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「自分は常にポップ・ミュージックを作っていると思ってる」
ノルウェーの才媛、ジェニー・ヴァルによるシンプルな回顧録

11 March 2022 | By Shino Okamura

昨年リリースされた、ロスト・ガールズのアルバム『Menneskekollektivet』は本当に素晴らしかった。ジェニー・ヴァルとホーヴァル・ヴォルデン(Håvard Volden)との二人組は、それ以前にも制作、リリースをしていたが、ロスト・ガールズとして届けられたそのデビュー作は、抑制の効いたエレクトロなのにフィジカルでプリミティヴな感触もある、エレクトロ・ファンクとも呼べるような1枚。内省と野性とが静かに重なり合っていく様は、“人間の集合体”という意味さながらに混沌としつつも整然とした佇まいを見事に伝えていたと言っていい。

そこから1年経たずして、今度はジェニー・ヴァルが《4AD》に移籍し約3年ぶりとなる新作『Classic Objects』をリリースした。彼女のキャリアの中ではこれまでになくポップな感触のアルバムではある。聴いているだけだと晴れやかな気持ちになる曲も多い。だが、彼女はただポップに寄ろうとしたのではなく、クラシック……すなわち“古典”という意味を本作で様々な対象物に重ねながらリモデルしようとしたのではないか。曲名だけ取り出せば“愛の年”という意味の「Year Of Love」からしても、愛という厄介な感情へのある種の覚悟というのも感じ取ることができるし、そもそもジェニーはただ甘ったるく凡庸な“愛”を再定義するような表現者などではない。文化、社会、風習、思想、主張、感情……あらゆるタームにおける古典たるものに向き合い、疑問を提起し、捉え直そうとする……その試みが本作の屋台骨になっているようにも思えるのだ。

ところで筆者は2017年にジェニーが初来日した際、京都公演で幕間のDJをつとめさせてもらっている。その時、直前のリハを観て、意外にダンサブルな側面があることに気づき、慌てて用意していた曲を少し変えてみた。すると、なるほど、寡黙でインテリジェント、でも髪型からファッションまでとてもヴィヴィッドで洒落たジェニーが、クラウト・ロックやヨーロッパ周辺のエレクトロより、アフリカのディスコや70年代のニューソウルの方に興味を示し、ブースまでやってきてはそれらのレコードを手にして「こういうの大好き」と喜んだのには当時少し驚いた。だが、今思えば、彼女のもう一つの側面がそうしたフィジカルな音に反応したに過ぎなかったのだろう。作家としても活動する才媛、ジェニーに久しぶりに話を訊いた。
(インタビュー・文/岡村詩野)

Interview with Jenny Hval

──新作の話の前に、去年リリースされたロスト・ガールズのファースト・アルバム『Menneskekollektivet』について聞かせてください。あのアルバムは本当に素晴らしく、様々なメディアで高く評価されましたし、私自身も2021年の個人ベストの1枚です。もともと同じHåvard VoldenとはNude On Sandとして2012年にセルフ・タイトルの作品を出していますが、名前も変わり、内容も全く別物という印象を受けますが、Håvard Voldenとはどのような流れで、そしてどのような音楽的ヴィジョンでロスト・ガールズをやることになったのでしょうか? 

Jenny Hval(以下、J):異なるレコーディングで同じ名前を名乗ることが果たして必要かどうかを二人で考え始めたの。その2つの作品の間も結構あいていたし、新しい名前で作品をリリースしてもいいんじゃないかと思った。それに、アイデンティティを切り替えてみるのもいいんじゃないかと思って。名前をキープするのって、ある意味自分を人から認識してもらうための術でしょ? でも私たちは、人々から認識してもらうことにあまりこだわりがなくて(笑)。だから、軽い気持ちで名前を変えることにしたの。もしかしたら、今後また違う名前で作品を作るかもしれないわね。

──では、そこからアルバム『Menneskekollektivet』がどういう流れで制作されたのでしょう?

