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「最後の人類から伝えたいことがあります」
ヨハン・ヨハンソンによる長編映画が投げかける、
人類の未来に残された希望

28 July 2021 | By Nami Igusa

「よく聞いてください」

「私たち最後の人類から伝えたいことがあります」

「私たちを助けて欲しいのです」



最後の人類だと名乗る何らかの生命体が、20億年後の未来から私たちに語りかける、その滅亡について。本作のそんな設定を、荒唐無稽であると一笑に伏すことが簡単にできないのは、“人類の滅亡”という未来をあながち否定できない状況に身を置いていることを、今まさに実感しているからかもしれない。これまでになく激しさを増す自然災害、泥沼化する内戦、そして終わりの見えない感染症……それらを前に、大げさでなく、人類はいよいよ終わりに向かっているという感覚が自然と胸に去来する瞬間も、ここ数年で増えた。

人類がある一線を越えなければ、上に挙げた事柄の数々も、これほどまでのことにはならなかったかもしれない。いや、実を言うと今こそが、人類が滅亡を免れるためのラストチャンスなのかもしれない。本作「最後にして最初の人類」から受け取れるのは、今の人類にとって、そんな絶望と紙一重の、希望である。

監督・脚本は、アイスランド出身の音楽家、ヨハン・ヨハンソン。一般的にはポスト・クラシカル分野のアーティストとして認知されつつも、『博士と彼女のセオリー』(2014)など、映画音楽も多く手掛けた。彼自身は2018年に48歳という若さで急逝しているが、その遺志を受け継いだスタッフが、彼の構想を元に完成させたのが本作である。劇中の音楽も彼によるものだが、ヨハンソンが亡くなった後は、ベルリン拠点の音楽家、ヤイール・エラザール・グロットマンが引き継ぎ、共作という形でクレジットされている。

本作の原作は、オラフ・ステープルドンによる1930年に出版された同名のSF小説。第一次大戦後、第二次大戦前という政治的に非常に不安定な時期のヨーロッパにおいて想像された、人類の未来を描いた作品だ。原作は、その当時のヨーロッパ情勢のさらなる混迷を描いたのち、最終的には、海王星に移住し“第18期人類”まで進化を遂げた末に滅亡を迎える人類の、20億年にわたる道のりを描いた一大叙事作品なのだが、この映画ではあえてその終末期のみがピックアップされている。

と言っても、その“第18期人類”=“最後の人類”が画面上に登場するわけではない。本作が特異なのは、そこだろう。本作には、人間がひとりも画面上に登場しないのだ。代わりに本作を構成するのは、荒廃した何らかの石像をゆっくりと映し続けるモノクロの映像、女性のナレーション、そしてヨハンソンによる荘厳な音楽のみである。

まず映像について見てみよう。いくつかの象徴的な造形をしたモニュメントを、まるでキューブリックの『2001年宇宙の旅』を意識したようなカメラワーク──定点のままゆっくりと視点を引いたり、舐めるように全体を俯瞰したりするカメラワーク──でとらえたものが、本作の映像のほぼ全てだ(*1)。今は見向きもされずポツンと佇んでいる石像たちだが、よく見ていくと、どこか未来的なデザインをしているように思えてくる。もちろん、第一義には、見放された地としての地球と人類の過去の傷跡を暗示しているのだろうが、また同時にそれらは、最後の人類が築き上げたと語る海王星の文明とその終焉の風景のようにも思えてくるのである。16mmフィルムで撮影された不鮮明な映像の質感もまた、その錯覚に寄与している。

この石像たちは、実際には旧ユーゴスラビア連邦の共産主義時代に建てられた“スポメニック” と呼ばれるモニュメント群なのだそうだ。かつてはバルカンの諸民族の統一のシンボルとして戦争の記憶を残す場所に建てられたものだが、今は打ち捨てられている、そんな“理想”の体現者たち。人類のユートピアはいったいどこにあるのか……そんなメッセージを、沈黙のまま、時代を超えて問いかけ続けているようにも感じられる。

映像自体はたしかに単調だ。だが、見る側の想像力と共感力によっては、ただ退屈なだけの映像にとどまらない。過去と未来が重なるようなこうした映像は、私たち“第1期人類”、すなわち“最初の人類”と、“最後の人類”である“第18期人類”の見ている景色は互いに関係しあい、リンクすることを私たちに投げかけているのだと言えるだろう。

