレッシヴと言ってもいい。ノスタルジアやローカリズムを前面化しがちなミュージカル映画とは対極にあると言ってもいいだろう。
音楽面を担当したのはフランスのシンガーのカミーユとマルチ・インストゥルメンタリストのクレマン・デュコル。カミーユは2002年のデビュー・アルバムを聴いたことがあったが、デュコルについては僕は何も知らなかった。調べてみると、カミーユのパートナーで、幾つか映画音楽も手がけているようだが、こうしたミュージカル映画の経験が豊富な訳ではないようだ。
カミーユとクレマン・デュコルが『エミリア・ペレス』の劇中歌を自演するスタジオ・ライヴ映像
ジャック・オーディアール監督は70代になって、初めてミュージカル映画を撮った。どういう経緯で、『エミリア・ペレス』という映画が生まれたのか、知りたくなったので、幾つかインタヴュー記事を読んでみた。すると、興味深いことがいろいろ分かった。まず、印象に残ったのはオーディアール監督が「ミュージカル映画はそんなに好きではないし、知識もあまり持っていない」と語っていることだった。一方で、彼は劇場で演じられるオペラには相応の興味があり、30年前からオペラを書きたいとは思っていたのだという。
もうひとつ驚いたのは、オーディアール監督はスペイン語まったく話せないということだった。脚本と曲の歌詞はカミーユに頼るところが大きく、ミュージカルの要素については、カミーユとデュコルにほぼ丸投げだったようだ。メキシコが舞台でも、音楽的にはさほどラテンに寄っていなかったのは、彼らによるフランス録音だったというのも大きいのだろう。『エミリア・ペレス』は撮影もすべてフランスで行われている。
ミュージカル映画について、オーディアール監督はそれは基本的にアメリカの文化であり、フランスでは細い歴史しかないとも語っていた。そして、最も影響を受けたミュージカル映画を一本だけ挙げるなら、それは『シェルブールの雨傘』であると。これを本作を読み解く重要なキーになりそうだ。
『シェルブールの雨傘』は1964年のフランス映画。ジャック・ドゥミが脚本・監督、主演はカトリーヌ・ドヌーヴ、音楽はミッシェル・ルグラン。ミュージカル映画の歴史的名作リストの上位に必ず入る、唯一のフランス映画だ。たぶん、オーディアール監督はそれをティーンエイジャーの頃に観たに違いない。
実を言うと、僕が10代の頃、初めて映画館に足を運んだミュージカル映画も『シェルブールの雨傘』だった。ミッシェル・ルグランによる主題曲のメロディーに惹かれて、自分向きの映画に違いないと信じて観に行った。ところが、それがミュージカル映画はまどろっこしい、と思うきっかけになってしまった。というのは、『シェルブールの雨傘』はセリフがまったくないミュージカル映画なのだ。「ゴハン食べる?」「いや、後にする」みたいな日常的な会話まで、いちいち歌になっている。
そんなミュージカル映画は実は数えるほどしかないのだが、オーディアール監督が『シェルブールの雨傘』以来のフランスのミュージカル映画の伝統を汲んでいるのだとすると、『エミリア・ペレス』がセリフの少ない、歌だけで複雑な状況説明をしていくミュージカル映画であることも頷けてくる。
『シェルブールの雨傘』はアルジェリアの内戦を背景に、従軍によって引き裂かれる恋人たちの人生を描く映画でもあった。アメリカのミュージカル映画のようなショービズ性は微塵もない。ミッシェル・ルグランの物哀しいメロディーの中に、それぞれの内心が幾重にも描きこまれていく。『エミリア・ペレス』は現代的なクライム・サスペンスだが、政治的なテーマを背景に持ち、主人公たちの内心に焦点を当てている点では、それと似ている。そして、そういう映画を作るには、セリフよりも歌やラップにメッセージを持たせた、純度の高いミュージカル映画を作る必要があったのだ。『シェルブールの雨傘』を久々に見返してみる中で、僕はそこに気づくことができた。