J:『Menneskekollektivet』の数年前のNude On Sandにおけるコラボレーションは、アコースティック・ミュージックを一緒に演奏することから始まって、殆ど即興音楽という感じだった。でもそこから方向性が変わっていったのよね。私が自分のソロ・プロジェクトで忙しくなって2、3年間パフォーマンスを休んで間があいていたこともあり、そのあとまた一緒に演奏し始めると、その時周りにあったのが電子機材だった。だから、コンピューターやシンセ、エレキなんかを使うようになったの。中にはものすごく古いテープ・マシンみたいなコンピューターもあった(笑)。それが私たちの曲作りに大きく影響したというわけ。レコーディングは、なるたけライヴで全てをとらえたかった。だから大きな部屋に自分たちが演奏できるものをなるだけ多くセットして、殆どを生でレコーディングしたの。そのやり方は、私のソロ・プロジェクトとは全然とちがう。ソロの時は、自分で演奏するにしても、それをあとから重ねていくから。ロスト・ガールズのアルバムは、喜びに満ちていて、ライヴで、エネルギーが沢山詰まったレコード。レコーディングと同じ週に最初のロックダウンが始まったから、自分たちがその時にもっていた沢山のエナジーをレコーディングに注いだの。建物がガタガタ揺れて、もう少しで壊れそうだった(笑)。生演奏だけでそれくらいのエネルギーを生み出すことができたなんてすごいわよね。

──『Menneskekollektivet』収録の「Love, Lovers」などはアフロビートとハウスをかけ合わせたような静かな熱気を孕んだ曲ですし、ポリリズミックな5曲目「Real Life」に至ってはトゥアレグ族のギター・プレイを思わせるリフがそこかしこから聞こえてきます。抑制の効いたエレクトロなのにフィジカルでプリミティヴな感触もあって非常に興味深い作品だと感じました。エレクトロ・ファンクとも呼べるようなこの作品を聴いて、あなたやHåvardがシンセ・ポップの文脈にはそう簡単に吸収されまいとする意志を感じました。そうした対極の感触を一つの作品の中で共存させる上で最も難しかったポイントはどういうところでしたか? 

J:難しかったのは、音を整理すること。レコーディングの前に何度もライヴで演奏していたんだけど、その過程で色々な問題を乗り越えなければならなかった。テクノロジーの取り入れ方、セットアップの方法、どの要素を削るべきかの判断。それを解決しながら進めていったから、実際のレコーディングの時はそこまで大変ではなかった。でもレコーディングの前にショーをやっていなかったら、すごく大変だったでしょうね。エネルギーいっぱいのライブの要素と、ベーシックなドラムマシン、そしてコンピューターで作られたものが入り混ざっているから。その全てのタイミングを決めるのと、実際に使う要素を厳選するのに一年くらいかかった。それは他のプロジェクトではあまりやったことがなかったから面白い経験だったわ。あと、パンデミックがあったから、レコーディングは自分たちが思っていたよりもシンプルなものになったの。スタジオでパフォーマンスしていたら、パンデミックのニュースが飛び込んできた。それを聴いて、頭がそっちでもいっぱいになり、今録れるものをとりあえず録って、レコーディングを済ませようということになった。だから、考えていたよりも録った材料が少なくて、レコーディングに再び取り掛かった時は、選択肢が前より減って楽だったわ。

──ロスト・ガールズの音作り、録音の上でリファレンスとした他アーティストの作品にはどういうものがあったのでしょうか?

J:たくさんあった。期間が長かったから沢山あったし、変化もしていったわね。結構前の話でどんな作品があったか忘れちゃったけど、思い出してみるわね(笑)……Håvardのもう一つのバンド、Moon Relayからは影響を受けたと思う。インスト・バンドなんだけど、ロスト・ガールズといくつか同じ要素が使われていて。Moon Relayでは彼はそれを私とではなくてギタリストと演奏しているの。ギターラインが織り合わさっていて、共存しないものを共存させている感じ。それが、すごいエネルギーを生み出しているの。ある意味すごくダンサブル。そういう点でMoon Relayからは沢山影響を受けたわね。それから、作曲家のRobert Ashley。彼の音楽で使われている話し言葉に私が影響を受けた。朗読のような感じ。彼ら以外にも沢山いるんだけど、今思いつくのはその二組かな。