それを補足するのが、ナレーションだ。上述の映像には、イギリスの女優、ティルダ・スウィントンによる、淀みない語りが併走している。これは、最初の人類が最後の人類に至るまでの20億年の道のりと、彼ら最後の人類の暮らしぶりの様子、そして彼らが直面している終焉について、私たちへのメッセージという体で投げかけられる言葉だ。ところどころ、声を実体化させたオシレーターの映像が差し込まれるので(それもまた『2001年宇宙の旅』を思わせるのだが)、その言葉たちがあたかも本当にこの映画を見ている私たちに向けて呼びかけられているようにも感じられるのである。

映像とナレーションは、一見、なんの関係もないようにも思えるかもしれない。だが、その最後の人類によれば、彼らは過去の記憶に憑依できるのだそうだ。そして、だからこそ今の私たちに「助けてほしい」と訴えているのである。つまり彼らはやはり、私たちと同じ景色を見ているのだ。荒廃した未来のユートピアの成れの果てを、人類の犯した過去の過ちの傷跡と重ねながら……。彼らは私たちであり、私たちは彼らなのである。ならば、彼ら=私たちを救えるのは、やはり今この時点の、私たちなのだろう。

「それでも確かなことがひとつあります。少なくとも、人間そのものが音楽であり、その壮大な伴奏、すなわち嵐や星たちを生み出す音楽を創造する雄々しい主旋律なのです。その限りでは人間そのものが万物の不滅の形式に潜む永遠の美なのです。人間であったとは、なんとすばらしいことでしょう」(ステープルドンによる原作より引用)

ヨハンソンがこの作品のために手がけた音楽は、極めて抽象的だ。それは、やがて星々の間に消えゆく、人間という種そのものを表現しようと試みたものだったのだろう。その構想は、オーケストラを軸としながら、ビートやリズムの希薄なドローンのようなサウンドを全編通して用い、そこに低音を強調した弦楽器の効果音のような旋律、異星人の言語のようにも聞こえるレクイエム風の女声のコーラスが彼方から聞こえてくるような音楽として、本作の中で昇華されている。そしてまた、最後の人類が私たちに言葉を残しながら終焉を受け入れるラストには、全てを悟ったかのように、安らかさに満ちたサウンドをも聴かせる演出も印象的だ。

なお、ヨハンソンの弟子で『JOKER』(2019)の劇伴も担当したムームのヒドゥル・グドナドッティルもヴォーカルとチェロで参加、他にも彼に近いアーティストが参加しているそうで、ヨハンソンの遺志を継ぐ者たちの「何としてもこの映画を世に送り出したい」という想いもここには込められているように思われる。

ヨハンソンの出身地であるアイスランドは、プレートが生成される海嶺の真上に存在する島でその意味では「地球が生まれる場所」とも言えるのだが、一方で、その厳しい環境ゆえに手つかずの場所が多く残っており、その清浄さには「こここそが、人類に残された最後の地なのだ」と、以前その地を訪れた筆者自身もつい感じてしまったほどであった。世界の始まりと終わりが同時に存在するその地で生まれ育ったヨハンソンが、生前最後に撮った映像作品。本作は、未来の人類からだけではなく、彼自身からの最後のメッセージでもあるのだ。(井草七海)


*1 原作の相関関係はその逆で、『2001年宇宙の旅』の原作者であるアーサー・C・クラークに多大な影響を与えたのが、本作の原作者、オラフ・ステープルドンだ。

Text By Nami Igusa


映画『最後にして最初の人類』

7月23日(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷、新宿シネマカリテ他全国順次公開
第70回ベルリン国際映画祭ベルリナーレ・スペシャル部門正式出品

監督:ヨハン・ヨハンソン
原作:オラフ・ステープルドン著「最後にして最初の人類」
ナレーション:ティルダ・スウィントン
プロデューサー:ヨハン・ヨハンソン、ソール・シグルヨンソン、シュトゥルラ・ブラント・グロヴレン
撮影:シュトゥルラ・ブラント・グロヴレン
音楽:ヨハン・ヨハンソン、ヤイール・エラザール・グロットマン
配給:シンカ
©2020 Zik Zak Filmworks / Johann Johannsson、©Sturla Brandth Grøvlen

公式サイト

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