エミリア・ペレスを演じるカルラ・ソフィア・ガスコン
『エミリア・ペレス』には四人の女性が登場する。先述の女性弁護士・リタを演ずるゾーイ・サルダナ。恐怖の麻薬王・マニタスと性別移行して別人の女性として生きるエミリア・ペレスを演ずるのはトランス女性アクター、カルラ・ソフィア・ガスコンだ。マニタスの妻のジェシカ役のセレーナ・ゴメス。エミリアの恋人になるエピファニア役のアドリアーナ・パス。昨年のカンヌ映画祭ではこの四人全員が最優秀女優賞を獲得するという異例の受賞になった。
マニタスの妻のジェシカ役のセレーナ・ゴメス
4人の女性に共通するのは、男性優位な社会構造の中で抑圧を受けていたことだった。麻薬組織で家父長制の頂点に立っていた男が、積年の願いを果たし、女性として生まれ変わったことから、彼女達全員に新しい人生の可能性が訪れる。ヨーロッパでの隠遁生活をやめて、メキシコに舞い戻ったエミリアはリタを片腕に、行方不明者を捜索する慈善事業を始める。マニタスの親戚であると称して、スイスで避難生活を送っていたジェシカと子供達をメキシコに呼び寄せる。慈善事業の中で知りあったエピファニアを新しい恋人とする。
エミリアの恋人になるエピファニア役のアドリアーナ・パス
だが、かつての悪行の埋め合わせをするかのようなエミリアの慈善事業も、周囲の女性達の何不自由ない暮らしも、その原資は麻薬王・マニタスが築いたダーティーマネーだった。新しい人生を手に入れたかに見えた女性達は、それに呪われていくことになる。
リタはすべてを知っていた。だが、彼女が見てきた真実は誰にも言えない。セリフにはできないリタの心の叫び。しかし、ミュージカル映画という形式を取れば、それをラウドに表現することが可能になる。アカデミー賞の歌曲賞を受賞した「El Mal」という曲で、ゾーイ・サルダナが毒々しいラップを披露するシーンは象徴的だ。
慈善団体のパーティーでエミリアがスピーチしている、その最中にリタのパフォーマンスが始まる。だが、偽善的な篤志家達のテーブルに飛び乗る彼女の姿は、映画の登場人物達には見えていない。映画の観客だけが、リタの心の中の激しいパフォーマンスを見ているのだ。
ゾーイ・サルダナ演じるリタがラップを披露するシーン
言いたいことが言えない者の内心の叫びをスクリーンで爆発させる。そのためにジャック・オーディアール監督はミュージカル映画という形式を選択した。クライム・サスペンスをミュージカル化しても、サスペンスとしての緊迫感がまったく損なわれていないのは、その形式を用いる目的が明確だったからだろう。ミュージカル映画がさして好きではない映画監督だからこそ、照準は正確だった。アメリカのミュージカル映画は集団的な歓喜や祝祭の表現を得意とするが、フランスのミュージカル映画は孤独な魂の表現に向かう。『シェルブールの雨傘』から連なるそういうフランスのミュージカル映画の細い伝統、しかし鋼のように強い伝統の上に、新たな金字塔を打ち立てた作品が『エミリア・ペレス』なのだ。(高橋健太郎)
Text By Kentaro Takahashi

『エミリア・ペレス』
2025年3月28日(金)新宿ピカデリーほか全国公開
監督 : ジャック・オーディアール
出演 : ゾーイ・サルダナ、カルラ・ソフィア・ガスコン、セレーナ・ゴメス、アドリアーナ・パス
制作 : サンローラン プロダクション by アンソニー・ヴァカレロ
配給 : ギャガ
©2024 PAGE 114 –WHY NOT PRODUCTIONS –PATHÉ FILMS -FRANCE 2 CINÉMA
公式サイト
https://gaga.ne.jp/emiliaperez/