──さて、その『Menneskekollektivet』から1年と経たずして、あなた自身のニュー・アルバムがこうして届けられるようになったことは本当に驚くべきことです。《4AD》移籍第一弾ともなる今作、非常にポップなフックとオーセンティックなタッチの仕上がりになっていて、とても心踊らされました。ソロとして高い評価を得た躍動的な前作『The Practice Of Love』(2019年)と地続きであることを一つの指針にしながら完成させたような印象もあります。振り返ってみて、『The Practice Of Love』はこれまでに多くの作品を出してきたあなたにとって、どのような意味を持つ、どのような位置づけの作品だったと言えますか? 

J:そのレコードも、私にとっては『Menneskekollektivet』と同じく“人間の集合体”(Menneskekollektivetの意味)で、それを自分自身のプロジェクトとしてロスト・ガールズとはまた違った声を使って作りたかったの。だから他の人々に頼んで、私が書いた文章を声に出して読んでもらい、私と会話をしてもらった。コラボレーターはみんな他国に住んでいて、リモートでレコーディングしたの。今で言うところのソーシャル・ディスタンスのプロジェクトだった。そういう意味では、デモを作って、すごく自分のプロダクション・ワークがベースになっている。ロスト・ガールズはもっとスタジオにいってライヴっぽいプロジェクトだった。アレンジメント、デモを作って、他の声をその世界に招く、という感じ。だから私にとって『The Practice Of Love』はパーソナル・ドキュメント。当時の私の興味、変なトランスとか、シンセといったものが反映されている。だから次のソロ・プロジェクトは違うものを作りたいな、と思っていた。今までは自分が楽器を上手く弾けないと、面白いサウンドにするために複雑なサウンドを入れないといけなかった。キーボードで一つ弾いたら変な音がするとか。曲を演奏するというよりは、キーボードでサウンドをプレイすることことや、そのサウンドを作るためにシンセのつまみを操るのはうまくなった。キーボードをプレイすること自体よりも。だから今回は他の人に楽器を弾いてもらって、参加ミュージシャンたちと世界との繋がり、自然との繋がりもテーマの一つとして捉えたと言ってもいいわ。

──そこから今作に向かって、どういう着地点を想定していたのでしょうか?

J:ヴィジョンはあまりなかったと思う。パンデミックの中の4、5ヶ月で、いずれ本にできたらなと思いながら沢山文章を書いていたんだけど、それがどんどん長くなって収拾がつかなくなってきたから、しばらくそれから離れることにしたの。で、その書いた文章からいくつかの部分を取り出して、代わりに歌詞を書き始めた。とにかく書いた文章の言葉が多すぎて、それを書き続けるよりも、凝縮していく作業の方が面白く感じたのよね。そういう流れで書き始めたから、ヴィジョンは持っていなかった。何か作業をしていれば、それが自然とどこかへ導いてくれるというのはよくあるし、私にとっては、何かを作ろうと無理やり考えないことは重要なのよね。それを考えてしまうと、私は何も出来なくなってしまうから。今回は、そうやって歌詞を書き始めて作業を続けているうちに、回顧録のようなシンプルなストーリーを書きたいと思うようになった。多分それは、ロックダウンで何も新しいことが周りで起こっていなかったから、過去を振り返り、それについて何かを書く方がやりやすかったからだと思う。パンデミック期間はずっと狭い部屋にいたでしょ? 特に東京なんて、小さなアパートに皆住んでいるから、すごく限られた空間しか自分の周りに存在しないわけよね。そんな中で、今世界にはどれくらい空っぽの空間が存在しているんだろうと考えるようになった。ライヴ会場もそうだし、美術館もそうだし、閉鎖されている全ての建物のこと。そして、狭い自分の家という空間に、本来だったら自分がいるであろう空間を足してレイヤーを作っていったの。そういう空っぽの空間の中で、以前自分が何もしていたかを思い出しながら。それがアルバムの構成要素になっていった。あと、楽器を全て演奏することに疲れていたし、ドラム・トラックを作ることにも少し飽きてしまっていた。だから今回は、スタジオに入ってレコーディングをしたかったの。もう何年もそれをしてなかったし、フルバンドと一緒に演奏する、ということもあまりやったことがなかった。だから、それも今回のレコードでやってみたかったことの一つだったわね。私の音楽の場合、歌詞が中心的になっている部分も大きい。だから、歌詞を背景として楽器の一つに扱うのは難しい。だから、バンドが出てくる部分と歌詞が出てくる部分のバランスも考えた。バンドが演奏し、それがリヴァーブのようにまだ残っているところに私が入る、とか、そういうことをイメージしていたわ。

──第一弾先行曲でもあった約8分もの長尺曲「Jupiter」が象徴的です。前半は優美な旋律とあなたのシルキーな歌声が、シンセサイザーの冷んやりした音のヴェールと穏やかに刻まれるパーカッションと共に曲を牽引するも、後半になるとアブストラクトなエレクトロが展開され、MVでは“Close your eyes now. Listen. There is nothing left to see.”というメッセージが現れてからノイズと化していく最終盤では序盤の美しさを見事に塗り替えていく……という構成がまた見事です。この曲であなたが表現しようとしたものはどういうテーゼだったのでしょうか? 

J:「Jupiter」は、5、6年前に歌詞がないまま曲を書き始めた作品。その曲のデモの中から唯一キープした言葉が”Jupiter”だったの。他の言葉はあまり印象が強くなくて。なんで自分がデモで”Jupiter”と歌っていたのか私にもわからないんだけど、歌詞がつく前の曲が、遠くの惑星に呼びかけている感じがしたんじゃないかと思う。あの曲のメロディが、色々なジャンルの間を旅しているような感じがしたのよね。ソウルとか、ジャズっぽいんだけどフォーク・ソングっぽくもあって。そして曲の進み方が、人間の世界から宇宙へ入っていくかのように感じた。なんだか地球から天へと登っていくような感覚を覚えたの。私にとっては、すごくスピリチュアルな作品ね。

──スピリチュアルといえば、あなたは今作の制作前にヌスラット・ファテ・アリ・ハーンのカッワーリーやアリス・コルトレーンのアシュラム音源など、儀礼音楽や礼拝音楽も聴いていたそうですね。

J:ええ。今回のアルバムを作るずっと前、パンデミックが始まる前の話よ。ヌスラットは有名な中東のアーティストで、宗教音楽を長い間パフォーマンスしているでしょ? 彼の作品の中に30分もある長いトラックがあって、それはすごく美しくてメロディックなんだけど、音の要素に飲み込まれて何が何だかわからなくもなる。そこにすごく魅力を感じたのよね。なんだかそこに信仰を感じて。私は、ある意味ポップ・ミュージックも信仰的だと思う。コーラスへ向けての高揚感と美しいメロディ……ええ、そうね、そういう点では影響を受けているかもしれないわね。

──信仰、アート、ポップ・ミュージックの相関性は極めて深いものですが、あなたは今作のプレスリリースで「アーティストは、人前で表現するということが許されていなかったので、私たちアーティストは、もはやアーティストではなくなった。私たちはアートがない状態のアーティストだったのだ。アートがない私は、「ただの自分」という疑わしい存在に成り下がったのだった」と綴っています。この「ただの自分」という表現がとても興味深いのですが、そこには「アートがない状態のアーティスト」という立場に対するジレンマも感じられますし、ある種の悟りやシニシズムも感じられます。

 

J:それを言ったのは、パンデミックで公の場でパフォーマンスができなくなったから。アーティストたちは今でもアーティストではあるけれど、自分たちのアートが取り去られてしまったかのように感じてしまって。アーティストからアートをとったら、それはただの自分だなと感じて、その言葉を使ったのよ。それは、10代の私が恐れていた自分だった。私は小さな街で育ったんだけど、その街から出たくてたまらなくて、それが私のゴールだったの(笑)。でも、そうしないと自分が見つけられない気がした。だから、他の国にいって、その街では出来ない他のことがしてみたかった。結果、私はそれを実行したの。そういう意味で、私にとってアートというのは、外へ出ることや人前でパフォーマンスすることと深い繋がりを持っている。だから、パンデミックの最初の頃は、小さな街に残り、何も出来ない自分になってしまったような感覚に陥ってしまったのよね。でも生活を続けるうちに、新しいライフスタイルを見つけることが出来た。家をベースにしたプロジェクトが進められることもだんだんとわかってきたの。インスピレーションがあまりないから、それは容易なことではなかった。でも、このアルバム制作は、自分は生きているということを感じるためにすごく役立ったと思う。

──ただ、おそらく世の中の多くの人が普段から「ただの自分」なのだと思います。それは「アートにはさして関心がなく、日々を生きている」という意味で「ただの自分」かもしれないですし、「アートに関心はあるが、さして何も表現するものがなく、その手段も才能もなく、ただ日々を生きている」という意味で「ただの自分」かもしれません。

J:ええ、今回のアルバムは、外の世界からのインスピレーションはあまり含まれてないかもしれない。でも、ホーム・アルバムとして良い作品を作ることが出来たと思うし、昔を振り返ってストーリーを考え、自分自身の人生をインスピレーションにすることも出来た。家にずっといてパフォーマンスが出来ない自分とは誰かを考えるのは興味深かったし、それがシンプルな回顧録のようなストーリーを書きたいという意欲に繋がったの。そのシンプルなストーリーを音に組み合わせ始めると、それが想像の世界のように姿を変えていき、とても興味をそそられた。音楽と一つになることで、現実には存在しないキャラクターが生まれたり、起こってないことが起こったり、私が一度も行ったことのない空間が作られたりした。その制作過程は、私にとってすごく面白い経験だったわ。狭い部屋にいて壁に割れ目を見つけ、そこから外を見て世界が広がっていく感じね(笑)。

──そんな逡巡を経た上で作り上げた今作は、一方で、あくまで一聴した状態では、とてもポピュラリティのある、これまでのあなたの作品の中でも最もキャッチーなフックを持った作品に仕上がっています。もちろん、さきほども話した「Jupiter」のように構成面で決してポップでキャッチーなだけの作品ではありませんが、なぜポップな手応えの作品になったと言えますか?

J:私自身は、自分は常にポップ・ミュージックを作っていると思ってる。でも今回は、さっき壁の割れ目の話をしたけど、それをメロディを使ってその世界を見つけてみたいと思ったの。流れを閉ざすようなメロディではなく、色々な場所へ連れて行ってくれるようなメロディ。まるでストーリーを語っているような、冒険をしているようなメロディ。前回のアルバムの時は、もっと混乱を招いたり、流れを切る感じの構成を意識していたんだけどね。

──ええ、“愛の年”という意味の「Year Of Love」という曲の歌詞からは、確かに開放的に外へと誘われるようなあなたの思いが感じられます。あの曲のリリックはステージの最中に求婚されたというエピソードから作られたものだそうですね。

J:そう、でもそれは私ではなくて、会場に来ていたお客さんなの。私はステージの上でパフォーマンスをしていたんだけれど、一列目のある人がその人のガールフレンドにプロポーズをし始めたの。私の目の前で(笑)。だから、私もそのプロポーズの一部というか、彼の影になったような感じがした。すごく変な経験だったわ。その時私は「The Practice of Love」(同名アルバムに収録)をプレイしていて、結婚に現れる男女の恋愛と別の愛について歌っていたの。私、結婚という愛には以前から疑問を抱いていてね。プロポーズとは矛盾するその歌の前でプロポーズが行われているというのは、私にとってはすごく気まずかったのよね。でも同時に、私自身は結婚しているし、私自身その曲に矛盾しているなとも思った。私自身がどれだけ自分の音楽に対して矛盾しているかが明らかにされた瞬間でもあったってわけ。「Year Of Love」は、自分がステージで歌っていることが、人間である自分の姿と矛盾しているという事実が映し出された曲。アーティストにもプライベートがあり、ステージや作品との間に必ず矛盾は存在するし、その解決法は私にはわからない。でも、その複雑さを逆に楽しんでその中を漂うような曲を作ってみようと思ったの。タイトルは、特に意味はなくて、ジョークみたいなもの(笑)。「The Practice Of Love」をパフォーマンスしていた年、という感じかな。それに、今回の新しいアルバムを作っていた時、最初は全てのタイトルに”Year of〜”をつけていたの。そこに前回のアルバムのタイトルをくっつけて、「Year of Love」にしたというわけ。18歳くらいの時は、結婚するくらいなら死んだ方がマシ、くらい思ってた(笑)。それがパンクとも思ってたしね。でも実際結婚してみると、自分でもびっくりだけどすごく心地がいいの。良いものだな、と思うようになったのよ。

──今作にはHåvard Voldenはもちろんのこと、Johan Lindvall、インプロ・シーンで活動するNatali Abrahamsen Garnerなど地元ノルウェーのミュージシャン仲間が大勢参加しています。あなたはこれまでも地元のアーティストたちと積極的に共演していますが、こうした活動にはノルウェーの音楽の現場を活性化させたいという気持ちがあるからなのでしょうか? そんなあなたが最も注目する今のノルウェーのアーティストをいくつかおしえてください。

J:地元のミュージシャンたちが多く参加しているのは、パンデミックの中で会える人たちが彼らだったから。レコーディングは2回のロックダウンの間で行われたから、あまり遠くに行ったり遠くの人を呼ぶ気にはなれなかった。今回のアルバムでは、アコースティックのサウンド欲しかったのよね。これまでずっと共演したいと思っていたけどアコースティックのサウンドの出番がなくて話が止まっていたミュージシャンたちもいたんだけど、それを実行することが出来た。アコースティックというか、生演奏かな。シンセなんかも含まれるから。今、注目しているのは、ノルウェーじゃなくて近いからデンマークなんだけどClarissa Connelly。彼女はアルバムを2枚リリースしているんだけれど、彼女の音楽は本当に美しい。私が彼女の音楽に惹かれるのは、反復的な要素が沢山使われているからだと思う。それに、アレンジが型破りなところ。すごく新鮮で、メロディや声がすごく面白いの。

──あなたは作家としても2018年に『Paradise Rot』、2020年には『Girls Against God』などの本を上梓しています。音のない、造作の見えない執筆という作業と、造作そのものを見せるパフォーマンスや演奏という作業を繋ぐポイントはどういうところにあると言えますか?

J:私にとって、その2つはタイプが違う異なる作業。言葉を書くだけの方が、音を使うよりも仕上げるのにすごく時間がかかる。執筆は考えに考えて出来上がって行くんだけれど、音楽の場合は自然の流れですぐに出来上がるの。言葉にしなくても、音楽が文脈を作ってくれる。だから、あまり多くの言葉を使う必要がない。そしてもう一つの理由は、歌詞を英語で書くから。もちろん自分の第一言語だからノルウェー語で歌詞を書くことも何度かトライしてみた。でも、自分が昔から聴いてきた音楽は英語のものばかりだから、ノルウェー語で音楽を作ることは私にとってはすごく難しいのよね。そして、英語は自分にとって最も身近な言語でないからこそ、音に夢中になり、それをただ楽しむことが出来る。でも自分の言語だと、その言葉がもっと重くなるの。自分が育った背景や事実と深い繋がりを持つ言語だから。ノルウェー語は成長期の私にとっての日常的な言語であり、もっとリアルなものだった。でも英語はそうではないから、聴く時はもっと自由でいられたのよね。英語で聴く音楽、英語というものは、私にとって開放的な空間のようなものなの。あと、音楽の場合は、一旦休憩することでまた直感が働くようになり、逆に前進できることもあると思う。でも執筆は、なんだか常に書いていないといけないような気がする。ずっと考え続けることで、より良い文章に変化していくような気がするからなの。

<了>

Text By Shino Okamura

Photo By Jenny Berger Myhre


Jenny Hval

Classic Objects

LABEL : 4AD / Beatink
RELEASE DATE : 2022.03.11


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